サイドストーリー 嵐の過ぎ去った朝と、再生への旅立ち

ガムテープを引く乾いた音が、何もない部屋に大きく響き渡った。


「これで、最後だな」


俺、湊隆司(みなと たかし)は、積み上げられたダンボール箱の山を見上げ、一つ大きく息を吐いた。

長年住み慣れた我が家。息子の遥輝(はるき)が生まれ、妻の京子(きょうこ)と三人で笑い合った場所。

壁には遥輝の背比べをした柱の傷が残り、床には彼が幼い頃にミニカーでつけた傷跡がある。

それらすべてが、愛おしく、そして今は少しだけ痛々しい記憶となっていた。


「あなた、業者さんが到着したそうよ」


玄関から京子の声がする。

振り返ると、妻は少し寂しそうな、けれど憑き物が落ちたような晴れやかな表情をしていた。

一年前、あんなにやつれて白髪が増えてしまった彼女だったが、ここ数ヶ月で少しずつ生気を取り戻している。


「ああ、すぐ行くよ」


俺たちは、この街を出る。

逃げるのではない。新しい人生を始めるためだ。

一年前、息子の遥輝が冤罪で学園を追われ、俺たち家族は地獄を見た。

「犯罪者の親」「教育がなってない」「出て行け」

家の壁には毎日のように落書きがされ、ポストにはゴミが詰め込まれた。

会社に行けば「息子さんの件、どうなってるんだ」と冷ややかな目で見られ、京子はパート先を解雇された。

それでも俺たちは、遥輝を信じ続けた。あの子がそんなことをするはずがないと。

だが、世界はあまりにも残酷で、俺たちの声は誰にも届かなかった。

結局、遥輝は家族に迷惑をかけまいと家を出て行き、俺たちは残された廃墟のような家で、息を潜めて暮らすしかなかった。


しかし、風向きは変わった。

遥輝が――俺たちの自慢の息子が、たった一人で巨悪に立ち向かい、真実を暴いたのだ。

西園寺蓮の逮捕。サイオン・ホールディングスの崩壊。晴翔学園の廃校決定。

ニュースが流れるたび、俺たちはテレビの前で涙を流した。


「やったな、遥輝……」

「あの子、頑張ったのね……」


俺たちの息子は、無実を証明しただけではない。彼を陥れた者たちすべてに、相応の報いを与えたのだ。


ピンポーン。


インターホンが鳴る。引っ越し業者だ。


「お願いします」


テキパキと荷物を運び出す作業員たちを見ながら、俺は庭に出た。

梅雨の晴れ間。久しぶりに見る青空が眩しい。

ふと、視線を感じて隣家を見た。

一ノ瀬家。

かつては家族ぐるみで付き合い、バーベキューや旅行を楽しんだ隣人。

沙織(さおり)ちゃんは遥輝の幼馴染で、将来は二人が一緒になるんじゃないかと、俺たちも由美(ゆみ)さんたちと笑い合っていた。


だが、あの日。

遥輝が犯人扱いされたあの日、彼らは掌を返した。


『関わらないでください』

『犯罪者の家族とは付き合えません』


浩一(こういち)さんの冷たい言葉と、ピシャリと閉ざされたドアの音は、今でも俺の耳に残っている。

彼らは遥輝を見捨て、金持ちの西園寺の息子に乗り換えた。

その結果が、今のあの家の惨状だ。


カーテンは閉め切られ、庭は雑草が伸び放題になっている。

時折、家の中から「ギャーッ!」という奇声や、物が割れる音が聞こえてくる。

沙織ちゃんだ。

精神を病み、引きこもっているという噂は、近所のスピーカーであるお節介な主婦たちから嫌でも耳に入ってくる。


「因果応報よねぇ」

「あんなに自慢してたのに」


かつて俺たちに向けられていた悪意ある噂話の矛先は、今や完全に一ノ瀬家に向けられていた。


ガチャン。


一ノ瀬家の玄関ドアが少しだけ開いた。

出てきたのは、由美さんだった。

ゴミ出しだろうか。ボサボサの髪に、大きめのサングラスとマスク。まるで指名手配犯のように周囲を警戒している。

彼女は、庭に立っている俺と目が合った。


「……っ!」


由美さんの体がビクリと震えた。

サングラス越しでも、彼女が動揺しているのが分かった。

彼女は逃げるように家の中に戻ろうとしたが、ふと足を止め、迷うようにこちらを振り返った。

そして、恐る恐る、蚊の鳴くような声で話しかけてきた。


「……みな、と、さん……?」


俺は無言で見つめ返した。

かつて「京子さん、これ作りすぎちゃって」と笑顔でお裾分けを持ってきてくれた彼女の面影はない。


「引越し……されるんですか……?」

「ええ」


俺は短く答えた。


「そ、そうですか……。あの……その……」


由美さんは両手を揉み合わせ、視線を泳がせた。


「遥輝くん……元気ですか……?」


その名前が出た瞬間、俺の腹の底から、熱い塊が込み上げてきた。

どの口が言うんだ。

お前たちが切り捨て、見殺しにした息子の名前を、よくもぬけぬけと。

俺が何か言い返そうとした時、背後から京子が歩み寄ってきた。


「あなた、荷積み終わったわよ」


京子の声は穏やかだったが、その瞳は氷のように冷たく由美さんを射抜いていた。


「あ、あの! 京子さん!」


由美さんが縋るように声を張り上げた。


「私……私、後悔してるんです! あの時、もっとちゃんと話を聞けばよかったって……浩一も、毎日お酒ばかり飲んで……沙織もあんなふうになって……私たち、罰を受けたんです……だから……」

「だから、何ですか?」


京子が静かに遮った。


「許してほしいと? それとも、昔みたいに仲良くしてほしいとでも?」

「そ、そんな贅沢は言いません……ただ、一言……謝りたくて……」


由美さんがその場で崩れ落ち、地面に手をついた。


「ごめんなさい……本当にごめんなさい……!」


土下座。

なりふり構わぬ謝罪。

だが、それを見ていても、俺の心には何の感情も湧かなかった。

憐れみも、優越感もない。

ただ「遅すぎる」という事実だけが、冷徹にそこにあった。


「頭を上げてください、一ノ瀬さん」


京子が淡々と言った。


「謝罪なんて必要ありません。私たちはもう、あなたたちのことを何とも思っていませんから」

「え……?」


由美さんが顔を上げる。


「憎んでもいないし、許しもしない。ただの『他人』です。赤の他人。……過去に隣に住んでいた、名前もよく思い出せない人たち。それだけです」


それは、最大の拒絶だった。

憎しみは、まだ関心がある証拠だ。

だが、無関心は存在そのものの否定だ。


「私たちは新しい場所で、新しい人生を生きます。遥輝もそうです。あなたたちは、どうぞその場所で、過去の残骸に埋もれて暮らしてください」


京子はそう言うと、踵を返した。


「行きましょう、あなた」

「ああ」


俺たちは由美さんに背を向けた。

背後から「待って……行かないで……」という嗚咽が聞こえたが、一度も振り返らなかった。

隣家の不幸を願うわけではない。ただ、彼らの不幸が俺たちの人生に関与することは、もう二度とないのだ。



トラックの助手席に乗り込み、エンジンがかかる。

住み慣れた街が、車窓を流れていく。

通学路、公園、スーパーマーケット。

そのすべてに、遥輝との思い出が詰まっている。

だが、それ以上に辛い記憶が染み付きすぎてしまった。


「……連絡、来たか?」


俺が聞くと、京子は膝の上のスマートフォンを優しく撫でた。


「ええ。昨日の夜に」


画面には、短いメッセージが表示されていた。


『父さん、母さん。引越し、お疲れ様。俺は元気でやってる。金も少しだけど送ったから、新生活の足しにしてくれ。もう心配いらないから。俺のことは忘れて、二人で幸せになってくれ』


添付されていた写真には、どこかの海岸線と、大きく広がる青空が写っていた。

遥輝は今、どこにいるのだろう。

あの復讐劇の後、彼は一度だけ家に帰ってきた。

変わり果てた姿に、俺たちは言葉を失った。

痩せこけ、鋭い眼光を宿した彼は、かつての穏やかな遥輝ではなかった。


『ごめん。俺はもう、元の俺には戻れない』


そう言って、彼は集めた証拠データの入ったUSBメモリと、復讐で得たであろう大金を置いて、また姿を消した。

止めることはできなかった。

彼が背負った傷と業は、親である俺たちにも癒やせないほど深いものだったからだ。


「忘れてくれ、か……」


俺は苦笑した。


「馬鹿な奴だ。親が子供を忘れるわけないだろう」

「そうね。でも……あの子らしいわ」


京子が目尻を拭った。


「あの子は、私たちを巻き込まないために、あえて突き放したのよ。自分一人で汚れ役を引き受けて……本当に、不器用で優しい子」


遥輝は、俺たちを守ってくれたのだ。

自分の手を汚して、俺たちを苦しめる元凶をすべて排除してくれた。

西園寺蓮も、学校も、そして薄情な隣人たちも。

彼は復讐者となったが、俺たちにとっては、間違いなく英雄だった。


「元気でやっていれば、それでいい」


俺は窓の外を見つめた。

街の境界線が見えてくる。

この橋を渡れば、隣町だ。

そこには、俺たちを指差す人間も、壁に落書きをする人間もいない。

匿名の一市民として、静かな日常が待っている。


スマホを取り出し、ニュースサイトを開く。


『晴翔学園、廃校決定。理事長は自己破産へ』

『西園寺グループ元会長・剛造被告、実刑判決か』

『SNSでの誹謗中傷、開示請求が加速。加害生徒たちへの損害賠償請求も』


画面の中では、悪たちが次々と裁かれている。

担任だった佐々木という教師も、懲戒解雇されて行方知れずだと聞いた。

遥輝をいじめていた生徒たちも、進学や就職を絶たれ、路頭に迷っているらしい。


「ざまぁみろ」


心の中で、汚い言葉を吐いた。

親として、息子の敵が滅びるのを見るのは、正直に言えば痛快だった。

神様は見ていなかったかもしれないが、遥輝自身が神の代行者となって鉄槌を下したのだ。


「……ねえ、あなた」


京子が窓の外を見ながら言った。


「いつか、あの子が帰ってきた時のために、新しい家にはあの子の部屋も作っておきましょうね」

「ああ、もちろんだ。布団も干しておかないとな」

「好物のハンバーグも、いつでも作れるようにしておかなくちゃ」


俺たちは顔を見合わせて笑った。

一年ぶりに、心の底から笑えた気がした。

闇は去った。

嵐は過ぎ去り、瓦礫の山は後ろに遠ざかっていく。

俺たちの前には、ただ真っ直ぐな道と、希望だけが広がっている。


「行こう」


俺は前を向いた。

遥輝が切り開いてくれた、この新しい人生を、俺たちは胸を張って生きていく。

いつか彼と再会した時、「父さんたちも頑張ったぞ」と胸を張れるように。


トラックは橋を渡りきり、新しい街へと入っていく。

バックミラーには、小さくなっていく一ノ瀬家の屋根と、淀んだ雲に覆われたかつての街が見えた。

さようなら。

二度と戻らない地獄の日々よ。

そして、ありがとう、遥輝。

お前のおかげで、俺たちはまた歩き出せる。


俺はスマホの画面の青空を指でなぞり、心の中で息子にエールを送った。

『お前も、幸せになれよ』

その願いは、きっとどこかの空の下にいる彼に届いていると信じて。

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