エピローグ 泥濘に沈んだ王冠と、終わらない冬の夜

東京都内某所、簡易宿泊所が密集する通称「ドヤ街」。

季節は冬。コンクリートの底冷えが骨の髄まで沁みる午前五時。

薄汚れた煎餅布団の上で、男が身じろぎをした。

西園寺蓮(さいおんじ れん)。かつて、巨大企業サイオン・ホールディングスの御曹司として、この世の春を謳歌していた男だ。

しかし、現在の彼に、かつての輝きは欠片も残っていない。

三十路を前にして、彼の髪は薄くなり、肌は栄養失調で荒れ、歯は数本抜け落ちている。かつて「宝石のようだ」と称賛された瞳は、今は腐った魚のように濁り、絶えず何かに怯えるように小刻みに震えていた。


「……寒ぃ……」


蓮は掠れた声で呟き、カビ臭い毛布を引き寄せた。

三畳一間のこの部屋が、今の彼の城だ。日払いの土木作業で稼いだ金の大半は、安酒とギャンブルに消え、残った小銭でこの劣悪な宿に泊まるのが精一杯の生活だった。

一晩二千円。

かつての彼なら、チップとして渡していたような金額だ。

その事実を思い出すたびに、胸の奥が焼けつくような感覚に襲われる。


「起きろ、クズども! 仕事の時間だ!」


廊下で手配師の怒鳴り声が響く。

蓮はビクリと肩を震わせ、慌てて体を起こした。

遅れれば、今日の仕事にありつけない。仕事がなければ、今夜は寒空の下で凍えることになる。それは死を意味した。


洗面所の鏡に映った自分の顔を見る。

そこにいるのは、かつて女子生徒たちにキャーキャー言われていた「西園寺蓮」ではない。

ただの、薄汚い中年男だ。


「……なんでだよ」


蓮は鏡に向かって吐き捨てた。


「なんで俺が、こんな目に……」


あの日。

湊遥輝(みなと はるき)によって、俺の全てが暴かれたあの日から、俺の時計は止まっている。

逮捕、勾留、そして執行猶予付きの判決。

だが、本当の地獄はそこからだった。

父・剛造からは勘当され、一銭の援助も受けられなかった。それどころか、会社の損失を埋めるために俺名義の資産も全て差し押さえられた。


「お前はもう死んだものと思え」


面会室で父に言われた言葉が、今でも呪いのように頭蓋骨の中で反響している。


高卒認定すらまともに取れず、前科持ち。

ネットで「西園寺蓮」と検索すれば、俺の悪行と無様な逮捕劇が、高画質の動画と共に永遠に表示される。デジタルタトゥーという焼き印は、どこへ逃げても俺を「犯罪者」として特定し続けた。

まともな就職などできるはずがない。

コンビニのバイトすら、「お前、あの西園寺か?」と客に指差され、店長に頭を下げられて解雇された。

結局、俺が生きられる場所は、身分証も経歴も問わない、社会の最底辺にしかなかった。


「おい、おっさん! さっさと乗れ!」


ワゴン車のドアが開き、若い現場監督が怒鳴る。


「は、はい……すみません……」


蓮は小さくなりながら車に乗り込んだ。

自分より一回りも年下の若造に顎で使われる屈辱。

かつての俺なら、こんな奴、親父の力で一瞬で社会的に抹殺してやったのに。

「親父の力」

その言葉が頭をよぎるたび、蓮は自嘲の笑みを浮かべるしかなかった。

その親父もまた、不正会計と贈収賄で逮捕され、今は刑務所の中だ。サイオン・ホールディングスは解体され、西園寺家というブランドは地に落ちた。

俺にはもう、何もない。

本当に、何一つ残っていないのだ。



現場は、湾岸エリアのタワーマンション建設予定地だった。

冷たい海風が吹き荒れる中、蓮は重い資材を担いで階段を往復する。

腰が悲鳴を上げ、膝が笑う。

息が上がり、心臓が破裂しそうだ。


「おい、遅いぞ! 足手まといなんだよ!」


背後から罵声が飛び、背中を蹴られた。

蓮は無様に転がり、泥水の中に顔を突っ込んだ。

冷たい。痛い。

口の中にジャリッとした土の味が広がる。


「……っ……!」


涙が滲んだ。

悔しさではない。ただただ、惨めだった。

見上げれば、建設中のタワーマンションが空を突き刺すように聳え立っている。

かつては、俺があの最上階に住む側の人間だった。

下界を見下ろし、ワインを片手に、「人間なんて蟻みたいなもんだ」と笑っていた。

それが今、俺自身がその「蟻」になり、泥にまみれて這いつくばっている。


「す、すみません……すぐやります……」


蓮は泥だらけの手で地面をつき、立ち上がった。

プライド? そんなものは数年前に売り払った。

今はただ、今日一日を生き延びるための千円札が欲しいだけだ。


昼休憩。

蓮は工事現場の隅に座り込み、冷え切ったコンビニ弁当を食べていた。

周囲の作業員たちは、スマホを見ながら談笑している。

彼らの話題は、最近人気の若手起業家のニュースだった。


「すげぇな、この社長。まだ20代だろ?」

「新しいセキュリティシステムを開発して、海外の大手とも提携したんだってよ」

「顔もいいし、勝ち組だよなぁ」


蓮は何気なく、彼らが見ているスマホの画面を覗き込んだ。

そして、呼吸が止まった。


画面の中に映っていたのは、スーツをビシッと着こなし、自信に満ちた笑顔でインタビューに答えている男。

精悍な顔つき。知的な眼差し。

それは、かつて俺が「陰キャ」「地味なガリ勉」と見下し、冤罪で人生を終わらせてやったはずの男。

湊遥輝だった。


『――過去の困難が、僕を強くしました。信じてくれる仲間と共に、嘘のない誠実な世界を作りたい。それが弊社の理念です』


画面の中の遥輝が、透き通るような声で語っている。

テロップには『株式会社〇〇 代表取締役 湊遥輝』の文字。

年商数十億。新進気鋭のIT社長。


「……あ……あぁ……」


蓮の手から、割り箸が落ちた。

嘘だ。

あいつは退学になったはずだ。人生が終わったはずだ。

俺が踏み潰したんだ。俺が勝ったんだ。

それなのに、なんであいつが光の中にいて、俺がこんな泥の中にいるんだ。


「おい、おっさん。どうした? 顔色悪いぞ」


作業員の一人が声をかけてくる。


「……こ、こいつ……」


蓮は震える指で画面を指差した。


「こいつ……俺の……知り合いなんだ……」

「はあ? お前がか? 嘘つくなよ。こんなセレブと知り合いなわけねーだろ」

「本当だ! 俺は昔、こいつより上の立場だったんだ! こいつは俺の足元にも及ばない奴だったんだ!」


蓮は叫んだ。

認めたくなかった。

自分と彼との間に、天と地ほどの差が開いてしまったことを。

だが、作業員たちは鼻で笑った。


「はいはい、分かったよ。妄想乙」

「酒の飲みすぎで頭おかしくなったんじゃねーの?」

「哀れなもんだな」


誰も信じない。

今の俺の言葉になど、何の価値もないからだ。

蓮は膝を抱え、小さくなった。

画面の中の遥輝は、眩しすぎて直視できなかった。

彼は復讐を終えた後、その高い能力を生かして這い上がり、自らの手で成功を掴み取ったのだ。

対して俺は、親の七光りを失った瞬間、何もできない無能な人間に戻っただけ。

「実力」の差。「人間力」の差。

それが、この残酷なまでのコントラストを生んだのだ。



仕事が終わり、日当を受け取った蓮は、フラフラと繁華街へ向かった。

手には数枚の千円札。

これで酒を飲んで、全てを忘れたい。

思考を停止させたい。

そうでなければ、発狂してしまいそうだった。


煌びやかなネオンが輝く街。

着飾ったカップルや、楽しそうな学生たちが行き交う。

蓮は薄汚れた作業着のまま、その人波を縫うように歩く。

すれ違う人々は、蓮を見ると露骨に顔をしかめ、避けていく。

「臭い」

「汚い」

そんな囁き声が聞こえるが、もう慣れっこだ。


ふと、交差点の向こうにある大型ビジョンに目が止まった。

そこには、今日のニュースが流れていた。


『湊遥輝社長、ご結婚おめでとうございます』


キャスターの明るい声。

画面には、タキシード姿の遥輝と、純白のドレスを着た美しい女性の写真が映し出された。

女性は、誰もが知る有名なモデルだった。

二人は幸せそうに微笑み合い、指には結婚指輪が輝いている。


「……結婚……?」


蓮はその場に立ち尽くした。

遥輝が、結婚。

幸せな家庭。愛する人。社会的地位。富。名声。

人間が欲する全てのものを、あいつは手に入れた。


一方、俺はどうだ。

かつての恋人、一ノ瀬沙織はどうなった?

噂では、精神を病んで実家に引きこもり、両親と共に夜逃げ同然で街を去ったと聞いた。

彼女を壊したのは俺だ。

そして、俺自身も壊れた。

俺には誰もいない。

家族も、友人も、恋人も。

今日話した相手といえば、怒鳴ってきた監督と、馬鹿にしてきた作業員だけだ。


「ざまぁみろ、か……」


遥輝が、ビジョンの向こうから俺を見下ろして笑っている気がした。

いや、違う。

画面の中の彼は、俺のことなど見ていない。

彼の視線の先にあるのは、愛する妻と、輝かしい未来だけだ。

俺の存在など、彼の記憶の片隅にも残っていない。

道端の石ころ。いや、靴底についたガム程度の存在。


それが一番、堪えた。

憎まれてすらいない。

意識すらされていない。

完全なる「無関心」。

それが、勝者である彼から、敗者である俺への、最大の復讐だった。


「……う、うぅ……」


蓮はその場に崩れ落ちそうになった。

通行人が怪訝な顔で彼を見ている。


「なんだあの浮浪者」

「酔っ払いか?」

「関わらない方がいいよ」


逃げたい。

この現実から、この惨めな自分から。

蓮はよろめきながら、路地裏へと入っていった。

ゴミ箱の腐臭が漂う、暗く湿った場所。

ここがお似合いだ。今の俺には。


自販機で買った安酒の蓋を開け、一気に流し込む。

喉が焼ける。胃が熱くなる。

だが、心の中の寒さは消えない。


「……沙織」


ふと、かつての女の名前を呼んでみた。


「……父さん、母さん」


家族の名前を呼んでみた。


「……健太、美優」


取り巻きたちの名前を呼んでみた。


誰も答えない。

返ってくるのは、ビルの隙間を吹き抜ける風の音だけ。

寂しい。寒い。怖い。

かつてあれほど多くの人間に囲まれていた俺が、今は世界で一番孤独な生き物になってしまった。


「……俺は、西園寺蓮だぞ……」


蓮は空になった缶を握り潰した。


「選ばれた人間なんだ……特別なんだ……こんなところで終わっていいはずがないんだ……」


虚勢を張ってみるが、その声は震えていた。

特別? 何が?

今の俺に何ができる?

何もできない。何も持っていない。

ただ、過去の栄光という幻影にしがみつき、腐っていくだけの肉塊。


路地裏の奥から、ネズミが一匹、チョロチョロと出てきた。

蓮と目が合う。

ネズミは逃げようともせず、蓮をじっと見つめている。

まるで「お前もこっち側の住人だろ」と言わんばかりに。


「……ははっ」


蓮は乾いた笑い声を上げた。

そうだ。俺はドブネズミだ。

かつて他人を見下し、踏みつけにしてきた報いを受けて、地の底を這いずり回る害獣だ。


「湊……お前の勝ちだ……」


蓮は壁に背中を預け、ズルズルと座り込んだ。

認めるしかなかった。

完敗だ。

逆転の目など、万に一つもない。

俺の人生という物語は、あの学園での一件でクライマックスを迎え、あとはひたすら長く、苦しいバッドエンドのエピローグが続くだけなのだ。

死ぬまで。

そう、この薄汚い路地裏か、ドヤ街の布団の上で、誰にも看取られずに野垂れ死ぬその瞬間まで。


雪が降り始めた。

白い雪が、汚れた路面を、ゴミ袋を、そして蓮の体を覆っていく。


「……冷てぇな」


蓮は膝を抱え、目を閉じた。

瞼の裏に浮かぶのは、かつての煌びやかなパーティーの光景か、それとも遥輝の幸せそうな笑顔か。


意識が遠のいていく。

このまま眠ってしまえば、楽になれるかもしれない。

だが、神様はそれすら許してくれないだろう。

明日もまた、手配師の怒鳴り声で目を覚まし、泥にまみれて働き、惨めな思いをしながら生き延びなければならない。

それが、西園寺蓮に課せられた、終わりのない懲役刑なのだから。


遠くで聞こえる街の喧騒が、幸せな人々の笑い声が、蓮の鼓膜を残酷に打ち続けていた。

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