トランスミッター

うつぼ

トランスミッター

 深い夜の底、月夜が美しい。

 うっすらと霧雨が降っていた。濡れたアスファルトに月が丸く映る。密やかなる無音の中、金切り声がアスファルトを削った。耳の奥にある鼓膜の裏側を爪で引っかく痛みが頭に走る。真っ赤なテールライトが闇に弧を描き、余韻すら残さず消えていく。

 再び訪れる無音の世界に小さな息づかいが聞こえた。月が映しだすのはこんな時間に、こんな場所に似つかわしくない二人の子供。子供は立ち尽くし、月光が金切り声の正体を明らかにする。その正体にゆっくりと歩み寄り、手を伸ばす。薄汚れたTシャツの袖元から見える両の腕には隠すことのできない赤い痣と青い痣が斑に浮かんでいる。

 金切り声の正体は猫だった。車のタイヤに腹が潰され、内臓がこぼれている。でも、まだ生きている。苦しげな呼吸に腹が少し膨れては、空気の抜ける風船のように萎む。こと切れるのを待っている。そんな猫に子供達は奇妙な親近感を抱いた。明日、明後日生きていることの保証のない自分達にどこか似ていると。

 猫は鳴き声を上げようとした。しかし、口から泡の混じった血が流れるだけだった。

「兄ちゃん、見えなかったのかな」、弟は兄のTシャツの裾をつまむ。

「多分、見えてるよ。でも、見えないふりをしてるんだ。みんな」、子供っぽい声に諦めの感情がにじんでいる。兄は弟の手をTシャツごと強く握る。車に轢かれた猫が舌を出して、「仕方がないよ。そういうものだ」と答えた気がする。うちに猫が動かなくなった。こと切れたのだ。生きていることで生物は熱を帯びる。こと切れた生物は熱を奪われるだけ。急速に冷めていく猫は亡骸となった。その亡骸を優しく抱える兄。猫は命を失ったと同時に心も失っていて、とても軽くて。

 深い夜の底には冷たい空気がゆっくりと流れていた。


 その男は馬渕と言った。赤く錆びついた鉄骨の螺旋階段を一段一段噛みつき上る。むきだしの骨と骨が衝突するような足音、とても乾いた音だ。足音が生まれては階段板の隙間に落ちて消える。螺旋階段の遥か下にある地面で落ちて砕ける足音、その破片がごみくずのように散らばっている。馬渕がそんな足音の行く末を気にかけることはない。ただ螺旋階段の上を目指す。今はそれだけが馬渕に許された行動だった。

 馬渕という男が持っていたのは権力に守られた狂気だ。その権力は本人のものではない。権力を持っていたのは馬淵の父である。この国のトップがひれ伏すほどの権力だ。この国を動かす巨大な脳は政治家と呼ばれる脳細胞の集合体。政治家の目的は私腹と欲望を満たすこと。その目的を果たすためのシステムは権力者にとって都合のよいものでなくてはならない。システムを構築する過程で生まれる汚れ仕事を請け負うことで政治家の弱みを握り、絶対的な権力を手に入れ、父は怪物となった。

 怪物となった父の庇護の元、その権力に守られた狂気を振りかざす馬淵。まるでこの国の脳に浸潤する癌細胞のようなものだ。その癌細胞もいつかは父と同じく怪物となることが容易に想像できる。

 馬渕を息子として溺愛した父。愛しい馬渕が起こした行いを全て許し、権力で守った。仮に馬渕が人を殺したとしよう。人を殺せば、誰もが罪を負い、罰が待つ。それが法治国家の常識。そんな常識も父は簡単に握り潰す。これは仮定の話ではない。馬渕は狂気のままに人を殺している。

 馬淵本人が直接的に人を殺すことも、間接的に人を殺すこともあった。その数はすでに分からないほど、馬渕に人生を狂わされた弱者がこの世界に溢れていた。

 父は馬淵が起こした殺人に何を思うのだろうか。

 弱者の苦しみや悲しみよりもひたすらに馬淵を守ることに傾倒する。そんな溺愛で馬淵が背負うべき罪には身代わりを立てる。必要があれば、金と暴力でその罪を握り潰す。父の権力という堅固な鎧を身に纏う馬渕の所業は理不尽で不条理であっても全てが許される。世界が不平等に完成していた。

 それ故に馬渕に良心が育たなかったのか。それを教えるものがいなかったからなのか。はたまた生来の気質によるものなのか。そんなことはもうどうでもいいこと。馬渕はその罪により螺旋階段の終わりと同時に現れる見晴らしのいい屋上から飛び降りる罰が確定されていた。

 青く広い空に太陽が浮かぶ。その下、四角形に広がる高層ビルの屋上、いつか使用されることを夢見る鉄材がブルーシートに覆われて眠る。ブルーシートが鳥の翼のように風でバタついて五月蝿かった。屋上から見える景色、高層ビルの群れが格子状に並び、太陽光に照らされている。硬質化処理された窓硝子が太陽光を黄金色に反射させる。まんざら悪い景色ではない。いや、むしろ太陽光が乱反射し幾何学的な光の芸術品のように美しかった。その景色を見る十人中九人が肯定的な感情を抱くはず。屋上に立つ馬渕にはそんな感情すら理解できない。すでに己の意思のない操り人形でしかなかった。

 人間と同じ背の高さを持つ七節が肩を組んでいるようないびつな鉄柵、人を支えるには脆く頼りない。その存在意義である自殺防止という役目を果たせるかも疑問だ。馬淵が鉄柵に手をかけた。経年劣化から塗料屑が剥がれ、風に舞う。馬渕は両の手を左右に伸ばし、鉄柵の上に立つ。澄んだ青色の空がとても近い。その姿は翼を広げた鳥のようにも、十字架を背負う罪人のようにも映った。

 待ってましたとばかりに激しくうねる風が龍の顎の如く馬渕を体ごと咥え、鉄柵から引きずりおろした。落ちてしまえば終わり。重力に抗う術などない。ただ一直線に頭から簡単に落ちていくだけ。

 落ちゆく馬渕の表情に死の恐怖はなかった。上から下へと流れていく景色が目に映っては消える。地面までは一瞬。コンクリート仕立ての地面に頭から叩きつけられ爆ぜた。

 硬いコンクリートに馬淵の頭蓋骨が砕ける。折れた肋骨が鋭い牙となり、内臓器官を搔き回す。割れた頭蓋骨という器から半固形状の脳みそがこぼれている。衝撃で体中の血液がコンクリートの上を放射線状に赤黒く染める。その姿にかつての馬淵の姿はない。ただ焼けたコンクリートの上に血の模様が描かれ、その中心にそびえ立つ奇妙なオブジェのように見える。そんな馬淵を迎えいれるのは歓声に似た悲鳴。突然、空から振ってきた人間とその壊れゆく様子に輪唱のように悲鳴が飛び交い重ねられる。かつて人間であった奇妙なオブジェと悲鳴、非日常的な景色は誰ものスマホに撮影され拡散される。それも今この時だけ。瞬きする間に簡単に忘れ去られる。それほどまでに世界には大量の情報が溢れ、常に過去を上書きする。刹那的な世界ではこんなこと日常茶飯事なのだ。


 これはユウの頭の中の出来事。視覚や聴覚で得られる現実の出来事ではない。頭の中にある脳細胞の一つ一つが作りだす映像と感覚、脳の奥深い場所で重く鈍い音が生まれていた。馬渕が地面に叩きつけられた音だ。たかが音。しかし、それは絶大な存在感を持ち、形や色、匂いさえ感じさせる。屋上から飛び降りたのは馬淵であって、ユウではない。その証拠にユウには何の外傷もない。本来存在するはずのない痛みが脳内に生まれ、体を支配する。ユウは痛みで呻き声を漏らし、うずくまった。

 奇妙なオブジェとなった馬渕の痛みがユウの中に流れ込んでくる。それは馬淵が完全に死ぬまで終わらない。ユウの持つ特殊能力トランスミッター、それが引き起こす同一視現象だ。痛みに耐え、自らの体を支えるように抱き締める。涙が流れた。これは死だ。全てを奪い尽くし、最後には痛みすら消え、何も残らない。無の世界が訪れる。馬淵の死に世界が色を失っていく。

 やがて、馬渕の命が消える。それとともに痛みは嘘のように消えた。馬淵の死に無となった世界が色を取り戻していく。何も残らないはずの無の世界で最後に残ったのはいつもと変わらない景色だった。

 ユウは上着のポケットにあったペッドボトルを取り出す。キャップを捻じるように開けた。ミネラルウォーターを喉に流し込む。ゲホゲホとむせながらも、体は水分を吸収する。見知らぬ人の足音と足跡がアスファルト越しに伝わってくる。視界に現れては消える人波に自分以外の世界は廻り、自分だけが時間の止まった世界にいるような気がしていた。


 世界には正義が必要だった。不平等な世界を正すための正義。法治国家と呼ばれる世界で罪を償うこともせず、のうのうと生きる人間がいる。それはこの世界の強者。強者がふんぞり返り、弱者が嘆くだけの世界。罰を受けることのない強者に罰を与える正義には力が必要だ。そのための力。それが殺し屋という名前の剣となった。

 殺し屋はみなあだ名を持っている。美しいナイフで喉を掻っ切るナイフ使い、ライフルで正確に頭を撃ち抜くスナイパー、未知の毒物で命を奪う毒殺屋、殺す方法であだ名が決まる。その中で痕跡を残さない殺し屋と呼ばれるものがいた。言葉通り殺したという痕跡を一切残さない殺し屋だ。ナイフ使いはナイフ、スナイパーは銃弾、毒殺屋は毒物、みな痕跡は残す。そんな痕跡を残さないからそう呼ばれた。その殺人方法は謎に包まれている。まるで都市伝説。その痕跡を残さない殺し屋とはユウのことだった。

 トランスミッター、ユウは殺しの手段である特殊能力にそう名前をつけた。他の殺し屋のように眼に見える道具は使わない。では、どうやって人を殺すのか。トランスミッターという言葉は送信機を意味する。言葉の意味通り送信する能力。送信先は殺しのターゲットとなる人間の脳。送信するのは疑似記憶。疑似記憶はユウの頭の中で生成される。生成された疑似記憶をターゲットの脳の奥底に植え付ける。ターゲットは疑似記憶に基づいた行動で死んでいく。馬渕は飛び降り自殺をした。それは馬渕の意思ではなく、植え付けられた疑似記憶のままに動いた結果だ。決して己の罪を償うために自らの意思で飛び降りたわけではない。馬渕に全てを奪われて殺しても殺し足りない。そう願う人間がいたから。馬淵を殺してくれと依頼があったから、ユウはその依頼を成したのだ。

 痕跡を残さない殺し屋は仕事。仕事だから、馬渕が許せないという感情で仕事を行ってはいけない。馬淵を殺す理由がいる。それが殺しの依頼だ。殺しの依頼があって初めて仕事とし成立する。

 ユウのトランスミッターだけで痕跡を残さない殺し屋は完成しない。痕跡を残さない殺し屋を完成させるにはもう一つのピース、トランスミッターという送信機と対になるものが必要だ。つまりは受信機。それを弟であるケイが持っている。レシーバーという特殊能力だ。

 この世界に二人きりの兄弟、ユウとケイに賦与された特殊能力トランスミッターとレシーバー。トランスミッターと対になるレシーバーとはトランスミッターで生成された疑似記憶をターゲットの脳に植え付けるための受信機を埋め込む能力。トランスミッターと同じくその痕跡は残さない。神様からの贈り物か。それとも、悪魔の呪いか。何にしてもこの特殊能力のおかげで二人はこの世界で生きてこられた。

 人類は進化し、科学技術を発達させた結果、未成熟なアナログ世界が破壊され、完熟したデジタル世界がやってきた。人類が作り出した世界は法治国家であり、監視社会。あらゆる場所にカメラがあり、二四時間疲れも知らず動き続けている。今のユウの姿もカメラは確実に捉えている。その姿を監視カメラが捉えていたとしても、脳の中までは捉えることはできない。他の殺し屋とは違う。痕跡を残さない殺し屋と呼ばれる所以がそこにあった。

 馬渕の死の痛みから解放されたユウは立ち上がる。ポケットの中でスマホが震えていた。スマホを取り出し、耳に当てる。「ああ」とだけ答えた。ユウの言葉に対して言葉が紡がれる。

「無事完了したか?」

「ああ、馬渕はダイブして死んだよ」

「それはよかった。お前の体は大丈夫か?」

優しさという感情を含んだ言葉だった。スポンジが水を吸収するように優しさが心を触る。

「ああ、なんとかね」

「ならいい。後はゆっくり休めよ」

「分かっているよ」

ユウはスマホを切った。耳の奥にある鼓膜だろうか。それとも、脳の中だろうか。優しさがいつまでも残っていた。スマホの相手は佐久間という男。ユウとケイの里親であり、この仕事の仲介者だ。痕跡を残さない殺し屋と呼ばれ、今こうして生きていられるのもこの佐久間のおかげだと知っている。感謝すべきだろう。佐久間がいなければ、ユウもケイも今ここにはいない。それを言葉にしたところで「気にすることはない。そういう契約だ」と佐久間はきっと笑う。そんな想像が容易にできるから感謝の言葉を伝えたこともない。いつか伝えられればいいとユウは思った。地面にへばりつく馬淵というオブジェを回収するためサイレンをけたたましく鳴らし救急車が通り過ぎていく。「向こうはもうとっくに死んでいる。こっちの方が重症だよ」と小さく呟き、アスファルトに伸びる影へと視線を移す。影の先には交差点があった。交差点には人が塊となっている。まるで海中で群れる鰯玉のようだ。鰯は小さくて弱い。だから、外敵から身を守るため、鰯玉という群れを作る。信号が赤から緑へと変わる。それに促され、鰯玉は群れのまま、横断歩道に流れ出す。その群れに紛れるようにユウは混じっていく。痕跡を残さない殺し屋は鰯玉という目眩ましの中に簡単に消えて、もう見えなくなった。


 小さな公園で奥村はベンチに座っていた。年齢は二十六歳。脂ぎった髪の毛は陰毛のように縮れている。髪の毛とつながるようにもみあげから顎下にかけて不揃いな無精髭が広がる。洗濯で擦り切れたTシャツは色褪せ、かつては色鮮やかであったであろうアニメのキャラクターがうっすらと浮かび上がる。膝穴が覗くジーパンもデニム特有の色素が落ちてみすぼらしく、明らかに不潔そうな足先を飾るサンダルは便所用のスリッパにしか見えなかった。

 奥村は煙草に火を点けて煙を吐いた。咳だかゲップだか分からない音を発して、ヤニで黄色くなった歯が顔を出す。足元に吸い殻で小さな山ができている。その傍らには飲み潰された缶ビールが幾つも転がる。煙草、ビールで喉を濡らすという行為をエンドレスに繰り返していた。

 見てくれだけでなく、その行動もみっともなく、不快感しか感じない。当然であるが、本人にそんな自覚などない。

 真っ昼間から煙草、ビールにまみれる奥村は特殊な性癖を持っていた。少女嗜好者、ロリータコンプレックスだ。そんな性癖のため、常に少女誘拐を妄想している。いや、妄想だけではない。少女誘拐を昔実行している。それは九年前のことだ。

 奥村が十七歳の時に近所の公園で見つけた少女を連れ去り、三日間部屋に監禁する。それは全く計画性のないものだった。複数の目撃証言から奥村という未成年の容疑者が容易に浮かび上がる。警察官が奥村の家に乗り込み、少女を救い出し、三日間で少女誘拐事件は解決した。

 奥村の父と母は普通の中流家庭。野球好きな父は幼い奥村を無理矢理外に連れ出し、キャッチボールをさせる。うまくキャッチができなければ怒声が飛び、いつまでも上達しない奥村に次第に諦めの感情を抱くようになる。母はそんな父に奥村をかばうことなく追従し、キャッチボールすらできない、何もできない子と認定する。父の諦め、母の追従、この時点で奥村自身が何もできないと決めつけ、家族の中で孤立していた。それが原因だったのか、学校でも誰ともコミュニケーションが取れず、孤立し、行かなくなる。学校すら行けなくなった息子を認めることができなかった父と母は世間体ばかり気にして、いっそ死んでくれたらいいと思うようになる。

 家族や学校という人並みな社会から孤立した奥村の世界は自分の部屋のみ。食事と排便、入浴という必要最低限の出入りだけで、それ以外は部屋に閉じ籠もる。そこが奥村の城となった。

 当時の部屋は常に雨戸が閉められていた。隙間から微かな光が差し込み、淀んだ空気が部屋に充満する。部屋を飾るのは少女嗜好者らしいいかがわしい品々。父も母もその淀んだ空気が立ちこめる部屋に入ることはない。仕事から帰ってきたら死んでくれていたらいいと父は願い、朝起きたら死んでいてくれたらいいと母は祈る。実の息子に対して抱く感情はいびつとしか言いようがない。奥村という怪物がいない人生を夢見て、父と母は放置し続けた。少女誘拐事件が起きたのも必然だった。

 わいせつ行為が目的ではない。もちろん金銭目的でもない。少女を傍らに置いておきたい。アニメやゲームのキャラクターのように優しく可愛く声をかけてもらいたい。淀んだ空気が漂う部屋で少女を舐めるように眺め、その幼い声が、言葉が発せられるのを待った。少女はアニメやゲームとは違う。ただ家に帰りたいと泣いてばかりで、奥村の期待通りに動かない。ましてや、この部屋から逃げようとする。奥村は少女の口を猿轡でふさいだ。その手足をガムテープで拘束した。その泣き声も、足音も家中に響いていたはず。しかし、実の息子が行なっている恐ろしいことを父と母は気づかないふりをする。

 三日間はたった七十二時間。だが、たったと表現される時間は永遠に抜けない棘を少女に埋め込んだ。警察が乗り込んだ時、少女は人形のように笑い横たわる。感情の欠片のない笑顔に飾られた表情、猿轡で赤くただれた跡、ガムテープでうっ血した手足、垂れ流された汚物、悪臭が充満した部屋はとても人間が生活する空間とは思えなかった。雨戸から漏れる微かな光、すきま風にプランクトンのようなコバエが揺れ、少女誘拐の犯人として奥村がいた。暗がりの中、浮かび上がるのはまだ少年という言葉で括ることが可能な風体。陽の光を浴びず、肌が白く朧げで、その目は死んだ魚のように動くことのない黒目が際立っていた。

 少女を見つけた警察官は激しい足音を鳴らし、一瞬で奥村を拘束した。奥村が奇声を上げる。その声は人間が持つ知能が生みだす言葉ではなく、むしろ言葉を持たない動物に近かった。父も母も息子である奥村を心配するわけでもなく、誘拐された少女に贖罪するわけでもない。ただ生まなければよかったという自分勝手な後悔しかしなかった。

 警察官が手足を縛るガムテープをハサミで切り、柔らかい毛布で少女を包む。目の前で奥村が奇声を上げ、警察官の足音が激しく床を打ち鳴らす騒がしい世界で少女の眼球は何の反応も見せず、その心が波立つこともない。心が冷たく乾いている。ごめんねと警察官から自然と出る言葉。少女を抱きしめ考える。どうして少女をもっと早く救えなかったのか。どうすれば少女が誘拐されてしまうような世界を変えられるのか。警察官になったのは正義を信じたから。正義の無力さに拳を握る。そんな思いも少女には届かない。少女の世界は凍りついた海のように閉ざされたまま。いつかその世界が開ける時が来るのだろうか。

 あれから九年。少女は今も心を硬く閉ざす。心的外傷後ストレス障害、少女の背負う過去は九年の月日を経ても小さくなることはない。淀んだ空気が充満した部屋、太陽の差し込まない世界で生ぬるい視線が絡みつき、欲望という得体の知れない怪物がそこにいた。怪物は目を開けて、少女に何か言葉を吐いている。その言葉の意味は分からない。いや、言葉ではない。うめきだ。ゆっくりと埃だらけの床を這う蛇のように少女を離さない。消えることのない恐怖が頭に今もこびりついている。毎日起きるフラッシュバックを少しでも楽にするよう薬漬けにされ、まともな日常生活を送ることもできない。それでも、睡魔は訪れる。人間は眠らなければ生きていけないから。睡魔が訪れるとまた、あの時間が繰り返される。断続的に目が覚めては眠る。これが少女の見る世界だ。

 事件当初、未成年であったこと、少女に目に見える外傷がなかったことから奥村は少年更生施設で数年を過ごす。施設で反省文を何回も書いた。反省文を書けば、反省していることになる。そうすれば、早く施設から抜けられる。中身のない表面的な反省文がファイリングされていく。毎日書き続けた反省文のおかげで奥村は施設から抜けることに成功した。

 施設を出た時には奥村の家はなかった。父も母も奥村から逃げるように消える。どこにいるかも分からない。福祉の人間が用意した部屋で奥村は暮らし始める。それから数年、何事もなく、生き続けた。国が用意した生活保護という快適な檻の中で二十六歳となり、妄想を続けている。

 未成年が成年になっただけ。今度罪を犯したら、実名が晒される。それでも、奥村は妄想をやめない。いつか少女誘拐をもう一度やる。今度はもっとうまくやると。妄想をやめない奥村は社会不適合者で立派な犯罪予備軍だ。そんな奥村を罰する法律はない。だから、痕跡を残さない殺し屋に依頼が入った。依頼主は少女の父だろうか。少女の母だろうか。警察官だろうか。それとも、奥村の実の父と母だろうか。前もって入ってくる奥村の情報に依頼主のことは一切ない。あるのは奥村を殺すべき理由と殺すのに必要な情報だけだった。

 公園を楽しみ歩く子供連れの親子も余生を楽しむ老夫婦も奥村と目を合わせない。その視界を逃げるように抜けていく。いやらしい視線で行き来する人を舐めるように見る奥村。ただ見ているだけで人々に嫌悪感を与える見てくれ、その内面にある腐ったヘドロのような性分が空気から感じ取れる。公園とは本来市民の憩いの場であり、健康的な空間になるはずだが、奥村が存在するだけで不健康極まりない淀んだ空気に満たされる。

 奥村が座るベンチと五メートルほどの歩道を挟んだ斜め向かいのベンチでケイは奥村を観察していた。歩道を底辺とする直角三角形を三平方の定理から計算すると、斜辺、つまり奥村との距離は八メートルとなる。距離を計算し、位置関係を確認する。

 ここには奥村とケイしかいない。ケイの特殊能力はレシーバー。ターゲットの脳に受信機を埋め込む能力。奥村の脳に埋め込むにはもっと近づいて触れなくてはならない。ケイが立ち上がろうとベンチから腰を数センチ浮かすと、突然風向きが変わった。ケイの座るベンチに奥村が纏う煙草とビールの匂いを含んだ風が一気に流れ込んでくる。不快な匂いが鼻腔に突き刺さり、脳を刺激する。そして、脳の奥底に眠る古い記憶がゆっくりと蘇っていく。

 上半身裸で仁王立ちした父、煙草とビール漬けのせいで生まれる不快な匂い、圧倒的な暴力の上に成立する父の笑顔、全てが恐怖の象徴でしかない。脳にインプリントされた父の恐怖と奥村と重なる。奥村は父じゃない。もう父はこの世にいない。ケイは何度もそう呟く。心の奥底から生まれる恐怖を振り払うように。

 奥村はまだベンチに座っていた。父の恐怖に意識が支配されたのは数秒だろうか。その間に奥村がいなくなることはない。この時間にこの公園で煙草とビールにまみれている。これは調査報告通りの奥村の日常ルーティンだ。今度こそとケイは立ち上がる。奥村の座るベンチへ一歩一歩足を踏み出す。地面に足底が沈み、粘土様の土がケイを留めようとする。たかが八メートル、そんな距離もケイにとっては手の届かない月のように遠く感じる。

「なんだぁ?」

目の前に立ったケイに奥村は一言を吐き、沈黙した。奥村の黒目が白目を浸食する。眼球が白と黒のマーブル状に混じり合い、最終的には真っ黒な眼球だけが残った。眼球の表面が鏡のようにケイの顔を映しだす。しかし、奥村にはケイを認識できていない。沈黙と同時に奥村の思考と時間が止まっていたのだ。

 口が半開きの状態であほな子供のような奥村。顔面を支配する筋繊維は本来感情に呼応して動くべきであるが、硬直し動くことはない。レシーバーはターゲットに触れることで始まる。右手の中指と人差し指が奥村の額に触れていた。滑らかなナイフのように指が額にめり込み、皮膚、筋肉、血管、骨の組織と同化と浸食を繰り返す。出血することなく脳に、大脳辺縁系の中心にある海馬を目指したどり着く。海馬に到着するとカチリと音がした。レシーバーが完了した。

 奥村が我に返る。目の前に誰か男がいたはず。今はいない。煙草は指の間で灰となっている。何が起きたのか、分からない。煙草もビールもそのまま。公園を見回した。景色も変わりない。何も変わらないから、何も起きていない。灰となった煙草を山の天辺に刺して、九年前の少女誘拐の妄想をまた始める。施設で反省文を書くたびに沸き起こるのは抑圧される自己肯定感だった。何が悪いのか分からない。誰でも一緒だ。やりたいことをやって生きている。奥村にとって少女嗜好者であることが正であり、少女誘拐を実行することが当たり前なのだ。我慢する必要などない。またいつかやろう。


 蛇口から勢いよく水が落ちてくる。駅のトイレでケイは手を洗い続ける。手にこびりついた異物をゴシゴシと擦る。異物とは脳の破片。レシーバーという特殊能力の副作用だ。異物は奥村の海馬に受信機を埋め込む時にこびりついた。それは決して剥がれない瘡蓋のよう。それが分かっていても、こうして手を擦ることをやめられない。ポケットの中でスマホが激しくバイブする。濡れた手でスマホを取り出し、液晶画面にユウの名前が見えた。

「ケイ、大丈夫か」

「ああ、仕事は終わったよ」

ケイは手を振り、水を飛ばす。隣にいたサラリーマンが嫌な顔をした。

「手を洗っているのか」

「しゃあないよ」

諦めてみても、瘡蓋は消えない。トランスミッターの同一視現象という副作用を知っているユウにはその辛さが分かった。

「とりあえず学校に行くよ」

「ああ、夕ご飯は用意しとく」

「どうせチン弁当だろ。用意じゃないやん」

「それもしゃあないわ」

スマホの向こうでユウが笑う。痕跡を残さない殺し屋を始めて、安定してまとまった金が入るようになった。金の使い方も知っている。豪勢なご馳走に高額な嗜好品、自動車だって。金があれば何でも買える。父親だって、母親だって買える。「じゃあ、あとでな」、ユウはスマホを切った。痕跡を残さない殺し屋で得た金は人を殺した報酬だ。この金の使うことに踏ん切りがつかない理由の一つだった。人を殺すという行為。ターゲットが罪人であったとしても許されるべき行為ではない。そんなこと百も承知だ。もし可能であるならば、ケイだけでもこの世界から切り離してやりたい。「次は俺の番だ」、ケイが奥村にレシーバーを完了させた。あとはトランスミッターを完了させるだけだ。そして、きっとまた同一視現象に襲われる。

 スマホをポケットにしまいながら、心が少し穏やかになるのをケイは感じた。この世界での唯一の理解者であるユウの声のおかげだ。奥村のいた公園はもう遥か向こう。駅の改札を抜けて、学校に向かう。殺し屋という非日常と大学生という日常、バランスの悪い二重生活には酸素が枯渇して、息苦しさしか感じない。他人の脳に受信機を埋め込むレシーバー、他人の脳に疑似記憶を送信するトランスミッター、特殊能力は確実に人を殺すことができる。奥村の脳に植え込む疑似記憶は凄惨な殺人の記憶。未来ではなく、過去の疑似記憶を植え込む予定だ。

 脳とは人間が持つ臓器の中で最も都合がいい、曖昧な臓器だ。記憶とは電気信号であり、電気信号を組み合わせることで多角的な記憶ができあがる。そして、記憶は自身に都合のいいように簡単にすげ替えることができる。元々が曖昧だから。それが脳の本質。記憶という電気信号、それらは脳内を駆け巡り、海馬にたどり着く。海馬は記憶の保管庫とも言える。海馬に辿り着いた記憶は必要に応じて抽出され、誰もがそれを正と認識する。しかし、それが本当に正であるのか。抽出される記憶は都合のいいものばかり。だからこそ、特殊能力が力を発揮する。曖昧な記憶の中により強く確実な疑似記憶を植え付けること。それが痕跡を残さない殺し屋の殺人手段だ。

 レシーバーはそんな都合のいい脳という領域にある海馬に頑強な楔のような受信機を埋め込む。トランスミッターはあたかも真実となる疑似記憶を植え付ける。奥村に植え付けるのは過去の疑似記憶。それは凄惨な殺人の記憶。トランスミッターにより奥村を殺人犯に仕立て上げるというのが今回の仕事だ。

 レシーバーを使うことでケイの手にはターゲットの脳の破片が呪いのようにこびりつく。トランスミッターを使うことでユウは同一視現象に襲われる。それでも、痕跡を残さない殺し屋をやめることはできない。この特殊能力がなければ、二人はこの世界に存在しなかった。二人にとって生きるという選択は特殊能力を使うことだった。

 改札を抜けた後、閑散とした電車に乗り込んだケイは誰も座っていない席に座る。何気にスマホの液晶画面を眺めた。ユウの名前が消えたスマホの液晶画面は滑らかで黒い。傷一つないスマホという黒い筐体。兆しは小さな波紋だった。液晶画面に波紋が作った波が緩らかなスピードで円状に広がっていく。いくつかの波紋が互いに打ち消し、反響し、液晶画面が揺れる。掌の収まる程度のサイズであり、表面的にも限られた面積しか持ち得ないはずなのに、その奥に深い海の底のような世界があり、誰かいるような気がした。ケイは肩をぶるっと震わせ、慌ててスマホをポケットにしまう。全く馬鹿げている。スマホという筐体の中の世界に怯えるなんて。ポケットにしまったスマホを取り出し、液晶画面をもう一度確認した。そこに自分の顔が映り、いつもと同じ液晶画面に安堵する。痕跡を残さない殺し屋という非日常は決して消えることはないが、大学生という日常的でありふれた世界がそれを隠すように包み込む。ケイは再びポケットにスマホをしまい、足を進めた。


 薄暗い倉庫には割れた硝子片が床に散乱する。靴底が奏でる足音とともに硝子が砕ける音が響いた。フードのあるロングコートを羽織る男、撥水性の生地が窓から差し込む月光に反射する。顔が見えず、その表情は分からない。時折しっかりと正五角形に結ばれたネクタイが隙間から顔を覗かせていた。

 結束バンドとはとても有用な道具だ。コードを束ねるのにも、人間を拘束するのにもとても役に立つ。目の前で結束バンドで拘束された女がいる。結束バンドが食い込んだ手足が血色悪く映る。女が拘束される理由などない。普通に生まれ育ち、インスタに加工した写真を載せ、いいねを求め続けるというとてもありふれた承認欲求モンスターだ。どこにでもいる女。男にとってこの女でなくてはいけない理由などない。たまたまだ。人と人が出会う確率は幾つだろうか。分母を世界中の人間の数とし、分子を人口分布図×限られた時間×交通事情とする。馬鹿げた公式だ。そんな公式など存在しない。人と人が出会うのは運命的であるべきだ。たまたまインスタで女を見つけた。そのたまたまが運命的なのだ。

 男は自身に湧き上がる殺人衝動を満たすだけの目的で運命的に出会った女をさらい、結束バンドで拘束する。男は殺し屋ではない。ただの人殺しだ。殺人衝動のままに人を殺し続けている。

 女が奪われたのは服と下着と声と自由。結束バンドが皮膚に食い込み、血管が浮かぶ。猿轡で声を上げることもできない。視界を奪わないのは恐怖を与えるため。聴覚を奪わないのは絶望を与えるため。恐怖と絶望に震える女を殺すという自ら作り上げた演出に男は一人醉う。

 ナイフはいい。人を殺す道具として最適だ。直接的に人を殺すことができる。その実感は格別。ナイフが男の殺人衝動に反応し、金属質な生き物のように輝く。男は女の顔の前でナイフをちらつかせた。女の目に映っては消えるナイフ。猿轡の中から生まれるくぐもった声。決して逃げることができない。そう分かっているくせに女は恐怖に体をくねらせ、椅子ごと倒れる。

「悪あがきをするねえ」、男が悪びれることを隠さずに言葉を吐く。椅子が倒れた反動で地面が揺れるが、結束バンドがちぎれることはない。

 倒れた椅子と女を男はゆっくりと元の位置に戻す。女の目から泥で汚れた涙がこぼれ落ちる。涙で何でもするから助けてと訴える。そんな表情に男の殺人衝動がより歓喜し震える。ならば、俺のために殺されてくれと男はナイフを女の首に当てた。

 首には頚動脈がある。そこを切ると人間は失血死する。誰でも知っていることだ。ナイフが当たるたびに緊張で筋肉が硬直と弛緩を繰り返す。支配者と被支配者がはっきりとしていた。インスタの加工された写真は美しかった。今はどうだ。恐怖と絶望に歪み、生を懇願する表情。醜悪だ。だが、より美しい。

 血流で激しく脈打つ感触がナイフを通じて男を刺激する。その感触を楽しみ、名残惜しむようにナイフを突き立てた。頚動脈から吹きだす血しぶきが視界を染めて、真っ赤な月が現れる。興奮が加速する。何度もナイフを突き刺し、こぼれる血がレッドカーペットの如く床を染める。

 女が息絶えて恐怖と絶望が終った。女には体温が残っていた。だが、動くことはない。壊れた玩具を弄び、男の狂気と歓喜はまだ終わらない。

 何回ナイフを刺したかも分からない。女から噴き出した血の温もりが冷めた頃、男は死体の解体作業に移った。レッドカーペット上にかつて人間であった女がその部品ごとに並べられる。月光が乳房にふりそそぎ、その陰影がエロチックさをかもしだしている。自分だけが見ている、この作品に満足し、アカデミー賞ものだと呟いた。

 凶器であるナイフは倉庫から三百メートル先のどぶ川に捨てる。目撃者は誰もいない。殺人の顛末を知っているのは殺人犯である男だけだった。

 これはユウの頭の中で生成された殺人の記憶。凄惨な殺人劇場に吐き気を催す。さっきまで目の前に自らの殺人の顛末を語る男がいた。男の風体に異常性を感じることはない。上品なスーツを羽織り、ネクタイをしっかりと締めている。左右対称に形づけられた正五角形の結び目が男の几帳面な性格を表している。極めて普通の男。何も知らなければ、自作スプラッタ映画のストーリーを物静かに語っているだけの男にしか見えない。だが、男は殺人衝動を持つ人殺し。その手口は残虐極まりない。無論、その行いを悔いる言葉などない。ただ笑っている。抑えきれない殺人衝動の狂気と歓喜が口角からこぼれ落ちるように。

 トランスミッターが生成した殺人の顛末という疑似記憶。頭の中に皮膚を裂く感触も真っ赤な血の熱さも全て完璧に再現される。脳がそれを真実と錯覚する。否応なしに起こる同一視現象。男が持つ殺人衝動があたかも自分のものであるような感覚。この手で人を殺したい。こめかみの血管が脈打ち、額から鉛のように黒く重い汗が浮かぶ。この殺人衝動を抑えなくてはならない。これまでもそうだった。トランスミッターを使うことでターゲットの感覚が流れ込んでくる。馬渕が飛び降り、死ぬまで痛みが消えなかったのもそのせいだ。

 この男の殺人衝動は極めて危険な感覚だ。飲み込まれるな。ユウは両の拳を握った。俺は人殺しじゃない。爪が皮膚に食い込む。俺は殺し屋だ。そう殺し屋と人殺しは違う。結果は同じでも、それに至る過程が違う。殺し屋が正義などという気はない。でも、誰も裁けない罪人に死を与えている。何かにすがるように殺し屋を肯定し続ける。

 どす黒く染まった世界だった。生気の宿らない枯れ木が空を仰ぎ、荒れ果てた大地はあばら骨が重ねられたような起伏を見せる。体に熱が帯びる。酸素が足りなくて呼吸ができない。今最も必要なものはこの手でナイフを握り、誰でもいいから殺すこと。その滴る血で殺人衝動を肯定すること。ユウは口角を上げた。あの男と同じ顔だ。世界と感情が歪む。どうすればいい。その手を伸ばした。その先にはケイがいた。殺人衝動に支配されたどす黒い世界が少しずつゆっくりとほどけていった。


 過去に幼女誘拐を起こし、反省も更生もすることなく妄想を続ける奥村という男を社会的に抹殺する。それが今回の依頼。

 犯人の影すら見えない、凄惨な殺人事件が世界を恐怖に落とし込んでいた。その犯人がつかまるというニュースはセンセーショナルなものだろう。警察には犯人しか知り得ない情報を知っている奥村という男がいることをリーク済みだ。

 トランスミッターで植え込む、犯人しか知り得ない情報を持つ疑似記憶。それが証拠となり、奥村が逮捕され、世界は恐怖から解放される。そんな安易なストーリーだ。

 少女嗜好者という性癖から少女誘拐を起こした男。行きずりの女を殺した異常な殺人鬼。奥村という男についてあることないことが語られる。もう人間として終わっている。奥村だけではない。その家族も同罪。社会的な私刑が今執行されつつある。

 奥村が奪った少女の未来は今も輝くことはない。心的外傷後ストレス障害が消え去ることはない。だから、奥村には罰が必要だ。罰を与えるための正義の剣は殺人衝動を抑えられない男が犯した殺人を請け負うこと。殺人罪という名の冤罪で奥村は無期懲役となる。それはいい。

 だが、殺人衝動を持つ男は無罪放免となり、人殺しを重ねる。このおかしな天秤は何だ。「これは間違っている」と佐久間に食ってかかった。

 どうしてあの人殺しが生きているのか。

 殺人衝動を抑えきれない男がまた殺人を起こすのは明らか。同一視現象からもよく分かる。あの時、殺人衝動に心が支配された。その快楽と狂気、あの男が抱えている衝動が理解できた。

「だから、あの男も殺さなくては」、誰かが殺される前に。ユウの言葉を佐久間が遮った。

「確かにあの男は普通に会社に出勤し、仕事が終われば、家に帰宅する。嫁も子供もいる。人を殺しておきながら、穏やかに生きている。これは不平等だ」、佐久間は大きく息を吐く。

「世界で生きている人間はみな部品だ。必要になれば新しい部品に交換される。その順番ではないんだ。あの男にも役割がある。だから、殺しの依頼は来なかった。今じゃない。順番が来たら依頼が来るよ。それが痕跡を残さない殺し屋の出番だ」、佐久間の言葉はただの誤魔化しだろう。お前達の特殊能力で不平等な世界を覆すと昔そう言ったはずじゃないかと佐久間に言いたかった。ユウは黙り込む。人を殺したいわけではない。感情のまま、人を殺せば、あの男と同じ。ただの人殺しだ。人殺しにはなれない。殺し屋が事をなすには理由が必要だ。その理由が殺しの依頼。

「大丈夫だ。きっと順番が来る。安心しろ」、黙り込むユウに佐久間が続ける。佐久間を信じたい。ユウは遠い昔の記憶にすがるしかなかった。


 大学の入り口には煉瓦風のレリーフのある二本の塔が建っている。大学名が削られ浮かぶ。その脇には春に花を咲かせる桜の木があった。新入生は希望を抱き、その門戸を叩く。いたってありがちな景色が簡単に想像できた。

 大学の講義室、ケイは窓際の定位置に座り、そこから見える景色に三年前を思い出す。入学式にらしくない正装のユウと並んで写真を撮った。桜の花びらが風に舞い、ケイは苦笑いしかできなかった。

「ケーイ、何してんの」

「何も」

声をかけてきたのは同級生のマキ。ぶっきら棒な返事はいつも通りだ。

 茶色く短めの髪が風になびき、女の子らしい香水の匂いがする。誰とも関わらないようにしているケイに事あるごとに関わってくる。どんな愚鈍な人間にも分かる明らかなる好意であるが、知らないふりで視線をまた窓の外に向けた。すでに桜の花は散ってしまって、そこには緑葉が生い茂る樹木しかなかった。

 ユウは新入生と同じく、桜の木の下を通って、大学生となった。大学なんて行きたくなかった。自分のような人間が、痕跡を残さない殺し屋として人を殺すような人間がいていい場所ではないと考えたからだ。しかし、ユウと佐久間は違った。大学に行けと五月蝿く強引に話を進めた。結果、仕方がなく大学に通っている。正直今でも息苦しさしか感じない。

 大学とは青春を謳歌する場所。ファッション雑誌に飾られる画像のコピペのような髪色、髪型、服装でオリジナリティがない学生達がやたらいる。きっと両親がいて、一軒家の家があって、親のすねをかじり続けている。自分とは毛色の違う存在だ。

 この講義の長たる社会学の教授が「あなた達がこれから向かう未来でいかような仕事をしているのでしょうか」と疑問を投げかけた。社会学とは社会の仕組みを研究することを目的とした学問だ。遊んでいられるのは今だけ。あなた達は働かなくてはいけないんだよ。社会学が定義する労働システムという嫌味を真面目な学生にも、不真面目な学生にも届くように語る。しかし、恵まれた環境の学生達が教授の講義を理解することはない。右から左へ流し聞くだけ。ケイも他の学生と同じように教授の言葉など右から左へ流し聞きたかったが、耳に残ってしまう。

 ケイにも父と母はいた。今はいない。父と母がいなくなり、幼い頃から施設で育ち、ユウと二人で生きてきた。もちろんお金などない。施設の中で二人きりのコロニーを作り、誰とも関わらず自分達だけで生きてきた。施設の大人も何か理由があって施設にいる子供もそんなユウとケイを目の敵にしていじめてくる。そのたび、ユウが守ってくれた。でも、怒られるのはいつも自分達。まるでこの世界にいてはいけない存在のように。

 普通に学校に通うということだって施設にいたらあり得なかった。誰もが上ることができる人生の階段に足をかけることすら許されない家庭環境。何もかもが夢のまた夢。夢を諦める前に夢を見ることもできない。社会学でランキングされる下層階級の下の下以下の存在であったケイが今、こうして大学に通うことができている。卒業ができれば、大卒という学歴ブランドで公務員になることだってできる。

 社会学で定義されるまともな選択肢を考えられるのは佐久間と特殊能力のおかげ。それが今の全てだ。

 馬渕をビルから飛び降りさせたこと。

 奥村を殺人者に仕立て上げたこと。

 正義とは程遠い行いでこの生活は成立している。殺し屋という手段で普通の人生の階段を上る。そこには矛盾しか感じない。

「ねえ、さっきから当てられてるよ。三十五ページのAの項よ」

馴れ馴れしいマキの言葉が耳に障った。教授が指示棒をケイに向け、答えを待つ。社会学ではどうにもならない不平等な世界。いや、どう足掻いても変わらない不平等な世界を社会学が作っているのか。ケイは慌てることなく立ち上がる。その所作は厳かな儀式のようだった。マキの助け船にならって無感情に項を読んだ。いかにも話を聞いてませんという学生が慌てふためく姿を想像していた教授は少し残念そうに笑った。


 安っぽい機械音が講義の終わりを告げる。いつまでも慣れることのない講義室の空気から逃げるように扉を滑り抜ける。

「ねえ、お礼は」

犬っころのようにマキがケイを追いかけてくる。マキは馴れ馴れしくご褒美をねだる仕草で小さな手を差しだす。

 レシーバーの発動条件は触れること。無造作に人に触れることでレシーバーが発動する危険をいつも感じていた。だから、マキの手に触れることはない。差し出された手をスルーされたマキは犬っころのように鼻を鳴らす。いつものことだ。誰にも触らない。ケイがこの世界で生きるために決めたルール。そんないつも通りのケイの態度を気にすることなくマキはついてくる。

「ねえ、聞いてるの?」

「聞いているから触るなよ」

「冷たいなあ、結婚する時どうすんの?子供も作れないじゃん」

「結婚なんて無理。子供なんてもっと無理。育てられない」

「またまた、そんな否定的じゃいけないよ。未来が暗黒世界じゃないっすか」

くだらない言葉は積まれては崩れる積み木のよう。マキはこの大学でまともに会話する唯一の人間だ。といっても、マキからケイへの一方通行に近い感じだが。

 触れるということは社会の中で生きる人間が持つ、最もシンプルなコミュニケーションだ。そのコミュニケーションもレシーバーがあるから避けるべきなのだ。決して触らないという理由をケイが極度の潔癖症とマキは信じている。人懐っこい笑顔。ご褒美をねだる仕草。ケイにはマキが本当の犬っころに見えていた。

 大学の食堂には大小のテーブルが並ぶ。その中で縦横七十センチの四角い一人掛けテーブルがあった。ケイの定位置だ。二人で座るには狭く、一人で座るのが望ましいという絶妙な面積。いつもそこで昼食を食べる。理由は簡単だ。学食のトレイを置けば誰にも侵略されることがないからだ。ちょうどいい狭さに心が落ち着く。ケイが選んだのはA定食。山盛りのキャベツ、ふもとに唐揚げが三つ並ぶ。

「おっ、唐揚げ定食じゃん」

この絶妙な狭さを持つ机にサンドイッチを乗せたトレイでぐいぐい侵略してくるマキ。ケイは「はあ」と深く溜息をついた。

「ちょい場所空いてないけどって、それよりそれよそれ」

「何」

「その深い溜息、失礼でしょ」

「見渡せば、ここじゃない場所が空いているはずだが、見えないのか」

「全く、その考え方と物言い、本当に結婚できんよ」

「だから、しなくていいと言っているよ」

オーバーアクションな仕草で机に残された小さなスペースにトレイを置くのを諦めて、サンドイッチを可愛らしく置いて、無事侵略を果たしたマキが勝ち誇る。トレイでそれを押し落とすのも大人げないから、そのまま侵略を受け入れ、ケイはまた深い溜息を吐いた。

「でもさ、そんな頑ななのは自分にとって不利益だと思わない」

「利益があることが全てではないよ。利益偏重主義は世界を不平等にしている」

「確かに世界って利益ばっか追ってるけど、この机を占拠することがそんなに大事?」

「大事だよ。何よりもね」

「何よりもか、いやいや、もっと大事なものがあるでしょ。例えば若気の至りでバカやらかしたり」

「そんなものはやりたい奴にやらせとけばいい」

ケイが唐揚げを頬張り、マキもサンドイッチを頬張る。外から見れば仲良しにきっと見える。でも、見えない壁が確実にあった。それは境界線ともいえる。決して交わることのない国境のように。

 この世界を支える礎の話。老害と呼ばれる政治家が己の利益を得るため、守るためにシステムを作った。支配者と被支配者の天秤が傾きを変えることはない。この世界は不平等に廻る。そんな現実を身を持って知っているケイとそんな世界を表面的にしか見ていないマキとではまるで違う。見た目は同じ人間であるのに中身は全く違う。

 要は不釣り合い。どんなに距離を縮めても触れることはない。この手は汚れている。特殊能力で死に追いやった罪人達の脳細胞がこびりついている。そんな手でマキに触れるなんて、それだけで罪になる。何も知らないマキはケイのそんな思いを知ることはない。

「全く頑なな子だね。周りを見渡してごらん。そんなに世界は悪くないよ」

確かに周りを見渡せば眩しさばかり感じる。自分にはないものばかりを持っている連中。人を殺さなくても生きていける世界がある。でも、それは偽りなんだ。真実の世界はえげつなく真っ黒い。

「ねっ」

無邪気に笑うマキ。もしケイが人を殺していると知ったらどうなるだろう。こんな笑顔も曇ってしまうという想像が簡単にできる。

 とりとめのない会話。中身もなく薄っぺら。ケイとマキの間がどうでもいい言葉で埋められていく。

「やだねぇ」

突然マキは眉を内に寄せて、不快な表情を見せる。その視線の先にあるのはテレビ。奥村が殺人罪の容疑で逮捕されたというニュースが流れている。ケイがレシーバーで受信機を埋め込み、ユウがトランスミッターで疑似記憶を植え付けた男。警察にリークした情報を元に今しがた逮捕されたようだ。

 テレビ画面の中で両脇を警察官に抱え込まれる奥村、その姿は情けない。犯罪者らしい見てくれにフラッシュが瞬く。今回の罪に併せて、特殊な性癖と過去の幼女誘拐という罪がクローズアップされる。テレビでよく見るコメンテーターが鬼の首を取ったかのように奥村を異常な殺人鬼と断罪する。でも冤罪だよ。奥村は誰も殺していない。抑えることのできない性癖で少女を心的外傷後ストレス障害にしたという罪はあるが。ケイがそう言ったところで誰の耳にも届かない。マキは瞬くフラッシュに目を輝かす。奥村に予備知識のないマキ。マキだけではない。誰にとっても同じだ。

奥村の情報は全てそのニュースソース。ニュースソースが作り出す奥村という怪物。確かに奥村は社会的に断罪されるべき存在。あの少女はまだ震えている。だから、奥村は救いようがない罪人。だが、人殺しは別にいる。しかし、マキとその他大勢が奥村を救いようのない殺人犯だと理解し、その罪を確定させる。

 ニュースを見る者全てに生まれる正義感が意識を統一させていた。奥村を死刑に。政治家が繰り返し語るマニフェストのように意識を刷り込むのと変わらない。社会的共通意識は巨大な正義だ。それを作り出したのが二人の特殊能力であることは間違いない。

 ケイが表情を曇らせた。決してマキの感情に共感したわけではないが、そのように見えたかもしれない。

「人を殺すなんて信じられない」

目の前にいるのは人を殺すことでまともな生活を得ている自分。罪人を罰を与える正義だとしてもそれはいびつだ。それを糧に生きている自分。いや、そもそもこれは正義と言っていいのだろうか。仮に正義であれば、それを礎にする自分の存在も許されるはずだ。

 感情が病んでいくのは簡単だ。根っこにある心が悲鳴を上げる。手にこびりついた罪人の脳の破片が動き出す。

 それは奥村の脳の破片。いや、奥村だけではない。馬渕も混じっている。これまで殺してきた罪人の脳の破片が虫のように蠢いている。そして、血の通わない紫色の唇を作り出し、声を上げる。お前が人殺しじゃないかと。唇が不自然に歪み、発する言葉はケイにしか聞こえない。その唇もケイにしか見えない。ケイは自分の手を押さえつける。押さえつけられた奥で唇は動き、人殺しと繰り返す。

「どうしたの?」

マキには何も見えないし、何も聞こえない。ただ自分の手を睨みつけるケイの奇怪な姿しか見えない。

「何でもない」

思わず声を荒げた。ここは偽物であっても平和な世界だ。人殺しはいけない。人を裏切ってはいけない。正しい道を歩きなさい。学校の先生が語る奇麗事にまみれた世界。

「本当に大丈夫、顔色悪いよ」

額に流れる脂汗。早くこの場から逃げ出したい。ケイの本音だった。

「黙れ。何も知らないくせに」

ケイは強い語気で言い放った。それはその唇に向けてなのか。マキに向けてなのか。分からない。「俺に関わるな」と届けて大きな声で叫びたかった。でも叫ぶことができない。心のどこかでこの平和な世界を望んでいる。生まれてくる場所さえ違えば、こんなに苦しむことなどない。全てはこの手がいけない。この特殊能力が。感情のまま、箸を唇に振りかざす。

 箸は手の甲に刺さっていた。そこには何もない。ただ手の甲があるだけ。

「何してんの」、マキが驚き、悲鳴を上げ、サンドイッチを落とす。どうしたどうしたと何も知らないギャラリーが集まってくる。「最悪だ」ケイは呟いた。

 何を間違えた。何も間違えていない。シェイクされる感情が断片的に声を上げる。ケイはその場から逃げ出した。

 手を貫いた箸。流れる真っ赤な血。ざわつく空気。全てが最悪。その上、唇は断末魔の叫びをあげることなく存在する。それはそうだ。その唇が実在しているわけではない。ケイにのみ見える幻覚。食堂から逃げる道中も唇は動いて、お前が人殺しじゃないかと繰り返す。「ほっとけよ」、ケイはただ前を見て歩く。その先に何があるのかも分からない。道行く人の足音、車のエンジン音、誰かの喋り声、とても煩わしい。耳障りだ。加えてスマホが震える。液晶画面にユウと名前が浮かぶ。スマホに出られないまま、液晶画面を眺めていた。液晶画面が真っ黒い筐体となり湖面のように揺れる。波紋が生まれ重なり、レシーバーの先にある世界がゆっくりと開いていった。


 爽やかな風と眩しい日差しが彩り、オープンカフェ日和だった。ユウの向かいに座るのは佐久間、高級ブランドで全身を着飾り、優雅にエスプレッソの薫りを楽しんでいる。

オープンカフェの空を覆う網目状のシェードから差し込む日差しに佐久間の白髪が銀色に煌めく。初めて会った時にはなかった白髪だ。決してオープンカフェを楽しむためにここにいるわけではない。だが、佐久間は何故か楽しそうだった。エスプレッソの薫りの後、その苦味と酸味を舌の上で転がせている。

「何、むくれてんだ?」

「別にむくれちゃいない。二十分遅刻だよ」

「そう言うな。こっちも忙しいんだ。ケイは大学を楽しんでいるか?」

「さあね。俺以外との時間もあいつには必要だよ」

「そうだな。お前も大学に行けばよかったのにな」

遅刻に悪びれる様子もなかった佐久間が残念そうな声を出す。ケイに大学はどうだと聞いても、生返事であまり答えない。それでも、きちんと通っているのだからよしとしている。グラスの水を口に含み、ユウは昔を懐かしんだ。


 幼い頃、遊園地に連れていかれた。二人に意思確認することなく強引に車に乗せる。ただ特殊能力を利用したいだけのくせに。それなのに家族ごっこへともっていく。二人だけの世界に突然変異的に現れた異物。それが佐久間。その引力に引っ張られるように二人は家族というものを学んだ。

 マネキンのように並んでいた施設の大人達。ユウとケイに笑顔を見せる。里親だ見つかってよかったね。幸せになれよ。言葉から滲みでる感情と笑顔からこぼれる感情が乖離していた。二人がようやく施設を出ていくという安堵の笑顔。同じ笑顔が幾つも並び、同じ角度で手を振る。

二人は佐久間の車に乗り込んだ。「荷物はそれだけか」、ユウとケイの名前が書かれた二つの小さなリュックを佐久間は見て言った。日常的に使う着替えだけが入っている。あの施設に何の思い入れもない。腫れ物扱いされ、いじめられただけ。走り出す車から後ろを振り返ると、そこにはもう誰もいなかった。笑顔の大人達はすでに施設の中に消えてしまっている。「そんなものだ」、期待などしていなかったが、ユウは小さくケイに耳打ちをし、その手を握る。

車の窓に流れる景色、高層ビルから繁華街、小さな公園、妙な息苦しさにユウが窓を開けた。バックミラーで佐久間と目が合った。「いいんだぞ、窓を開けても。好きなことをすればいい」、ユウはどう答えていいか分からなかったから、小さなリュックを抱え込んだ。


 二時間ほど経っただろうか。佐久間の車が背の高い高層マンション前でスピードを緩めた。ゆっくりと地下の駐車場に進む。「さあ着いたぞ」、佐久間は二人に車を降りるように促す。「心配するな。あの施設とは違う。ここがお前達の家だ」、そう言ってすたすたと歩いていく。ユウはケイの手を握り、その後を追った。


 マンションの部屋に入ると、赤いワンピースのユリがいた。ユリは里親の母だ。「おかえり、疲れたでしょう」、柔らかく笑う。

 里親として引き取られる面談で何度も顔を合わしていたが、その時とは何となく違った。応接間には立派なテーブルがある。美しい木目でできた自然な模様。いかにも高級そうだった。バカでかい液晶テレビにクーラー、黒光りする冷蔵庫、施設とは全く違う。佐久間がミネラルウォーターを取り出し、二人に、ユリに手渡した。

「これからよろしくね」

ユリがまた柔らかく笑って、二人の頭をくしゃくしゃに撫でた。実の父に殴られることはあっても、実の母に無視されることはあっても、くしゃくしゃに撫でられることはなかった。初めての経験に戸惑い、それにより生まれた感情がどういったものであるか、理解できなかった。

「この国は終末に向かっている。特権階級だけのために作られたシステムが世界を支配している。とても不平等な世界だ。お前達も知っているだろう。この世界を支える礎をお前達の特殊能力で覆す。それが俺の目的だ。契約を結ぼう。俺がお前達の家族になる。その代わり、その特殊能力を貸してくれ」

佐久間が言った言葉。どこで特殊能力のことを知ったのかは知らない。自分達に何をさせようとしているのかも分からない。何も理解できていない。でも、これまでの生活に比べれば、これはこれでマシだとユウは思った。これから何をさせられるのかは分からないが、特殊能力さえ差し出せば、二人で生きていくことが保証されるのだから。


 これが今回のターゲットだと佐久間がテーブルに滑るように写真を並べた。それがユウを現実に戻す。今日、このオープンカフェで佐久間と会っているのは痕跡を残さない殺し屋として依頼を受けるため。決して懐かしい家族ごっこという思い出話をするためではない。写真を見てすぐ誰かは分かった。

朝のテレビショーのメインキャスターの榊とアシスタントの三沢。国民の誰もが知っている顔。榊はいつも社会を辛口で断罪することを売りとする。見た目もそれほど悪くない。社会を断罪するといっても権力とは戦わない。うまく立ち回り、好感度を上げる術を知っている。三沢も同様だ。榊のペースに合わせて、相槌と笑顔を振りまき、その辛口な断罪をマイルドに味付けする。そんな狡猾な二人が出る番組は常に視聴率がよく、テレビショーのトップに君臨している。

「今回はこの二人を心中させるんだ」

晴れた空の下、開放的なオープンカフェ、歩道を行き交う若者達。右手にスマホと耳にねじ込んだイヤホン。オープンカフェと対照的に閉鎖的。インターネットというデジタル世界で彼等は生きている。通貨単位はいいねドル。こんなオープンカフェとそれを取り囲む環境に場違いな殺しの依頼。ユウは思わず尻がむず痒くなった。

 二人を心中させる。これまでと同じ。ケイがレシーバーで受信機を埋め込み、ユウがトランスミッターで心中する未来の疑似記憶を植え付ける。簡単に始まり、簡単に終わる。ユウはそう思っていた。

「ただし心中させるだけじゃない」

佐久間が続ける。二人の心中をドラマチックに世間に拡散させるんだと。確かに榊も三沢も既婚者だ。二人のダブル不倫疑惑は昔からある噂。そんな二人が心中をしたというスキャンダラスなニュースに国民はあることないことを嬉々として呟いて、飽きるまで人の不幸という蜜を吸い尽くす。二人の心中というニュースを真実味のある与太話で彩り、いいねドルを求める若者が群がり拡散させる。そんなことは簡単に起こり得ること。しかし、二人の心中を不都合と世界が考えた場合、話が変わってくる。臭いものには蓋をしろ。誰もが知っている慣用句にならって、闇に埋もれてしまうのも簡単に想像できる結末だ。そのための特殊能力。心中を埋もれさせずに確実に拡散させる。それが今回の仕事だ。

 ユウは頭の中で考えていた。特殊能力を使って榊と三沢を心中させ、その情報を拡散させる。それは今この道路を行き来する名も知らぬ誰かの仕事となる。匿名を武器とした輩にも特殊能力を使うためにレシーバーで受信機を埋め込む。レシーバーの対象となる人間の数が増えていく。ユウも同じだ。トランスミッターで不特定多数の誰かにこの心中を拡散させるという疑似記憶を植え付けなければならない。これまでとは違う。決して簡単なことではない。

「どうだ?できるか」

「難しいね。同時に複数の人間相手に特殊能力を使うということだよね」

机の上で笑う榊と三沢、きっと自分達が痕跡を残さない殺し屋に狙われるなど夢にも思ってないだろう。

何が必要なのか。何が不要なのか。複数の対象に同時にケイがレシーバーを行う。これ自体可能なことなのか。それを行うことがケイにとって負担とならないのか。自分のトランスミッターで二人以外に疑似記憶を同時に植え付けることができるのか。

「簡単に考えるんだ。使い分けだよ。心中させる疑似記憶と拡散させる衝動。榊と三沢にはこれまで通りのトランスミッターを使う。確実に心中させるために疑似記憶を植え付ける。その他には好奇心のたがを外すという簡単な衝動を植え付ければいい。それだけで拡散の波が治まることはない」

「簡単に言うなよ。ケイのレシーバーには触るという行為が必要だ。そもそも、ケイのレシーバーがなければ、俺のトランスミッターも役に立たない」

佐久間は少しだけ残っていたエスプレッソをぐいっと飲み干す。そして、おかわりを注文した。

「なあ、レシーバーには本当に触るという行為が必要なのか。実際、本当に触っているのか。脳の奥、脳下垂体の下、海馬に受信機を埋め込むために」

ユウは何も答えない。

「別に触らなくてもいいんだよ。そもそも触っていないのだから」

佐久間の言う通りケイが海馬に触っているわけではない。ただ皮膚に触れるだけ。それだけでケイのレシーバーは発動する。

「そういうことだ。簡単なことだよ。そもそも俺にはその能力が見えん。触ることとか、疑似記憶を生成するとか、そんな理論は忘れろ。必要なのはイメージすることだ。お前達の特殊能力が生み出す現象を考えろ。これは正義だ。お前達ならできる」

佐久間がいつも言う言葉。決して正義ではないと知りながらも、この言葉がユウにとって救いとなっていた。

 テーブルの上には二人の写真以外にも別の資料があった。罪のリストだ。いわば閻魔台帳。仕事の依頼がある時に佐久間は必ずこれを用意する。ターゲットがどれだけの罪人であるのか。それを明確にする。

 榊と三沢が代表となる芸能事務所は政界とも反社とも繋がっていること。政界にとって都合の悪い情報を隠すために自分達の冠番組で情報操作を密やかに行っていること。反社と提携し、薬物を芸能界の太客に売りさばいていること。夢を餌に若者の人生を食い潰していること。その過程で何人もの人間が命を失い,心を傷つけている。それは全て己の懐を肥やすことが目的。それにより騙される国民、食い潰される若者のことなど気にしない。そんな強欲な怪物がテレビショーのトップに君臨する二人の正体だ。明らかになる二人の罪はワイドショーのネタになるようことばかりだ。ただしそれが事実であれば。

「華やかな芸能界だからこその闇、だからこその正義だ」

きっと事実なのだろう。馬渕しかり、奥村しかり、ターゲットとなった人間はみな罪人だ。閻魔台帳に書かれた闇、罪人であること。それが仕事をする時の絶対条件。榊も三沢も罪のリスト通り罪人だ。痕跡を残さない殺し屋の仕事に値する。

 だが、奥村はどうだろうか。奥村は幼女誘拐という罪を犯した。今もなお被害者は心的外傷後ストレス障害に苦しんでいる。それは罪に値する。しかし、そのためにあの男の罪に目をつむる。殺人衝動を持つ男。人殺しが無罪放免で世界に放たれるのだ。これは正義ではない。この疑念は今も取れない棘のようにユウに突き刺さっていた。

 特殊能力で実行する痕跡を残さない殺人。その行為自体を考えれば、ターゲットが犯した罪と本質的には変わらない。人殺しと殺し屋、結果は同じでも過程は違う。そんな誤魔化しの果てに生まれるいびつな正義。痕跡を残さない殺し屋に正当性を持たすための礎。ターゲットが罪人であること。その裏付けとして罪のリストが存在する。二人をただ人殺しとしないために佐久間が決めたルール。今の二人を見る限りは悪い影響はないと佐久間は考えていた。

「分かったよ。ケイとやり方を考えてみる」

「そうだな。お前達ならできるよ」

佐久間はまた同じ言葉を繰り返し、ユウの頭を撫でた。


 口元に微かに残るエスプレッソの余韻。味わい楽しむように舌を動かした。目の前には人波が流れている。

月と太陽の引力により発生する潮に流されるプランクトンを追って、その時間、季節ごとに魚達は海を回遊する。人波はそんな魚達の生き方に似ている。国というシステムが海。生きるために仕事場、嗜好場へ足を向け流れる。魚達と大差ない。

オープンカフェを出た佐久間の目に映る世界。人は様々な表情を見せていた。カラフルなランドセルを背中にスマホゲームに興じる小学生、華美な格好で街角を彩る少女、仕事の成功と報酬に酔いしれ煙草を咥えるサラリーマン、人生の終焉をガードレール下で迎える浮浪者、この国のシステムが作り出した部品達。いわば、消耗品だ。思考が欠けている。思考がないから回遊に流れる魚達と同じくシステムに流されている。

 佐久間はユウから十二分に距離をとったことを確認し、スマホ片手に組織に報告する。

「ああ、計画通りだ。この仕事であいつらの特殊能力を見極めることができる。次の段階へ移行できるよ」

今回の仕事は二人のリトマス試験のようなもの。リトマス試験紙の色が変われば成功。二人の仕事振りで未来が変わる。この不平等な世界を変えるために、二人の特殊能力を利用するために里親となった。家族ごっこを続けるうちに芽生えた感情。仕事の依頼をしながらも、どうしても父親の目線となってしまう。感情移入してはいけない。二人を道具として扱えなくなる。組織の人間がよく言う。その言い分も分かる。それでも、すでに芽生えた家族という感情からお前達ならできると頭を撫でてしまう。里親として引き取った時にはなかった感情に困惑しながらも居心地の良さを感じる。

 初めて会った時、二人は窮屈な世界に閉じ籠り、夢など見ることもなく、ただ諦めている印象だった。何度も重ねた面談の中で二人が何の愛も知らないことに気づいた。それはそうだ。二人の境遇を考えれば当然。だから、家族ごっこは二人を、いや、特殊能力を効率よく利用するために必要なこと。嘘でも家族になる。それが全ての始まりだった。

そんな二人を遊園地に連れていったことがある。上下に首を動かし、時折横回転する馬の置物が回っているだけのメリーゴーランド。その馬の置物はピンクやらイエローやら現実にはあり得ない毛色のものが並ぶ。その中で唯一許せるのは白馬だ。白馬とは先天的にメラニン細胞が欠乏する遺伝子疾患のアルビノとは違う。色素の減少により白化した希少種、白変種のことだ。要は現実に存在する健全な白い毛色の馬となる。そんな造り物の馬達がみな目を見開き笑う。二人も不器用に笑う。あの日、子供とは不思議だと思った。奇妙な馬の置物に乗って回るだけで笑う二人、それに釣られて、佐久間もユリも笑ってしまった。思い出に軽やかなステップが生まれる。とにかくリトマス試験だ。佐久間は気を引き締めるように両の手で頬をはたいた。


 空を覆う真っ黒な雲から降り注ぐゲリラ豪雨が徐々に激しさを増す。足元にできた巨大な水溜まりが海のように映る。この街に転がるごみ屑の塊を排水口が吸い込み、全てを洗い流す様は優雅に笑うシロナガスクジラが海水ごとオキアミを飲み干すのに似ている。

ホテルのロビーの窓硝子が雨粒に震える。ゲリラ豪雨の激しさを物語っている。その窓硝子の向こうでは幾つかの人影が動いていた。このゲリラ豪雨の中、骨の折れた傘で立ち向かう姿が愚かしかった。ユウはゲリラ豪雨に襲われることのないホテルのロビーという安全圏にいた。そこでターゲッである三沢が現れるのを待っている。榊はホテルの一室ですでにスタンバっている。三沢と心中するためだ。二人へのトランスミッターはすでに完了していた。

 外のゲリラ豪雨から逃れるようにホテルの中に不特定多数の人間が集まる。一人が二人、二人が四人、四人が八人にと鼠算で増殖していく様子を見て、とても都合がいいとユウは感じた。狙い通りに世界が廻り、ターゲットの心中をより効果的に拡散させる舞台が整いつつあった。ホテルから離れたネットカフェの個室でケイはレシーバーによる受信機の海馬への埋め込みを始めている。不特定多数への特殊能力を行う。これまで行ったことのないことを二人は行なっている。二人は特殊能力の限定解除に成功したのだ。


 ターゲットの海馬に触れ、受信機を埋め込む。そのために触れることがレシーバーの必須ルール。そう考えていた。今回の依頼には複数の人間へのレシーバーが必要だった。触るという行為をするにはその数が制限される。

ケイは右手を見た。手には包帯が巻かれている。勢い余って箸を突き刺した傷。今も痛む。誰にも見えない脳の破片も相変わらずだ。ユウに怪我の理由を何度も聞かれた。何も答えなかった。レシーバーの副作用であるこの幻覚に箸をぶっ刺した。そんなことを話せば、最悪この生活を失う。ユウは優しい。レシーバーをもう使うなと言う。分かりきった答えの結末はこの生活の破綻だ。この生活は特殊能力によって成立している。それを否定することは許されない。どこか歯車が壊れている。もう痕跡を残さない殺し屋として佐久間の依頼通り仕事をこなす。それだけしかないのだ。

 今回の仕事を完了させるにはこれまでのレシーバーの使い方ではいけない。その触れるという概念の否定から意識を再構築する。

 レシーバーとは何だ?

 皮膚と皮膚の物理的な接触の上、脳の大脳辺縁系の中心に君座する海馬に受信機を楔のように埋め込むこと。

 そもそも海馬に触れているのか?

 佐久間の言う通り触れていない。触れているのはその表面にある皮膚。決して海馬に触れていないこと。触れるというルールの否定からその縛りを削るように消していく。少しずつ少しずつそれが現れる。それとはレシーバーという特殊能力の限定解除だ。

 レシーバーが持つ触れるという縛りを広げるための作業をケイはすでに分かっていた。ケイの特殊能力に起きている異変。感覚の氾濫というべき現象が起きている。佐久間は気付いていたのだろうか。「触らなくてもきっとできるよ」、ケイはスマホをいじりながら、そこに広がる世界を見る。レシーバーで痕跡を残さない殺人を続けることで見え始めた世界。スマホという現代の最先端のデバイス。それはインターネットでどこにでもつながっている。

誰もがスマホを持っている。依存症のように触り続けている。視覚的、聴覚的に脳内とつながり、最新の情報を収集する優越感と誰かと情報を共有する安心感。これがスマホ依存症の正体。通勤通学の電車という公衆的な空間でも個室トイレという私的空間でもスマホは必須だ。誰もがスマホでインターネットを見ている。それは逆に誰もがインターネット上の世界にいるということだ。

 イメージが膨らむ。この黒い筐体の中に世界が存在する。黒い筐体の表面が湖面のように柔らかくなる。さっきまで液晶画面だったものの向こう側に深く真っ暗な世界がある。

 これがレシーバーの限定解除だ。

 奥村の額に触れた時と同じ。ケイの指が、手がスマホの中に沈んでいく。スマホの中には緻密で精密な機械的な部品があり、それが手を傷つけるはず。何もない。その手を傷つけるべき、あるべき機械的な部品がないのだ。全てが溶けてしまっている。

黒い筐体の中は全くの水ということはない。水というより滑らかに絡みつくローションという感じだ。手が世界に沈むたび、指の隙間を抜ける気色悪さが増していく。

 真っ暗な世界だった。視覚的に見ている世界ではない。手が感じている黒い筐体の中に広がる世界だ。物音一つしない。静寂であり厳か。神聖な儀式のような重苦しさを感じる。ケイの手指がスマホの中を蛇のようにうねり泳ぐ。そこには幾つもの明るい小窓が覗いていた。

 小窓には楕円形の物体が並んでいた。大福のようにつぶれた球体。その表面は滑らかではなく凸凹した起伏と血管が脈打つ。手を近づけるとはっきりと分かった。

脳だ。

 インターネットを介して見知らぬ誰かの脳が幾つもの小窓に並んでいる。それぞれが画一的ではない。やたら小さい脳も、やたらつぶれた脳もある。その表面はぬめりとした膜でコーティングされ、表面に血管が脈打っていた。時折エメラルド色に輝く光が表面を滑るように走って消える。記憶の電気信号だろう。これらの脳は生きている。

 これは幻覚だ。だが、現実だ。矛盾した表現にケイは思う。そして、不特定多数の人間にレシーバーを始めた。


 佐久間が言った通り。イメージの問題。そもそもこの特殊能力の存在は二人にしか理解できない。ケイは幾つもの脳に触れ、海馬に受信機を楔のように埋め込んでいく。ユウがトランスミッターで好奇心のたがを外すという簡単な衝動をコピーアンドペーストで大量生成し、レシーバーで埋め込まれた受信機に植え付ける。

 これで佐久間の期待に応えられる。

「ケイ、いつからこんなことができるようになったんだ?」

ユウの言葉にケイは何も答えられなかった。自分達の生活を支える特殊能力。決して望んだわけではない。特殊能力で殺人を続けることも、それを礎に生きることも嫌になる。

「聞いているのか、ケイ」

レシーバーで受信機を埋め込み続けるケイ、無限に見える世界で脳の数だけ、レシーバーの数だけ脳の破片が地層のように積み重なる。視界を巨大な影が覆う。何の影なのか、分からない。積み重なり、膨れ上がった脳の破片が作り出した何かか。ケイの意識が遠のいていった。

 耳の奥を触る声。ユウの声だ。ケイの名前を呼んでいる。声も言葉もぼやけて聞こえる。数え切れないほどの脳にレシーバーを使った。結果、意識を失った。一時間、二時間、それとも、一日、時間の感覚がない。鉛のように重い腕と頭、視界を覆った影の正体、意識を失う瞬間にケイが見たもの。脳の破片が積み重なり膨れ上がった巨大なもの。あの時の唇という手のひらサイズの小さなものではない。もっと面積のある、もっと体積のあるもの。それには手と足が生えている。人間、いや、違う。それは屈強な肉体を持つ人型の黒い影となる。にたりと笑い、顔が歪む。これはきっと悪魔だ。ケイにしか見えない幻覚にゾッとした。

 名前を呼び続けるユウがケイを抱えて心配そうな顔をしている。ケイはその手を払い除け、ぼんやりと部屋を眺める。もうあの悪魔はいない。このレシーバーという特殊能力は悪魔の力。決して正義ではない。罪人を殺すとしても、正義ではない。悪なのだ。

「大丈夫なのか?ケイ」

「うん、大丈夫だよ」

ユウを心配させないために無理に笑おうとした。きっと引きつっている。これはゴールのないレース。もう戻ることはできない。この悪魔の力で進むしかない。いつもと変わらない部屋とユウ。「大丈夫だよ、俺なら大丈夫だ」、ケイは異様に疲れた体を支えながら立つ。感覚がまだおかしい。体の半分がまだあの世界に残っているようだ。自分でベッドまで移動しようとするが、この体自体が自分の体でないような感覚を覚えた。体を支え、ベッドまで移動させ、「寝る」と一言だけ残し、何もない夢の世界へケイは落ちていく。

「なあ、俺達ならできるよ」

夢に落ちたケイの傍らでユウが佐久間の言葉をなぞる。懐かしい言葉もベッドで動くことができないケイには届かなかった。


 ホテルの近くにあるネットカフェで個室に陣取るケイはモニターを見ていた。これから始まるのは物理的に触るというルールから限定解除されたレシーバーによる作業。スマホという黒い筐体と同じようにモニターが湖面のように揺れる。スマホと比較にならない面積の大きさだった。ケイは静かに息を吐く。作業と検証を繰り返した通りに右手をかざす。レシーバーが始まった。

 インターネットを媒体とした感覚の氾濫、デジタル化された世界に幾つもの小窓が覗く。小窓には不揃いな脳が置物のように並び脈づく。だいぶ理解ができてきた。この特殊能力の真価。悪魔との取引に憂鬱な気持ちを抑えて、進んでいく。幾つもの小窓に存在する脳はホテルの従業員であり、客である。検証する中で気づいたこと。レシーバーは端末を起点として起こる。近くの小窓にある脳は近くの人間。遠く離れれば離れるほど遠くの存在となる。どこまでの範囲を支配できるか分からない。今はこの近くの脳でいい。それで目的が果たせる。ケイは完璧に回る歯車のようだった。ただひたすらにレシーバーで受信機を埋め込んでいった。

 ユウはケイのレシーバー埋め込んだ受信機にトランスミッターで好奇心のたがを外すという簡単な衝動を植え付け続ける。ユウもケイも同じく繰り返し作業を行い、不特定多数へのトランスミッターが可能となっていた。榊と三沢の心中を面白おかしく拡散させるように舞台を仕上げていった。

 二人の完成した特殊能力には相変わらず裏付けされた理論も、科学的な根拠もない。佐久間の言う通りだ。そもそも、本当にそんな特殊能力があるのか。目に見えるもの、耳に聞こえるもの、存在するものしか認めない。それが世界の基準。二人の特殊能力を科学者に話したとしても、証明してみろと鼻で笑う想像しか浮かばない。目の前でそれを証明したとしても、手品の種探しに彼等は勤しむだろう。世界が二人を認めることは決してない。誰も認めてくれない世界の中、佐久間だけは認めてくれたという現実。それが二人の礎の一つだった。二人が大人になっても、子供のように頭を撫でる佐久間の手。決して正義じゃない。そんな思いを差し引いても、その手の温もりが心地よかった。その手の感触を忘れることはなかった。


 かつりかつりとヒールで床を叩くような音がロビーを抜けていく。三沢だ。振り返ることなく、そのままエレベーターへと向かう。

その行動、その実には感情はない。感情を持たない操り人形がエレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押した。高級感あるフロアマットの感触も三沢は感じない。エレベーターにあるスリット状の窓から見えるゲリラ豪雨も然りだ。

 最上階の廊下には厳かな空気が流れていた。触り心地のいい絨毯の上を三沢は決められた歩幅でただ歩き、部屋の前で止まる。部屋の扉が自動ドアのように開いた。そこには榊がいる。榊もまた操り人形。ユウのトランスミッターで植え込まれた記憶のまま、柄の部分に真っ赤な宝石が装飾されたナイフを無表情に握り、三沢の首に刺した。首に刺さったナイフに滴る血。三沢は首にナイフが刺さったことで一瞬ビクリと体を硬直し、榊と同じく無表情でハンドバックから対になる柄の部分が真っ青な宝石で装飾されたナイフを取り出し、榊の首に刺した。

 二人がナイフを刺し合った後、そのまま廊下側に倒れ込む。空から二人を俯瞰して眺める。榊の左手と三沢の右手が重なり並ぶ。その表情には苦悶や後悔の影もなく、どこか穏やかな顔をしていた。これがトランスミッターで生成した疑似記憶のエンディングだ。

 今、ユウの首に二本のナイフが刺さっていた。痛みはひどい。それはそうだ。人が死ぬ苦痛だ。ひどくないわけがない。痛みだけでなく、呼吸も奪われる。死が目の前に、この手が届く範囲にある。それも二人分の死。「お客様、大丈夫ですか?」、ホテルの従業員が脂汗で濡れる背中を見て声をかけてきた。「大丈夫」、掠れた声とあっちいけというアクションで追い払った。そして、痛みが消えていく。榊と三沢が死んだのだ。


 絨毯を染める真っ赤な血と二人の死体に最初に気づいたのはホテルの従業員だ。真っ赤に染まった廊下と壁、扉を見て、悲鳴を上げた。それと同時にスマホを手に取った。抑えきれない衝動。これは何だ。衝動とは心の奥底から生まれるもの。後頭部の裏側、頚部にかけて熱が帯び、こらえきれない好奇心が生まれた。心ではない。頭の中からだ。トランスミッターで生成され、植え込まれた衝動が好奇心のたがを外す。警察?救急車?フロント?いや、スマホだ。指が自然とタップする。この凄惨な景色を熱狂的なイベントのように撮影し続ける。

 台風の日に外に出て、怪我をする人々がいる。危険を知りながら、我慢できない。台風という危険なイベントを感じるために。今、ホテルにいる人間がユウとケイの特殊能力により飢えた好奇心に支配されていた。


 楕円形の木目が幾つも流れるテーブルを挟んで、佐久間とユウとケイが座る。「ユウ、お前のトランスミッターは素晴らしい能力だ。お前は確実に起こる精密な疑似記憶を作り出す。そして、その人間の行動を支配する」、佐久間がテーブル越しにユウの頭を撫でる。「ケイ、お前のレシーバーはトランスミッターの鍵になる。ユウのトランスミッターから逃れられないよう。より深い場所にレシーバーで受信機を埋め込む。そうすれば、お前らは世界を支配できる」、もう片方の手でケイの頭を撫でる。

佐久間の指示通りユウもケイも特殊能力を磨く。レシーバーでより深く潜るように脳の記憶を司る海馬に楔のように受信機を埋め込む。トランスミッターで行動を支配するために未来の疑似記憶を植え付ける。

 人間を思い通り動かすことができた。

 高いビルの屋上から死の恐怖を感じさせることなく、人間は飛び降りた。全てがトランスミッターで生成した疑似記憶のままの行動。「完璧だ。よくやった。飛び降りた人間は罪人だからお前達は正しいことをした」、二人の頭を佐久間が撫でた。

人に誉められることを知らなかった二人。誉められる嬉しさと恥ずかしさを知った。そして、二人は特殊能力をより磨き、精度を上げていった。


 特殊能力の着地点に痕跡を残すことなく、とても簡単に死が生まれる。榊と三沢が並んで倒れている景色、その手が重なっている。断片的に編集された映像が拡散される。スキャンダラスなニュースがドラマチックに流れるたび、その死が安っぽくなる。

スマホとは銃に匹敵する武器だ。見も知らぬ誰かを簡単に地獄に落とすことができる。トランスミッターでたがが外れた好奇心が加速した野次馬達は砂糖群がる蟻のように榊と三沢の心中映像が拡散する。死んだ人間が名の売れた人間であればいい。死んだ理由など知らなくてもいい。誰かが面白おかしくコメントしてくれる。コメントが噂となり、真実となる。ネット上の架空の世界で匿名の友人同士がいいねドルを求め合う。たとえ炎上し、匿名の命が焼かれても、新しい匿名の命を貰えばいい。

 架空の世界にある瓦礫の山の上で偉そうな椅子に座るために匿名の命を懸けて、情報が現実の世界に拡散される。榊と三沢の死により生まれた同一視現象でユウは死の痛みを味わう。積み重なる脳の破片が作り出す悪魔の影と呟きにケイは耳を塞ぐ。誰も救われない。この世界はろくでもないまま変わらない。たとえトランスミッターを使ったとしても。


 佐久間の依頼通り、二人は完璧に事を成した。全てを見ていた佐久間。二人の特殊能力は複数に対しても発動できる。それこそが佐久間が見たかったもの。リトマス試験の結果に満足する。二人を拾い、ここまで育ててきた。その苦労が報われる時が来たのだ。

 佐久間はある組織に属していた。この国に絶望した人間が集まる組織。国家再生のため、国家転覆を夢見る。組織の目的はこの国の正義を正すこと。この国の脳と言われる政治家達は今や老害でしかない。政治的利権、経済的利権を手放す気のない、欲望まみれの政治家達。地位と名誉を守るためにシステムが整備され、権力がその子供に継承される。同じ教育を受けた子供は欲望にまみれたコピー人間となり、同じことが繰り返される。

 決して国が変わることはない。権力を牛耳る政治家が全ていなくなること。新たなる世代が国を正しい方向に導くこと。それこそがこの国の再生計画。そのために二人の特殊能力が必要だった。この国は戦争を放棄し、テロも起きない平和な国だ。それでも、老害達は屈強な警護に守られている。老害の抹殺は簡単ではない。二人の特殊能力を使えば、どんな警護がつこうと関係ない。ケイのレシーバーでこの国の老害に受信機を埋め込む。ユウがトランスミッターで自殺の疑似記憶を植え付ける。それで完了だ。◯月◯日〇〇時に同時に老害が自殺を図る。誰も逃れることなどできない。痕跡も残らない。一瞬で全ての老害が抹殺される。政治的利権も経済的利権も平等に分配される。平等な世界が再生される。結果は極めて合理的だ。ユウとケイにとっても素晴らしい世界に違いない。全てが終われば、特殊能力をもう使わなくてもいい。計画の道具にすぎなかった二人の未来を気にするなんて。家族ごっこの中で生まれた感情に佐久間は笑った。


 今日、久しぶりに二人の家に寄って行こう。ずっと仕事の依頼でユウしか会っていない。ケイにも会いたい。家族ごっこ、たまにはいいだろう。今回の仕事の成功を褒めてやる。佐久間が車のドアに手をかけると、ゲリラ豪雨で濡れたドアレバーに絡みつく手に雨水が滴る。背後に何かがのしかかった。背中を切り裂く痛みを脳が認識する前に突如として現れた何かを振り払った。体の力が砂時計の砂のように零れていく。体を反転させ、その正体を見る。艶やかなネオン街を背に男が左手に刃物を持って、立っていた。

 ドラミングのように拍動する心臓、背中から血が滴り、腰、尻を伝い、ゲリラ豪雨の跡の水溜まりを真っ赤に染める。佐久間は車を背に何とか体を支えていた。男の影が揺らぎ、正面から佐久間にぶつかってくる。腹部を刃物が突き上げた。その都度、佐久間は電気が走ったようにビクリと反応する。やがて、その反応も鈍くなる。佐久間にはもう男を振り払う力はなかった。

 パッキンの壊れた蛇口のように血が止まらない。血液が脳まで届かなくなる。血液の枯渇した脳は潤いを失い、その機能がゆっくりと奪われていく。痛みや苦しみ、死の恐怖を認識できないほど脳の機能が低下し、最後に残ったのは電気信号が構築するただの思い出。佐久間は力が入らない手を必死で伸ばす。それは小さかったユウとケイの頭を撫でる仕草に似ていた。口元が震えながら笑う。空気が振動して、言葉が零れる。ユウとケイの名前だ。言葉は風に巻かれて、消えていく。佐久間にはメリーゴーランドで笑う二人が見えていた。


 男は膝を地面に付けて、車を背に動かなくなった佐久間の首元に触れる。血で濁った目はもう何も映していない。佐久間の死を確認し、仕事の完遂を認識した。少し乱れたネクタイの結び目を寸分の狂いのない左右対称の五角形に締め直す。殺人衝動を抑えられない人殺しは殺し屋という天職を見つけていた。これはただの殺人衝動を抑えるための我慢の仕事。佐久間の最後の仕草にも言葉にも興味はない。目の前の男を殺したという事実で少しだけ殺人衝動が満たされる。次のターゲットは女であればいい。きっと最高の作品になる。男は何事もなかったかのように佐久間の死体を後にし、街の中に消えていく。その姿は殺し屋を天職とするような男には見えなかった。


 ゲリラ豪雨の余韻が月を隠していた。ユウが目指すマンションへの道路を照らすのは街灯のみ。白く熱を帯びた街灯に照らされる道路はゲリラ豪雨のおかげでゴミ屑一つなく綺麗だ。ホテルを出る時、トランスミッターで好奇心のたがが外れた野次馬とすれちがう。スマホを片手に笑っていた。明日のワイドショーの看板を飾る榊と三沢の心中ニュースを想像するだけで、憂鬱な気持ちが心を満たしていく。トランスミッターのもっといい使い道があればいいのに。そう考えても思い浮かばない。


 ユウはマンションの玄関の鍵を開ける。鍵穴の中での凸と凹がぶつかり、カチリと冷たい金属音を奏でた。ゆっくりと開くドア。その隙間からこぼれるのはテレビから発せられる平和的で下品な笑い声。ケイが先に帰ってきていた。テレビに目を向けることなく、ソファーに溶けるように横たわる。今日の仕事で疲弊した体を休ませている。

「大丈夫か?」

「なんとかね。ユウは?」

「俺もだよ」

「なあ、佐久間を信じている?」

ケイが言葉を続けた。佐久間は里親で雇用主。これまでの生活は佐久間がいたから存在する。それでも、ケイの疑念は消えない。佐久間を父と思おうとした。いや思っている。そんな感情を食い尽くそうとするのはこの正義に対する疑念。罪人だからいい。そういう問題じゃない。これは悪魔の力だ。

「このままでいいのかな?」

痕跡を残さない殺し屋として正義を実行してきた。正義にこだわればこだわるほど、奥村が身代わりとして逮捕された、あの人殺しが自由に世界を動き回っているのが許せなくなる。

「そうだな」

でも、仕方がないよとユウは言いかけて止める。佐久間と同じ誤魔化しを言いそうだったから。

「このままでいいのかな?」

ケイはまた言い残し、ベッドへと向かう。最近、ケイは随分とおかしい。手の怪我の理由も言わない。佐久間が与えてくれた正義という理論が揺らいでいる。そもそも正義ではない。殺し屋と人殺し、結果は同じだ。あの殺人衝動を持つ人殺しを責める立場ではない。そんな分かりきった事実が消化できなくなっている。それはユウも同じだった。ユウは冷蔵庫からミネラルウォーターを手に取り、キャップを開けた。水分を飲み干すとカラカラに喉が渇いていたことに気がつく。

「なあ、今度、佐久間と会わないか。仕事抜きで。お前の事を気にしているぞ」

これは真実だ。佐久間はケイを心配している。家族ごっこだったとしても。

「考えとくよ」

ベッドで横になるケイの傍らでその頭を撫でた。お前ならできる。佐久間がいつも撫でてくれるように。

「とりあえず飯だな。チキン南蛮ととんかつ弁当、どっちがいい?」

どっちでもいいよという無言の仕草をするケイ。四人で暮らしていた頃より広く感じるマンション。ここで家族ごっこをしていたのが遠い昔のように感じる。ユウは弁当を電子レンジに入れる。五分と時間をセットすると、低く唸りを上げながら、プラスチックの容器に入った弁当が回る。温めが完了するタイミングで電子レンジが急停止した。いや、電子レンジだけではない。誰も見ていないテレビも部屋中の明かりも切れて、無音の闇が訪れる。スマホの画面にタッチし、スマホが生きていることを確認した。窓の外に広がる街灯。この地域の停電ではないことを理解した。ただブレーカーが落ちただけだろう。「まったく。ケイ、ちょっと待っとけ。ブレーカー上げてくる」、スマホのライトを点灯させ、周りを照らす。そこに浮かび上がる人影達。闇と同化し、部分的に体が欠落していて、闇に蠢く虫のように見える。瞬間的に沸き上がる恐怖に頭の中で警報が鳴った。「ケイ!」、ユウが声を出した途端、闇に蠢く虫は猫のように物音を立てることなく、獅子のように強靭な四肢でユウを押さえつけた。


 ゲリラ豪雨が通りすぎた空はまだ湿っていた。雨の残り香が廃倉庫を満たしている。割れた窓硝子から差し込む月光。パイプ椅子に拘束されたユウとケイ。不快な笑みを見せつける男達。何年も使われてない廃倉庫には錆びついた機械が並んでいた。機械に染みこんだ油が気化し、この空間の空気を澱ませている。劣化し変色した紙屑、砕けた硝子片、使用目的を思い出すことができない金属製の部品達が床に転がり、何年も人の出入りがなく、時代に忘れ去られた場所であることが容易に想像できる。そんな場所にたまたま巡回していた警察官が現れるなんて奇跡などあり得ない。つまりは手詰まりというわけだ。

 月光の帯がふりそそぎ、放置された機械の陰影がゆっくりと動く。煙草の煙が風に流れて消える。時計の針が刻むように心臓の鼓動が聞こえる。まだ生きている証拠。こんな未来を、見知らぬ男達に拘束される未来を想像していなかったわけではない。

特殊能力で痕跡を残さない殺人を犯しているのだから。奥村のように情報がリークされて、狙われてもおかしくない。そういう世界なのだ。

 マンションで大きめの旅行バックに二人は詰め込まれた。運ばれる過程に微塵の無駄もなかった。この過程を考えれば、明らかにプロの手際だ。これが佐久間の指示だったらと考えると心が痛む。二人が信じた大人に裏切られたことになる。ここで殺されることよりもそんな結末を一番恐れていた。

 無機質な足音が響き近付いてくる。床に転がる硝子屑の割れる音が混じり、次第に音が大きくなる。廃倉庫にいる男達と明らかに毛色の違う男がまるでヒーローのように現れた。その男は上品に仕立てられたブランド物のコートを羽織っている。二人を拘束した男達が雑種だとすれば、上品な血統書付というとこだろう。社会学的にも明らかなランクの違いを見せる。その雰囲気はいつも高級ブランドを身に纏っていた佐久間と似ていた。

「はじめまして。佐久間から君達のことは聞いてますよ。レシーバーとトランスミッター。痕跡を残さず、人を殺せるとは素晴らしい才能です。申し遅れました。私は萩原と言います。佐久間の計画を引き継ぐことになりました。これから私の指示で仕事をしてもらいます。早速ですが、ケイ君、君にはこのリストにある若者にレシーバーを使ってもらいます。ユウ君にはトランスミッターでテロリズムの衝動を植え付けてもらいます。理解できましたか?」、萩原の穏やかで丁寧な口調と正反対の狂気にユウの背筋が凍る。萩原の笑みは冷淡で冷酷。佐久間がくれた仕事のルールはターゲットが罪人であること。萩原の指示はそのルールに大きく離反する。このリストにある若者達にテロを起こさせるという計画。馬鹿げている。若者達はどんな罪を犯したのか。痕跡を残さない殺し屋として仕事をするべきターゲットになるのか。佐久間、教えてくれ。これは正義なのか。「お前達で考えればいい」、佐久間がそう答えた気がした。

「これは佐久間の指示なのか」、違うと言ってくれ。そんな願いはどこに届くのだろうか。ユウの言葉に萩原の笑みは変わらない。その笑みは以前に見たことがあった。ああ、そうだ。あの男だ。異常な殺人衝動を持つあの男と同じ。抑えきれない殺人衝動から込み上げる歓喜と狂気がこぼれ落ちる笑み。この男にとってこの国の再生などただの大義名分。残虐な殺人ショーを見たいだけ。上がる口角からあの男と同じ匂いがする。佐久間ならば、こんな馬鹿げたことを考えない。

「君達は何か勘違いをしているようですね」、萩原の口許に小さな太陽のように煙草が燃え、煙が風に流れていく。

「佐久間もこの組織の一部です。君達もね。この指示は組織からのもの。君達は抗えない」、萩原は少し面倒くさい素振りで続ける。「道具として調教するだけでよかったのに。家族ごっこなんてことをするから」、黒い革製の手袋をはめられた両の手でオーケストラの指揮者ばりに萩原は男達に指示を出す。その瞬間、ケイの体がパイプ椅子ごと弾けた。ケイとパイプ椅子が地面を削りながら滑って止まる。曲がったパイプ椅子と同じ角度でケイの右手が異常な角度で曲がる。

「君達に選択肢があるとでも思っているんですか?ユウ君、道具として働くにはまだまだ調教が必要なようですね」、萩原は手袋を外し、手首を振る。その立ち振舞はどこか演技じみている。

「ここにいる男達が最も優れていることは何だと思いますか?」

いつの間にか萩原は二本目の煙草を咥えていた。口から吐きだされる煙が悪魔の形を作りだす。

「これはとても重要なことです。君達は恐怖を与えることなく、痕跡も残すことなく人を操り殺すことができます。痕跡を残さない殺し屋。その才能は素晴らしい。その才能と同等に素晴らしい才能を彼等も持っているのです。彼等の才能は殺さない程度に人を痛めつけることができること。君達のように簡単に人は殺さない。泣こうが、わめこうが、暴力をやめない。つまりは暴力のブレーキとなる良心を持っていないのです。もう一つ重要なことがあります。生と死を区切る境界線が彼等には見えているのです。決して殺さずに暴力で痛め続けることができる。それが彼等の才能です。君達がどこまで堪えられるか楽しみです。そういえば、佐久間のことですね。気になるのは。君達の里親ですから」

もったいぶった言い方。絶対的な絶望を与えるための間を煙を吐きながら作る。

「組織が処分しましたよ。私達の目的はこの国の転覆と再生。佐久間はこの国の未来よりも君達の未来を選択しました。優先順位を間違えたのです。君達の未来のためにこの国の老害たる政治家を全て抹殺しようとしたんですよ。その老害たる政治家は君達の未来には不必要でも、この国を再生するのに必要な老害たる政治家もいるのです。君達のことなどただの道具として扱えばいいのに。残念なことです。優秀な男だったんですが。この国を再生するという誇りを忘れてしまったんですね。」

 こんなことを仕組んだのが佐久間ではないこと。佐久間が自分達の未来を考えてくれたこと。そのせいで佐久間が殺されたということ。萩原が語る言葉から紡ぎだされる真実。未来が消えていく。いや、そもそも未来などあったのだろうか。ユウとケイ、こうして二人でまだ生きていること自体が奇跡なのに。それなのに絶望しか感じない。。この感情は何だろうか。ユウの鼓動が速くなる。萩原はまだ何かを喋っている。その意味を理解したくても、頭がついていかない。もう雑音にしか聞こえない。そのうちに始まる暴力。男達の拳が一発、また一発と飛んでくる。ユウを、ケイを殴り続ける。その拳に骨が軋む。拳は血の通わない金属のように冷たくて硬い。それは男達が良心を持たない証拠。生と死の境界線を越えないというルールの中で男達は二人を殴り続けた。

 割れた窓硝子から差し込む月光。萩原の冷淡で冷酷な笑み。ルーティンワークのように男達は黙々と二人を殴り続ける。終わらない夜。沈まない月。昇らない太陽。時は刻んでいるはずなのに、地球が静止しているような気がした。もう佐久間はいない。そんな事実を礎にユウの中で冷たい感情が生まれる。

 冷たい感情は血管を通って、体を廻り、やがて脳に到達する。脳内にある細胞が感情を受けて、電気信号を発生させる。電気信号とは記憶。過去の記憶が色鮮やかに蘇る。その映像は今、ここで起きていることの起因となる記憶だった。


 銀色に光る蛇口から水滴の落ちる音が頭の中、どこだかか分からない場所で反響して消えない。窓から射し込む夕陽がフローリングの床をじんわりと熱くする。上半身裸で仁王立ちする父の影がユウとケイを見下ろしていた。いつもと同じ景色と匂い。父からは煙草とビールの匂いしかしない。その下でユウとケイが床に正座させられている。父の拳でケイの右口角と瞼が内出血していた。頬を伝った涙がすでに乾き、白い筋となっている。父はユウを殴り、ケイを殴る。毎日、飽きることなくただ拳で殴る。仕事がうまくいかない。ビールが不味い。煙草が切れた。パチンコに負けた。取ってつけた理由で父は二人を殴る。取ってつけた理由だから、そもそも理由なんてないに等しい。ただ殴りたかったから。それだけだ。

 血の繋がっているはずの実の母は二人が殴られている光景を見ているはずなのに見えないふりをする。父が殴り続ける間も何事もなく料理を作り、洗濯をする。見えているのに。聞こえているのに。

いつから始まったのか。分からない。毎日殴られていた。痛みに震え、心が削られていく。誰も助けてくれない。誰も助けてくれないのなら、どうすればケイを守ることができるのか。希望など見えない世界で憎しみが少しずつ溜まっていく。


 父も母も死んでしまえばいい。


 ユウに生まれた憎しみが少しずつ蓄積される。父や母だけではない。絵本の中では神様はとても優しかった。図書室でケイと二人で読んだ。何でも願いを叶えてくれる優しい神様の物語。そんな神様も何もしてくれない。いるはずのない神様まで憎んだ。

心の奥底に流れる感情の川が氾濫し、真っ黒な濁流となる。濁流の中、摩擦を感じさせないほど滑らかで透き通った皮膚感を持つ物体が盛り上がる。それは四足歩行の獣のよう。進化の系譜に従い、二足歩行の形態へと変化する。滑らかな頭をもたげ、三日月のように口角を上げて笑う。それは憎しみの塊。トランスミッターのトリガーとなった。

 父の振り上げた拳が止まった。母のまな板を叩く包丁の音が止まった。ユウはケイの手を握り、自分の傍らに手繰り寄せた。途端、父と母は無言で互いを凝視する。母が包丁を強く握り、父に突進した。父が包丁を交わすことなく拳を母に叩き込んだ。一瞬の出来事だ。父の胸に深々と包丁が突き刺さっている。父の拳で母は柱まで飛ばされ、帽子掛けが後頭部に突き刺さりぶら下がっている。とてもあっけなかった。ユウが願った通り父と母が死を迎える。父の死因は心臓損傷による失血死、母の死因は外傷性脳出血だ。

 日常生活の中、レシーバーで受信機を父と母に埋め込んでいた。トランスミッターで受信機に憎しみから生まれた願いを植え付けた。そのおかげで二人は虐待という地獄から逃れることができた。

「僕が殺したんだ」、レシーバーで受信機を埋め込んだから。

「違う。殺したのは俺だよ」、トランスミッターで憎しみから生まれた願いを植え付けたから。

「お前は悪くない」、ユウはケイを抱き締めた。

世界は不合理なものを認めない。特に二人にしか分からない特殊能力など論外だ。それが殺人の手段などと認められることはない。虐待をしていたイカれた夫婦が殺し合いをしただけ。結果、虐待を受けていた二人の子供が救われた。世界は平和的な美談を求めて、そう二人を定義する。二人には当然しっくりこない。特殊能力で父と母を殺した事実が消えることはない。

父と母が死んだ後、二人は施設という名の仮初の場所にたどり着く。優しい顔をした施設の大人にも笑うこともできない。次第に二人だけの世界に閉じ籠もっていく。「決して自分達が悪いわけではない」、そう思い込みたい。そんな自分達が許せず、二人は常に表情を曇らせていた。そして、佐久間が二人を引き取るために里親としてやってきた。

「お前達は決して悪くない」、佐久間の第一声だ。何を言っているのか、分からなかった。特殊能力のことも、父と母を殺したということも全てを知っているという顔で言葉を続ける。「俺にはお前達の特殊能力が必要なんだ」、佐久間はそう笑って、「家族になろう」と二人に手を差し伸べた。

 佐久間が里親になった理由は愛情でも同情でもない。この特殊能力が必要だったから。それでも、初めて二人を必要だと言ってくれた大人だった。

里親の母親役の女はユリと言った。本当の名前かどうかも分からない。毎晩、ユウとケイが眠りにつくまで絵本を読んでくれる。布団から伝わるユリの温もりに心が安心していく。ユリの手料理がテーブルに並び、いつも四人でご飯を食べた。普通に学校に行って、ただいまと帰るとおかえりとユリが笑う。遠足ではユリが手作り弁当を用意し、運動会では佐久間が二人の名前を大きく叫んで、腕を回す。文化祭、授業参観、入学式、卒業式、ありふれた学校行事を当たり前のように佐久間とユリは参加して、四人の食卓で笑いながら話す。決して特別じゃない時間が当たり前のように存在していた。

 ユリは佐久間が里親になるために雇われただけの女。本当の母親にはならない。それでも、二人を守ろうとしなかった実の母とは違う。嘘の存在でも誰よりも優しかった。真っ赤なワンピースがお気に入りで、鼻歌交じりに洗濯したシーツを叩く。柔軟剤の香りがいつも心地いい。そして、ユリは姿を消す。

「今日で契約終了だから」、ケイの高校卒業の日だ。ユリは組織に雇われた女優。依頼があれば、仮初めの母親でも何でもなりきることができる。それが仕事。それも契約期間の間だけ。最初から終わりが決まっていた家族ごっこ。ユリは二人を抱き締める。

「強く生きなよ」、感情を押し殺す声が震えている。真っ赤なワンピースの後ろ姿が夕日に溶けて、消えていった。

 ユウは佐久間の仲介する仕事、つまりは特殊能力で痕跡を残さない殺し屋として殺人の依頼をこなすようになる。ケイは高校を卒業した後、痕跡を残さない殺し屋と大学生を行き来する。少しずつ環境が変わる。少し白髪の出始めた佐久間が言う。

「今日から別々に暮らすぞ」、佐久間がマンションから出ていった。「お前達が必要だ。また仕事の時、電話する」、佐久間の目元に皺が浮かぶ。二人とももう子供じゃない。佐久間は二人の特殊能力が必要だったから、里親になった。ユリは母親役を演じただけ。ただの家族ごっこ。でも、二人には本当の家族にしか思えなかった。


 殺さない程度に痛めつける才能を持つ男達が生と死の境界線を越えないようユウとケイを殴り続けている。ユウは一瞬意識を失っていた。その間に見た夢は忘れたくても忘れられない昔話。虐待をやめない父と守ってくれなかった母。その父と母を殺した特殊能力。特殊能力を利用しようとした佐久間。組織に雇われただけのユリ。そんな佐久間とユリが家族というものを教えてくれた。そして、佐久間も殺された。二人の未来を考えて殺されたのだ。

月はまだ真上にある。夜がまだ終わらない。父と母を殺した罪だろうか。もう誰を殺した罪か分からなくなった。それでも、はっきり分かっていることはあった。萩原の道具として特殊能力を使ったとしても、何も変わらないということ。決してケイを幸せにすることはできない。この主従関係が死ぬまで続き、虐待されていた頃と変わらない。ユウはケイを見る。ケイもユウを見る。二人にしか理解できない特殊能力。二人にしか理解できない世界。もう言葉はいらなかった。


 二人はようやく拘束から解放される。それは特殊能力を使うため。萩原が男達に顎で指示を出すと、ケイはモニターの前に座らされる。体の痛みが消えたわけではない。それでも、やらなければならない。レシーバーでリストにある若者達に受信機を埋め込む。ケイの目の前でモニターが待っていたかのように湖面のように液状化する。モニターに月が映った。それは真ん丸で欠けることなく満ちていた。これまでと同じだ。ケイは限定解除されたレシーバーでひたすらに受信機を埋め込んでいく。

 人間には限界があり、それには天井がある。そして、天井は二分化されている。体の軸と心の軸だ。その二つの軸が限界に達した時、人間の機能は停止する。最初に殺さない程度に痛めつけられたケイの体が限界に達して機能を停止した。佐久間の死が重くのしかかり、心が限界に達した。ケイの膝が崩れ落ち、ゆっくりと体が沈み込む。

 電気が切れたように椅子から落ちるケイをユウは体で支える。そんな光景を見ても、萩原の冷淡で冷酷な笑みは変わらない。やはり佐久間とは違う。ユウはそう確信する。佐久間は家族ごっこでも家族を教えてくれた。家族として自分達の未来のために世界を変えようとしていた。確信はユウの心を強くする。あの大きな手で頭を撫でてくれたこと、お前達ならできると言った佐久間を思い出す。ユウの番が回ってきた。

「さあ、テロリズムの衝動を」、萩原はオペラ歌手のように声を上げる。

「ああ、やるよ」、ユウにはレシーバーで埋め込まれた受信機と海馬とを繋ぐ糸が見えていた。ユウにしか見えない糸。ゆっくりと風に漂い、絹糸のように美しく煌めく。それは廃倉庫内の至る所に幾何学的な蜘蛛の巣を張り巡らしている。その一本一本がケイの意思で紡がれ、この廃倉庫内の男達に繋がっている。萩原も例外ではない。

 ユウはトランスミッターで憎しみの衝動を植え付ける。父と母が殺し合った時と同じように。ケイを守るためにみんな死んでしまえばいいと願った。純粋な殺意だ。こんな連中など殺し合って死んでしまえばいい。自分達が生き残るため、殺された佐久間のため、二人に関わる全ての人間に殺し合いをさせるために特殊能力を使った。。

 萩原から冷淡で冷酷な笑みが消えた。萩原も男達も壊れたブリキの玩具のように動きが止まる。憎しみの衝動が心を支配する。萩原達の四肢が小刻みに震え、熱を帯びる。その姿は鎖に繋がれても、なお抗う罪人のよう。抑圧された衝動はただその時を待っていた。

 にぎやかしいライブハウスがミュージックを忘れてしまったように廃倉庫に流れていた風が消える。空気が固定化し、緊張感が脈打って走る。これから廃倉庫で起こること。萩原達が知ることはない。すでに出来上がっている。心を満たす憎しみの衝動が今か、今かとユウのトリガーを待っている。滑らかな皮膚感を持つ憎しみが三日月のような口で笑う。さあ、殺し合いの時間だと。

 堰を切って時間が流れ出した。激しいステップを奏でるダンサーのように萩原達は互いに襲いかかる。殺さない程度に痛めつける才能など関係ない。生と死の境界線など簡単に越える。トランスミッターによる憎しみの衝動に操られるまま、殺すための暴力を存分に振るう。萩原が部下であったはずの男の喉元をその顎で獣のように食いちぎる。返り血でブランド物のコートが汚れても気にはしない。むしろ、その顎に滴る血の熱さに歓喜し、血統書付きの毛並みの良さなど忘却の彼方に消えてしまっている。その萩原も他の男達に抑えつけられ、襲われる。憎しみの衝動のままに殺し合う男達。一人二人と順番に倒れていく。誰も動かなくなるまでこれが続いた。

 ユウはトランスミッターでこの血にまみれた世界を作り出した。同一視現象で全ての死の痛みがユウに流れ込んでくる。死の痛みは萩原達の死の数だけ繰り返される。これは罪だ。一生背負っていかねばいけない罪だ。トランスミッターがなければ、二人ともあの父と母に殺されていた。トランスミッターがあったから、二人の命が救われた。死の痛みに耐えながらユウは思う。でも、これは間違っている。こんな血にまみれた世界ではケイを幸せにできない。こんな血にまみれた自分がケイといてはいけない。ユウは泣きながらケイを抱き締めていた。


 月光が赤く映るほどの血の惨劇が終焉を迎える。萩原達の死体が風に晒され、熱を失っていく。月光は微かで廃倉庫の残骸なのか、萩原達の死体なのか、区別が難しかった。それらを踏まないようにユウは歩く。背中には意識を失ったケイがいる。顔が青白く、呼吸も微かだ。いつ死体の仲間入りしてもおかしくない気がした。粘り気のある肉片と固まりつつある血液が怨念のように靴底にまとわりつき、二人が行く道の邪魔をする。ここから出るんだ。もう誰も二人を追うことはない。怨念を引きはがすよう足に力を入れると、断末魔の悲鳴が聞こえた。

ケイはレシーバーで見える世界に浮かんでいた小窓にある脳に、海馬にひたすらに受信機を埋め込んだ。あの男たちだけではない。世界中の人間にだ。それには組織の人間も含まれている。ユウは受信機に紡がれた糸を辿り、組織の人間を全て見つけ出す。その中に収賄容疑で世間を賑わしていた老害たる政治家がいた。国民は街灯に惹かれる蛾のように派手なニュースに目や耳を向ける。それが不幸なニュースであればいい。蜜の味がすればなおいい。政治家の収賄容疑のニュースを世間の目から紛らわすためには有名で華やかな榊と三沢のスキャンダルな心中事件が必要だった。それがあのホテルでの仕事の目的。本当の目的を知って、ユウはこの国は根幹から腐っていると感じた。その政治家も殺し合い、命を絶っている。二人に関わる人間全てが殺し合うように憎しみの衝動を受信機に植え付けた。誰もトランスミッターから逃れることはできない。逃れられない衝動の鎖で人を支配し、その死を操ることがユウにはできる。理由も知らないまま、人が死んで、人を殺して、関わる人はその死の理由を知ることもないまま、途方に暮れるしかない。

「最悪の世界だよな」、意識のないケイに途切れ途切れに呟く。

「こんなろくでもない世界でも、お前には幸せになってほしい。そのためには俺は一緒にいちゃいけないんだ。お前は何も悪くない。みんな俺がやったことだ」、ケイの記憶がゆっくりと色を失っていく。虐待を続けた父と助けてくれなかった母のこと。施設でのこと。佐久間のこと。ユリのこと。馬渕や榊、三沢のような自分達が殺した人間のこと。悲しい記憶も、嬉しい記憶も全て分解し、ケイにとって嬉しい記憶だけで再構築する。脳という曖昧な臓器に都合のいい記憶が出来上がる。

「どうか幸せになってくれ」、次にケイが目覚めた時、その世界が変わっていることをユウはひたすらに祈った。


 

 自然豊かな景色に囲まれて、古ぼけた病院が建っていた。壁も色褪せ、降り積もる時間の蓄積を物語る。その壁をスコップで掘ると化石となった誰かの想いがきっと目を覚ますだろう。

病院のロビーにはこの国に人生を費やした結果、生活習慣病に悩まされる老人達が車椅子で行き来する。その景色を年老いた医師と看護師が温かく見守っている。車椅子に乗るケイはロビーから見える外界の自然豊かな世界を眺めていた。

「ケイ君、具合はどうですか?」、医師がケイの横に現れ、声をかけてきた。車椅子を器用に回転させ、医師の方へケイは振り向く。

「ええ、大分いいです。左手の使い方にも慣れてきました」、ケイの右手には麻痺が残っていた。箸を使うのもままならなくなって、左手でスプーンを掴み、不器用にご飯を食べる日々だ。

「それはよかった。あれだけの大怪我だったからね。リハビリをすれば、もっとよくなるよ」、医師は上品に優しい笑みを見せる。あれだけの大怪我か。ケイは自分に起きたことを思い出そうとしたが、うまく思い出せなかった。

「殺さない程度に痛めつける才能を持っていたおかげですよ」、脳の奥底から言葉が無意識に生まれ、口元からこぼれる。医師はケイの言葉に怪訝な顔をする。この少年は瀕死の状態で救急外来の入口で倒れていた。少年同士のいざこざで自分で動くこともできない状態になったから、仲間が捨てるように置いていったのか。警察ではないから詳細は分からない。だが、救急外来に来た以上、その命を救い、繋ぐために治療をした。医師としての当然の行為だ。それに応えるようにケイは回復し、何とかまともに話すことができるようになった。しかし、時折こうして意味の分からない言葉を吐く。自分の名前も言えるし、会話も理解できる。古い記憶があまり思い出せないでいる。医師は外傷性記憶障害と診断した。

 外傷性記憶障害とは外傷により受けたダメージで脳が損傷した場合に起こる記憶障害だ。古い記憶よりも現在、未来に至る記憶に障害が起こるケースが多い。ケイは違った。古い記憶、つまりは過去の記憶ほど朧気で、新しい記憶ほどクリアに理解できている。もちろん、そういう症例がないわけではない。珍しい症例の一つだった。医師が若く、探究心が強ければ、ケイを患者ではなく、研究対象として見たかもしれない。年老いた医師にはそんな気力などない。ただ命を救う。そんな思いでケイを一人の患者として見る。患者本人も動揺することなく外傷性記憶障害を冷静に受け入れている。そんなケイに医師は妙な違和感を覚える。

「じゃあ」、ケイは左手を不器用に振って、車椅子をゆっくり走らせ、自分の部屋へと戻っていった。

外傷性記憶障害。医師の診断は間違っている。ケイは思う。過去の記憶が部分的に黒塗りされたように思い出せないでいる。ケイにとって不必要な記憶と考え、ユウがトランスミッターで記憶の改竄を行ったのだろう。自分が苦しまないようにトランスミッターを使ったとケイは理解した。

 ユウのことは覚えている。父と母がいない理由は思い出せない。その代わり、里親であった佐久間とユリとの暮らしはよく覚えている。ユウが何故いないのか。佐久間が何故いないのか。ケイが何故ここにいるのか。それらが理解できない。相変わらず脳は都合のいい、曖昧な臓器だ。

「ケイ、危ないよ」、突然車椅子を止める手。それは真っ赤なワンピースを揺らすユリの手だった。

まだ自力で動くこともできず、ユウがいないことに震え泣いていた頃、ユリが突然現れた。ユリのことはよく覚えている。佐久間とユリが施設に二人ぼっちだったユウとケイを里親として引き取り、家族となった。ユウはどこにいるのか。佐久間がどこにいるのか。ユリに聞いても、いつか帰ってくるわと誤魔化すだけだった。二人ともこの世界にもういないのだろうか。そんな不安から泣きじゃくるとケイを抱きしめて一緒に泣いてくれる。ユリの優しさが伝わってくる。ユリが好きな真っ赤なワンピース、よく覚えている。四人でくだらないことに笑った時間も覚えている。もう戻らないのだろうか。

「それでいいのよ。ユウのことも、佐久間のことも覚えている。覚えていることだけでいいのよ」、ユリは本当の母親のような柔らかい笑顔でケイを抱きしめてくれた。


 川面に浮かぶ夕日、風にちぎれちぎれになる雲、囁くようなせせらぎに混じって、砂利を削る足音が響く。足音は二つ、重なり合うことはない。ユウとユリの足音だ。仮初めの母は昔と同じ真っ赤な色のワンピースを纏い、真っ赤な鞄を肩にかける。その姿にマンションで四人で暮らしていた頃を思い出してしまう。

「久しぶりね、ユウ」、ユリは少し大人びたユウの頭を昔と変わらずくしゃくしゃに撫でる。もし時間を遡ることができるのならば、昔に戻りたい。ユウの正直な気持ちだった。ユウは一冊の銀行通帳をユリに見せた。そこには一生困ることがないであろう〇という数字が並んでいた。

「何、これ?」、ユリはその金額に驚く素振りを見せる。痕跡を残さない殺し屋として殺人をしてきた報酬だ。佐久間が残してくれていたんだとユウは説明した。

「これであんたを雇いたい」、ユウはただ静かに笑った。依頼内容は聞かなくても分かった。

「あたしは女優よ。依頼があれば、仮初めでも家族にはなる。でも、演じきるだけ。本当の家族にはならないよ」、仕事のルールから発した言葉だった。その冷たさに心が傷む。女優という仕事にはルールがあった。一つ、契約対象と契約終了後二度と会わない。二つ、契約対象に決して感情移入しない。一つ目のルールは今、こうして破ってしまっている。二つ目のルールもきっともう破ってしまっている。

佐久間は二人に家族という感情を抱き、組織に処分された。あれだけ組織に忠誠を尽くしていたのに。

「うん。かまわないよ。仮初めでも」

「通帳を持って逃げるかもよ」

「いや、逃げないよ。この世界で信じられる大人の一人だから」、もう一人は佐久間というわけね。「全く」と言って、ユリはまたユウの頭をくしゃくしゃに撫でた。

「トランスミッターは使わないの?組織を潰した時のように」、ユリも二人の特殊能力のことを知っていた。ケイのレシーバーとユウのトランスミッター、佐久間がそれを利用するために二人にあてがわれた仮初めの母親役。母親ではない。女優だ。佐久間とユリが属していた組織は特権階級だけが優遇される不平等な世界を覆すことが目的だった。そんな組織もあの一晩で消えてしまう。二人が特殊能力を使ったことは明らか。組織が消えてしまったことでルールを破ったユリを処分する人間もいない。その代わり、ユリは仕事を失った。組織を潰すほどの力を持った特殊能力であれば、こんな面倒臭い契約をするよりもっと簡単なはず。

「必要ないよ。母さんだから」、ユウは照れ臭そうに殺し文句を吐いた。特殊能力よりも心にずっと重く突き刺さる。

「全く馬鹿息子が。あんたも一緒に来なさい」、ユリはユウの頭をくしゃくしゃに撫でる。嬉しげに、恥ずかしげに、苦しげに笑うユウは首を振る。

「俺はいない方がいい」、思春期の子供のように照れ臭く母さんと呼んだくせに、突き放された気がした。「トランスミッターでケイは自分にとって都合のいい記憶しか持っていない。だから、ケイを頼むよ」、目の前に存在するはずのユウが色褪せ消えてしまうような気がして、その腕をユリは掴んだ。掴んだはずなのにスルリとほどけるようにユウが離れていく。すでにユウは背を向けて、歩き出している。自分達を守るために実の父と母を殺したことに始まった罪、痕跡を残さない殺し屋として人殺しを続けた罪、罪が鎖となって、ユウの体と心を深く縛りつけている。この子はずっと一人で罪を背負って生きていくのだろう。

「分かったわよ。どうせ失業中だし、契約するわよ」、仮初めの母親でも、本当の母親がするように、自然に湧いた感情のまま、ユウを後ろから抱き締めた。

「うん」、ユウは小さな声で頷き、またその手をほどく。ユリを残して、川原の向こうに消えるユウ。砂利を削る足音が遠くなっていく。もう二度と会うことはない。言わなくても分かっている。どんな言葉を吐いても、ユウは帰ってこない。それが分かっていても、言葉を吐かずにはいられなかった。

「ケイの母親になるって契約だよね。そしたら、あんたもあたしの息子だからね。いつでも帰ってきていいんだからね」、とても子供じみた宣言だった。馬鹿げている。こんなの。どうして、こんなに胸が張り裂けるほど苦しいのか。たかが仮初めの家族ごっこだったはず。女優という仕事をクレバーに続けてきたはずなのに。クレバーになりきれない。ユリは佐久間が残してくれた通帳を鞄にしまい、ユウと逆方向に歩きだした。せせらぎの音がやけに優しく聞こえた。


 医師は頭を掻いた。慣れない電子カルテを見ながら、キーボードを叩く。

「もう入院の必要はないね。右手の麻痺も少しは良くなった。これからもリハビリだよ。大変だけど、少しずつ頑張ろう」、キーボードから目を離し、ケイに優しく笑う。「ありがとうございました」、ケイは丁寧に頭を下げた。車椅子の必要がなくなった足で椅子から立ち上がるケイをユリが肩で支えた。医師には普通の親子にしか見えない。「先生、お世話になりました」、普通の母親がするように礼を言うユリ。診察室のドアを開けて、ケイは松葉杖で器用に歩く。

「ねえ、ユウは優しいんだ。優しいから、僕がレシーバーを使わないでいいように、傍にいないんだ」、ケイは悔しそうに繰り返した。その言葉が重かった。ユウはトランスミッターでケイの記憶を改竄した。レシーバーのことは覚えている。特殊能力で父と母を殺したことも、佐久間の依頼で痕跡を残さない殺し屋を続けていたことも、その組織をつぶしたことも覚えていない。ユウはケイにとって都合のいい記憶だけを残した。ケイはユウのことを決して忘れることはない。ユウがケイのことを忘れることがないように。

 この社会で生きる上に契約が一番だと知っている。契約をすればお互い裏切ることはできない。裏切れば報復が待っている。簡単な縛りだ。これまでそうすることで安心して生きてきた。ケイを見ていると、そんな生き方に息苦しさを感じる。時間は毒だ。家族と過ごした時間が長過ぎた。しかし、そんな時間が今はとても居心地がいい。仮初めの家族、いや、仮初めでも家族。ユリはケイの背中を叩いた。

「しゃんとしなさい。ユウが見てるよ」、ユウから貰った依頼料、途方もない金額の通帳、きっと契約期間内に使いきることはないだろう。いつか本当の家族になれたらいい。ゆっくりと歩いていこう。ユリはらしくない感情に心を委ねることにした。


 街が静かに眠る。落ちるほど近くに月が浮かんでいる。見慣れた景色のようにどこにでもある住宅街が横たわっていた。道路には規則的に街灯が並び、その光と戯れる蛾達。羽から舞い散る鱗粉と踊るように揺れる影絵がきれいだった。

影絵が映るのは白い壁の家。幸せを絵に描いたような外観に見える。その実は違う。家の中で父が嗚咽を上げている。とっくの昔に出ていった妻。妻を愛していたのに。時間が感情を変化させていく。いつしか愛は憎しみとなり、それは子供らへ向かう刃となる。理不尽でも、不条理でもこの世界では当たり前のこと。世界は不平等に完成されたままだ。あの日と変わらない。

 妻がいなくなった後、子供とずっと暮らしてきた。妻に逃げられたなどと誰かに頼るのは格好悪い。ずっと子供を見てきたんだ。こんなに頑張ってきた。誰かに理解してほしかった。でも、誰も理解してくれない。孤独の中、負の感情が子供に向かう。子供を殴ることで何故か心を包む黒い霧が少しだけ晴れる。今夜も父は拳を握った。子供を殴るために。寝巻き姿で怯える子供。いつもと同じだ。覚悟を決めていた。歯を食いしばり、耐えること。それだけが子供に許された行為だから。突然、父の心を包む黒い霧を風が飛ばしていく。そこには懐かしい景色が見えた。幼かった子供と公園に向かう自分と妻。五月の青葉が風に揺れる。そうだ。あの頃は違った。世界がとても温かくて、優しい気持ちになれた。この子の未来を夢見て。いつも笑っていた。父は胸を押さえる。拳を握った理由も、子供らを殴りつけてきた理由も懐かしい景色に色と形を失っていく。

 父にはあの頃の笑い声が聞こえていた。その笑い声の温かさにただうずくまり嗚咽を漏らして泣いた。みっともなく床に這いつくばる。子供に映る父の姿。今夜も殴られるはずだった。いつも殴りつける父が泣いている。床に崩れ落ち、胸を鷲掴みにしている。父の頭に浮かぶのは家族で過ごした毎日で、色鮮やかな世界。それは子供らにも伝播した。父の胸に溢れる後悔と懺悔。抑えきれない慟哭の衝動。父は声を上げて泣いた。子供はどうしていいか分からず、一緒に泣いて、父にすがる。肌と肌が触れる温もりが家族を包む。今夜だけかもしれない。それでもいい。明日を、きっと今日と違う明日を信じられる。それだけでいいんだ。

 街灯の下、相変わらず蛾の影絵は優雅で楽しげだ。ユウはトランスミッターで懺悔と後悔の衝動と父の心の奥底に眠る懐かしい記憶を受信機に植え付ける。世界のどこかで誰かが救われて、明日が信じられるようにと。

 父と母を殺した罪が消えることはない。これまで行ってきた罪が償えるわけがない。それでも、自分にできることは同じ罪を背負わないようにトランスミッターを利用するだけだった。

あの日、ケイは組織の人間だけでなく、世界中の人間にレシーバーで受信機を埋め込んだ。世界のあらゆる場所で受信機と繋がる糸が揺らめいている。ユウはそれを追跡し、トランスミッターを駆使し、生きている。これがトランスミッターの正しい使い方なのかは分からない。それでも、そうやって生きることに決めた。ケイはきっと大丈夫だ。ケイにはユリが、母さんがいる。ユウには確信があった。

 佐久間とユリと家族として過ごし、ケイが無意識にレシーバーで受信機を埋め込んだかもしれない。ユウが無意識にトランスミッターで自然に溢れた感情を佐久間とユリに植え付けたかもしれない。いや、レシーバーもトランスミッターも関係なく、家族ごっこを過ごす時間の中で自然に育った感情かもしれない。真実は分からない。所詮、目に見えない特殊能力なのだから。それでも、ユリに温かみのある感情が生まれているのが分かった。そのおかげで仮初めでも本当の家族のように感じることができる。ユウの心は希望に満たされていた。ケイ、幸せに生きてくれ。そう祈ると自然と笑みが零れる。目の前の景色に受信機から伸びる糸が街灯に照らされ、虹色に煌めいている。次はあの少女だ。奥村によって心的外傷後ストレス障害となった少女。少女の脳に刺さった棘を抜く。それが今のユウにはできる。ケイのレシーバーによって紡がれた煌めく糸を辿り歩いていく。この煌めく糸がなくなるまで、生き続けよう。父さん。これでいいよね。ユウはゆっくりと歩いていった。


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