サイドストーリー 崩れ落ちた隣人愛と、色褪せた家族の肖
梅雨入りの発表があったばかりの関東地方は、連日の雨に閉ざされていた。
重く垂れ込めた灰色の空は、一ノ瀬家の今の空気をそのまま映し出したかのようだった。
かつては近所でも評判の「幸せな家庭」だった。
一部上場企業に勤める真面目な父・浩一(こういち)。
専業主婦で料理上手な母・由美(ゆみ)。
そして、才色兼備で自慢の娘・沙織(さおり)。
休日の庭先からは笑い声が聞こえ、バーベキューの匂いが漂う。隣の家に住む幼馴染の少年、湊遥輝(みなと はるき)も交えて、家族ぐるみで付き合いがあった。
だが、今のこの家に、そんな温かな光景は見る影もない。
リビングのカーテンは昼間だというのに閉め切られ、部屋の中は澱んだ空気が溜まっている。
テレビは消され、静寂を破るのは、二階の部屋から時折聞こえる娘の嗚咽と、物が壁にぶつかる鈍い音だけだ。
「……おい、酒はないのか」
浩一はソファに深く沈み込み、掠れた声で妻を呼んだ。
無精髭を生やし、目は充血している。かつて「仕事ができる男」として近隣の主婦たちの憧れだった姿は、どこにもない。
キッチンに立つ由美もまた、やつれ果てていた。
白髪が増え、化粧っ気のない顔は土気色をしている。
「……もう、ないわよ。昨日、あなたが全部飲んでしまったじゃない」
「ちっ、使えないな。買ってこいよ」
「嫌よ。外に出たくないもの」
由美は震える声で拒絶した。
「近所の人たちが……また見てるのよ。ゴミ出しに行くだけで、ヒソヒソと……」
そう、彼らは今、地域の「鼻つまみ者」だった。
一年前、隣家の息子である遥輝が冤罪事件で学校を追われた時、一ノ瀬夫婦は彼と彼の両親を徹底的に拒絶した。
「犯罪者の家族とは関わりたくない」
「娘に変な噂が立ったらどうするんだ」
そう言って、長年の付き合いを一方的に切り捨てたのだ。
そして、娘の沙織が、大企業「サイオン・ホールディングス」の御曹司である西園寺蓮(さいおんじ れん)と付き合い始めたことを、彼らは諸手を挙げて喜んだ。
「玉の輿だ」「将来安泰だ」と、親戚中に自慢して回った。
隣で苦しむ遥輝の一家のことなど、歯牙にもかけずに。
だが、因果は巡った。
蓮の逮捕、サイオン・ホールディングスの不祥事、そして遥輝の潔白の証明。
すべてが明らかになった瞬間、一ノ瀬家は「無実の幼馴染を見捨て、金持ちの犯罪者に尻尾を振った薄情な一家」として、世間から断罪されることになったのだ。
「……あいつらが悪いんだ」
浩一は吐き捨てるように言った。
「西園寺のガキが……あいつが俺たちを騙したんだ。俺たちは被害者だ」
「そうよ……私たちは娘の幸せを願っただけなのに……」
由美も同意する。
だが、その言葉には力がなかった。彼らは知っていたからだ。自分たちの心の奥底にあった「計算」と「見栄」が、この結末を招いたことを。
■
浩一は目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、一年前のあの日。
遥輝の父親が、土下座せんばかりの勢いで玄関先に訪ねてきた時のことだ。
『一ノ瀬さん! 信じてください! 遥輝はやってません! 彼はそんな子じゃありません!』
必死に訴える父親の姿に、浩一はどう答えたか。
『証拠が出てるんでしょう? 学校も警察も彼がやったと言っている』
『これ以上、うちに来ないでください。沙織が怖がっています』
『犯罪者の親御さんとは、お付き合いできません』
冷たくドアを閉めた。
あの時、遥輝の父親が見せた絶望的な表情が、今になって浩一の胸を締め付ける。
もし、あそこで話を聞いていれば。
もし、「遥輝君に限ってそんなことはない」と庇っていれば。
そうすれば、娘は今も笑っていたかもしれない。
「……クソッ」
浩一は会社での立場も失っていた。
週刊誌やネットニュースで「西園寺蓮の婚約者(仮)の父親」として特定され、会社にまで抗議の電話がかかってきたのだ。
『お前の娘のせいで、一人の少年の人生が狂ったんだぞ』
『教育はどうなってるんだ』
コンプライアンスを重視する会社において、スキャンダルの渦中にある社員は邪魔者でしかない。
浩一は閑職に追いやられ、窓際族として飼い殺しにされている。
部下たちは彼を避け、廊下ですれ違えば嘲笑の視線を投げてくる。
「あいつ、娘を金持ちに売ろうとして失敗したんだってさ」
「ざまぁみろだよな」
そんな陰口が聞こえてくるたびに、浩一のプライドは削り取られていった。
■
ガシャーン!!
二階から、ガラスが割れる音が響いた。
浩一と由美はビクリと顔を見合わせ、慌てて階段を駆け上がった。
沙織の部屋の前で、由美がおずおずと声をかける。
「さ、沙織……? どうしたの?」
「入ってくるな!!」
部屋の中から、獣のような叫び声が返ってきた。
浩一が意を決してドアを開ける。
そこには、地獄絵図が広がっていた。
かつてはピンク色で統一され、ぬいぐるみやアイドルグッズで飾られていた可愛らしい部屋は、見る影もなく荒れ果てていた。
本棚は倒され、カーテンは引きちぎられ、床には割れた鏡の破片が散乱している。
その中心に、痩せこけた沙織がうずくまっていた。
髪はボサボサで、目は落ち窪み、腕には無数の引っかき傷がある。
「沙織……」
由美が泣きそうな声で近づこうとする。
「触らないで!!」
沙織は近くにあった目覚まし時計を投げつけた。
それは由美の肩に当たり、鈍い音を立てて床に転がった。
「あんたたちのせいよ……!!」
沙織が血走った目で両親を睨みつける。
「あんたたちが言ったんじゃない!『西園寺君はいい人だ』って!『将来有望だ』って! だから私、蓮くんを選んだのに!」
「そ、それは……お前が彼を好きだと言うから……」
浩一が弁解しようとするが、沙織は許さない。
「嘘つき! パパ、言ったじゃない!『湊君みたいな凡人より、西園寺君の方がお前を幸せにできる』って! ママだって、『玉の輿ね』って喜んでたじゃない!」
図星だった。
彼らは娘の恋心を利用し、自分たちの見栄を満たそうとしたのだ。
隣の「普通」の少年よりも、ブランド力のある「特別」な少年を選んだ。
その結果が、娘の精神崩壊だ。
「返してよ……」
沙織が泣き崩れる。
「はるくんを返してよ……! 私の青春を返してよぉ……!!」
床を叩き、子供のように泣き叫ぶ娘。
その姿に、浩一と由美は立ち尽くすしかなかった。
かける言葉が見つからない。
「ごめん」と言っても、壊れた心は元に戻らない。
「これからやり直そう」と言っても、世間の目はそれを許さない。
彼らは、娘の人生というキャンバスに、消えない墨汁をぶちまけてしまったのだ。
■
その日の夕方。
由美は逃げるようにしてスーパーへ買い物に出かけた。
冷蔵庫が空だったからだ。
帽子を目深に被り、マスクをして、誰とも目を合わせないように早足で歩く。
だが、地域社会の目は残酷だ。
「あれ、一ノ瀬さんじゃない?」
「ほら、あの……例の」
「よく外歩けるわね」
「娘さん、引きこもりなんでしょ? 因果応報よね」
主婦たちのひそひそ話が、鼓膜に突き刺さる。
かつては「奥様、お肌綺麗ですね」「ご主人は出世頭で羨ましいわ」とちやほやしてくれた人たちが、今は軽蔑の眼差しを向けてくる。
スーパーのレジで、店員が釣り銭を渡す時、指が触れないように露骨に避けるのを感じた。
まるで、汚いものに触れるかのように。
由美は逃げるように買い物を済ませ、路地裏を通って帰路についた。
すると、家の前の電柱に、新しい貼り紙がされているのに気づいた。
『裏切り者の家』
『湊くんを返せ』
下手くそな字で書かれた誹謗中傷。
誰が書いたのか。近所の子供か、それとも正義感を暴走させたネットの住人か。
由美は震える手でそれを剥がそうとしたが、糊がこびりついて取れない。
爪が割れ、血が滲む。
「なんで……なんで私たちが……」
涙が溢れて止まらない。
自分たちは、ただ普通に生きたかっただけなのに。
少しだけ良い暮らしをしたくて、少しだけ自慢したかっただけなのに。
ふと、隣家――かつて湊一家が住んでいた家を見た。
そこは今、空き家になっていた。
事件の後、湊の両親もまた、居心地の悪さからか、あるいは息子との新しい生活のためか、静かに引っ越していったのだ。
引っ越しの挨拶に来た時の、湊の母親の顔を思い出す。
彼女は怒ってはいなかった。
ただ、深く、静かな悲しみを湛えた瞳で、由美を見つめて言ったのだ。
『お元気で。……もう二度と、お会いすることはないと思います』
それは、罵倒されるよりも辛い、完全なる「絶縁」の言葉だった。
由美はその時、何も言えずにただドアを閉めた。
今、空っぽになった隣家は、一ノ瀬家の「良心」が抜け落ちた空洞のように見えた。
■
夜。
一ノ瀬家の食卓には、スーパーで買ってきた惣菜が並んでいた。
由美の手料理ではない。彼女にはもう、包丁を握る気力すらなかった。
浩一は無言で安酒を煽り、由美は箸もつけずに一点を見つめている。
二階からは、相変わらず沙織の泣き声が聞こえてくる。
「……引っ越すか」
浩一がぽつりと漏らした。
「……え?」
「ここにいても、地獄だ。誰も俺たちを相手にしない。会社も辞めて、誰も知らない土地へ行こう」
それは、敗北宣言だった。
築き上げてきたキャリアも、マイホームも、社会的地位も、すべて捨てて逃げ出すということだ。
「……そうね」
由美は力なく頷いた。
「でも……沙織は?」
「連れて行くしかないだろう。あいつを一人にはできない」
「あの子、家から出られるかしら……」
「無理やり引きずり出してでも連れて行くんだ。……これ以上、ここにいたら、家族全員が死ぬぞ」
浩一の声は震えていた。
逃げ場はない。
新しい土地に行ったところで、ネット検索すればすぐに過去はバレる。
「あの事件の一ノ瀬家」というレッテルは、死ぬまで背中に張り付いているのだ。
それでも、ここよりはマシかもしれないという、縋るような希望。
ピンポーン。
インターホンが鳴った。
夫婦はビクリと体を強張らせた。
こんな時間に誰だ?
またマスコミか? それとも嫌がらせか?
浩一がおずおずとインターホンのモニターを覗く。
そこには、誰も映っていなかった。
ただ、郵便受けに何かが投げ込まれる音がした。
浩一が恐る恐る玄関を開け、郵便受けを確認する。
入っていたのは、一枚の封筒だった。
差出人の名前はない。
中を開けると、一枚の写真が入っていた。
それは、高校の入学式の時の写真だった。
桜の下で、制服姿の遥輝と沙織が並んで笑っている。
そして、その横には、浩一と由美、そして遥輝の両親も並んで、満面の笑みを浮かべていた。
「家族ぐるみ」の幸せな一枚。
だが、その写真の、浩一と由美、そして沙織の顔の部分だけが、黒いマジックで塗りつぶされていた。
『お前たちに、笑う資格はない』
写真の裏には、そう書かれていた。
浩一はその場に膝から崩れ落ちた。
これは、誰からのメッセージだ?
遥輝か?
いや、あの子はこんなことをしない。
だとしたら、これは「世間」という名の怪物からの宣告か。
あるいは、自分たちの良心が見せる幻影か。
「あ……あぁ……」
浩一の喉から、獣のような嗚咽が漏れた。
写真を握りしめる手が白くなる。
戻れない。
あの桜の日には、もう二度と戻れない。
自分たちが選んだ道は、行き止まりの断崖絶壁だったのだ。
リビングに戻ると、由美が床に突っ伏して泣いていた。
二階からは沙織の叫び声が聞こえる。
「パパ! ママ! 殺して! もう私を殺してよぉ!!」
家の中は阿鼻叫喚の地獄だった。
だが、誰も助けには来ない。
かつて親友だった隣人は去り、地域の人々は背を向けた。
彼らは、自分たちで築き上げた「孤独」という檻の中で、互いを憎しみ、互いを傷つけ合いながら、ゆっくりと腐っていくしかないのだ。
窓の外では、雨が激しさを増していた。
その雨音は、崩壊していく家族へのレクイエムのように、冷たく、絶え間なく降り注いでいた。
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