サイドストーリー 摩天楼の崩落と、泥濘に沈んだ王の晩年

東京都港区、六本木。

煌びやかな夜景を一望できる超高層ビルの最上階、会員制クラブ「ロイヤル・クラウン」のVIPルーム。

そこは、選ばれた人間だけが足を踏み入れることを許される、現代の天上界だった。

紫煙と高級なコニャックの香りが漂う中、一人の男がふんぞり返るようにソファに身を沈めていた。

西園寺剛造(さいおんじ ごうぞう)。

巨大コングロマリット企業「サイオン・ホールディングス」の代表取締役社長であり、政財界に太いパイプを持つ「フィクサー」の一人としても知られる男だ。


「西園寺社長、この度は創業記念パーティーの大成功、おめでとうございます」

「ご子息の蓮君も、いよいよ系列会社の役員に就任されるとか。頼もしい限りですな」


取り巻きの社長たちが、揉み手をして剛造に酒を注ぐ。

剛造は満足げに頷き、クリスタルガラスのグラスを揺らした。

琥珀色の液体が、シャンデリアの光を浴びて妖しく輝く。


「ああ。蓮は少々やんちゃが過ぎるが、私の血を引いているだけあって、人を動かす才能はある。彼には帝王学を叩き込んできたからな」

「まさに、虎の子ですな」

「次世代のサイオンも安泰だ。乾杯!」


グラスが触れ合う音が、剛造にとっては心地よい音楽のように聞こえた。

すべてが順調だった。

会社の業績は右肩上がり。裏で進めている脱税スキームや、政治家への賄賂工作も完璧に隠蔽されている。

息子の蓮は、晴翔学園という箱庭の中で「王」として君臨し、支配者としての資質を磨いている。

一年前、蓮が「目障りな虫」だと言っていた湊遥輝(みなと はるき)という生徒を排除した件も、剛造にとっては取るに足らない雑事だった。


「父さん、あいつが邪魔なんだ。消してよ」


蓮のその一言で、剛造は学園の理事長に電話をかけただけだ。


「ああ、大河内か。例の件、穏便にな。金なら弾む」


たったそれだけで、一人の少年の人生を握り潰した。

剛造にとって、持たざる者は人間ではない。自身の帝国を強固にするための踏み台か、あるいは排除すべき障害物でしかなかった。


「……ん?」


剛造の懐で、スマートフォンが震えた。

秘書からの緊急連絡だ。

(野暮なことだ。せっかくの美酒が不味くなる)

剛造は不機嫌に眉をひそめながら、電話に出た。


「なんだ、騒々しい。今、大事な商談中だぞ」

『しゃ、社長! 大変です! 今すぐネットニュースを見てください!』

「は? 何を言っている」

『蓮様の……蓮様の動画が拡散されています! それも、ただの動画ではありません! 社の機密情報に関わる内容が……!』


秘書の悲鳴のような声。

剛造は舌打ちをし、通話を切ってニュースアプリを開いた。

トップページに踊る見出しを見た瞬間、剛造の全身の血が凍りついた。


『サイオン・ホールディングス御曹司、未成年飲酒・薬物疑惑』

『動画内で「粉飾決算」を自慢か』

『「親父の会社は裏帳簿で儲けてる」衝撃の告白動画』


「……な、なんだこれは」


剛造の手からグラスが滑り落ちた。

カーペットに高級な酒が染み込んでいくが、そんなことはどうでもよかった。

震える指で動画を再生する。

画面の中には、酩酊した息子の蓮が、得意げにペラペラと喋っている姿があった。


『親父の会社? チョロいっしょ。裏帳簿のデータとか見たけどさ、結構危ない橋渡ってんだよねー』

『政治家の〇〇先生に賄賂渡した時のリストとか、俺のスマホに入ってるしw』

『俺が失敗しても、親父が金で揉み消してくれるから無敵! 法律なんて金持ちのためにあるんだよ!』


「馬鹿者……!!」


剛造は叫び、スマホをテーブルに叩きつけた。

周囲の取り巻きたちが、驚いて静まり返る。


「さ、西園寺社長? いかがなさいました?」

「黙れ!!」


剛造は立ち上がったが、足元がふらついた。

終わった。

蓮の個人的なスキャンダルなら、まだ揉み消しようがあった。だが、これは違う。

「粉飾決算」「贈収賄」。

企業の根幹を揺るがす、特大の爆弾だ。

しかも、あろうことか、その証拠データが蓮のスマホに入っていた?

それを、誰かがハッキングして流したというのか?


「誰だ……誰がこんなことを……」


剛造の脳裏に、一人の少年の顔が浮かんだ。

名前も覚えていない、一年前、ゴミのように排除したあの生徒。

動画の最後に表示されたメッセージ。


『想像力が足りないお前に教えてやる』

『これは復讐だ』


「まさか……あの時のガキか!? たかが高校生一匹に、私の帝国が……!?」


その時、VIPルームのドアが乱暴に開かれた。

入ってきたのは、黒いスーツに身を包んだ数人の男たち。

その胸元には、東京地検特捜部のバッジが光っていた。


「西園寺剛造さんですね。金融商品取引法違反、および贈賄の容疑で、会社とご自宅の捜索令状が出ています」

「な、なんだと!? 君たち、私が誰だか分かっているのか! 法務大臣と食事をする仲だぞ!」

「その大臣からも、事情を聞くことになりそうですな。ご同行願います」


男たちは無慈悲に剛造の両脇を固めた。


「離せ! 私は西園寺剛造だぞ! 日本経済の柱だぞ!」


剛造は喚き散らしたが、かつて彼にへつらっていた取り巻きたちは、誰一人として助け舟を出さず、むしろ関わり合いになるのを恐れて顔を背けていた。


「見ろ……これが今のあなたの価値だ」


捜査官の冷たい言葉が、剛造の心臓を抉った。

連行されていく彼の視界の端に、窓の外の煌びやかな夜景が映った。

それは、彼の手から永遠にこぼれ落ちた「栄光」の残像だった。



数日後。

西園寺家の豪邸は、嵐の中にあった。

ただし、それは自然の嵐ではない。人の手による「差し押さえ」という名の嵐だ。

裁判所の執行官たちが、土足で屋敷に上がり込み、家具や調度品に次々と赤札(差し押さえのシール)を貼っていく。

高価な絵画、アンティークの時計、ペルシャ絨毯。

剛造が半生をかけて集めたコレクションが、ただの「換金用資産」として処理されていく。


「やめて! それは私のよ! 私のエルメスに触らないで!」


リビングで金切り声を上げているのは、剛造の妻、絵里子(えりこ)だった。

彼女は執行官に掴みかかろうとして、制止されている。

髪は振り乱れ、化粧は崩れ、かつての「セレブ妻」の面影はない。


「奥様、妨害行為はおやめください。これらは全て、ご主人の負債の返済に充てられます」

「ふざけないで! 私は関係ないわ! これは私が買ったものよ!」

「購入資金の出処はご主人の口座ですよね? 共有財産とみなされます」


絵里子はその場にへたり込み、泣き叫んだ。


「どうして……どうして私がこんな目に……! 全部あの人のせいよ! あの能無しのせいよ!」


ソファに座り込み、頭を抱えていた剛造が、その言葉に反応して顔を上げた。

彼は保釈金を積んで一時的に身柄を解放されていたが、それは自由を意味しなかった。会社は倒産し、全財産を失い、莫大な損害賠償請求を背負わされただけだ。


「……私のせいだと?」


剛造の声は低く、怒りに震えていた。


「お前が……お前が蓮を甘やかしたからだろう! 『蓮ちゃんは特別』『何をしてもいいのよ』と、幼い頃から買い与え、しつけを放棄したのは誰だ!」

「なんですって!? あなたこそ、家庭を顧みずに仕事ばかり! 蓮が問題を起こすたびに金で解決して、『教育』をした気になっていたのはあなたでしょう!?」

「黙れ! 私は家族のために働いていたんだ! お前たちが贅沢できたのは誰のおかげだと思っている!」

「贅沢? 笑わせないで! あなたの見栄のためでしょう! 世間体を気にして、蓮に一流の服を着せ、一流の学校に入れ……その中身が空っぽになるまで放置したのは、私たち両方よ!」


絵里子の痛烈な一言が、図星を突いた。

剛造は言葉を失った。

そうだ。

彼らは蓮を「愛して」はいなかった。

剛造は蓮を「自分の後継者」というトロフィーとして、絵里子は「優秀な息子の母親」というステータスとして、それぞれ利用していたに過ぎない。

蓮が歪んだ人格に育ったのは、彼らの歪んだ愛情の写し鏡だったのだ。

そして、その歪んだ鏡が砕け散った時、破片は彼ら自身をも切り裂いた。


「もういいわ……」


絵里子が立ち上がった。その手には、離婚届が握られていた。


「別れましょう。こんな泥舟、乗っていられない」

「……行く当てがあるのか? お前の実家も、今回の件で縁を切ってきただろう」

「……」


絵里子は唇を噛み締めた。

彼女もまた、孤独だった。

セレブ仲間だと思っていた友人たちは、事件が発覚した瞬間に掌を返し、連絡を絶った。

「あなたの育て方が悪い」「犯罪者の母親」と陰口を叩かれ、居場所を失っていた。


「それでも、あなたといるよりはマシよ! あなたの顔を見ていると、自分の愚かさを突きつけられているようで、吐き気がするの!」


絵里子はバッグ一つを持って、屋敷を出て行った。

剛造はそれを止める気力もなかった。

広いリビングに、彼一人だけが取り残された。

赤札だらけの家具に囲まれて。

まるで、自分の人生そのものに「価値なし」のレッテルを貼られたようだった。



半年後。

東京都足立区。

築40年の木造アパートの一室に、剛造の姿があった。

六畳一間、風呂なし、トイレ共同。

壁は薄く、隣の部屋のテレビの音や、夫婦喧嘩の声が筒抜けだ。

部屋の中には、コンビニのゴミと、飲みかけの安い焼酎のボトルが転がっている。


剛造は、煎餅布団の上に寝転がり、天井のシミを見つめていた。

あの日以来、彼の人生は急転直下で底まで落ちた。

自己破産の手続きは完了したが、社会的信用はゼロ。

年齢的にも再就職は不可能で、日雇いの交通誘導員や清掃のアルバイトで食いつなぐ日々だ。

かつて数十億の金を動かしていた指先は、今やトイレブラシを握り、他人の汚物を擦り落とすために使われている。


「……痛っ」


腰に痛みが走る。

昨日の現場で、若い監督に突き飛ばされた古傷だ。


「おいジジイ! 動きがトロいんだよ! 給料泥棒!」


親子ほど年の離れた若造に罵倒され、頭を下げる。


「申し訳ありません……」


その屈辱。

かつての剛造なら、その若造の会社ごと買い取って潰していただろう。

だが今の彼には、反論する権利すらない。

彼は「元・犯罪者」であり、「社会のゴミ」なのだから。


ピンポーン。


玄関のチャイムが鳴った。

剛造はビクリと体を強張らせた。

借金取りか? いや、破産したからそれは無いはずだ。

NHKの集金か? 宗教の勧誘か?

どちらにせよ、出る気にはなれない。

息を潜めていると、ドアの向こうから声がした。


「……父さん。俺だ、蓮だ」


その声を聞いた瞬間、剛造の中で何かが弾けた。

怒りか、悲しみか、それとも恐怖か。

彼はのろのろと起き上がり、鍵を開けた。


ドアの向こうに立っていたのは、見る影もなく落ちぶれた息子の姿だった。

伸び放題の髪、無精髭、薄汚れた服。

かつてのブランド品で着飾った「王子様」は、今や薄汚い野良犬に成り下がっていた。


「……何の用だ」


剛造の声は枯れていた。


「……金、ないかな。少しでいいんだ。飯も食えてなくて……」


蓮は目を合わせようとせず、ボソボソと呟いた。


「俺も、日雇いとか行ってるんだけどさ……すぐにバレてクビになるんだよ。『お前、あの動画の西園寺か?』って……」


剛造は乾いた笑い声を上げた。


「ハハ……ハハハ……」

「と、父さん?」

「金だと? 私に金があるように見えるか?」


剛造は狭い部屋を指差した。


「見ろ、このザマを。これが、お前が自慢していた『親父の力』の成れの果てだ」


蓮は部屋の中を見渡し、絶句した。


「そ、そんな……父さんなら、隠し財産とかあるんじゃないのかよ……!」

「あるわけがない! 全て持っていかれた! お前のあの動画のせいでな!」


剛造が怒鳴ると、蓮はひっと悲鳴を上げて後ずさった。


「だ、だって……俺だって悪気は……」

「悪気? まだそんなことを言っているのか! お前の想像力の無さが、私を、会社を、そしてお前自身を殺したんだ!」


剛造は蓮の胸ぐらを掴もうとして、よろけて転倒した。

足腰が弱っている。情けない。

床に這いつくばったまま、剛造は息子を見上げた。

そこにあるのは、かつての威厳ある父親の姿ではない。ただの惨めな老人だ。


「……帰れ」


剛造は絞り出した。


「二度と来るな。お前の顔を見ると、自分の中の『失敗』を見ているようで死にたくなる」

「父さん……」

「行け!!」


蓮は逃げるように走り去っていった。

遠ざかる足音が、雨音に消されていく。

剛造は床に突っ伏したまま、動けなかった。


これが、因果応報というやつか。

一人の少年の未来を奪い、その親の気持ちなど考えもしなかった報い。

湊遥輝の両親は、息子が冤罪で退学になった時、どれほど苦しんだだろうか。どれほど無念だっただろうか。

その苦しみを、今、自分は何百倍にもして味わっている。


「……湊、遥輝……」


剛造は初めて、その少年の名前を口にした。

たった一人の高校生。

金も権力もない、ただの子供。

だが、彼は知恵と覚悟だけで、巨大な帝国を崩壊させた。

剛造は、自分の負けを認めざるを得なかった。

彼は、敵を見誤ったのだ。

「持たざる者」の復讐心を、侮っていたのだ。


窓の外で、雷が鳴った。

アパートの薄いガラスがビリビリと震える。

剛造は、部屋の隅に置いてあった一枚の写真立てに手を伸ばした。

割れたガラスの向こうで、幼い頃の蓮と、若き日の自分、そして絵里子が笑っている。

それは、まだ彼らが「家族」ごっこを演じることができていた、偽りの日々の記録だ。


「……どこで間違えたんだろうな」


剛造は写真を伏せた。

答えは分かっている。最初からだ。

他者を見下し、利用し、踏みつけにすることを「帝王学」だと勘違いした瞬間から、この破滅へのカウントダウンは始まっていたのだ。


腹が鳴った。

空腹だが、食べるものはない。

明日もまた、朝早くから工事現場で旗を振らなければならない。

腰の痛みと、若造からの罵倒に耐えながら。

死ぬまで。

それが、元・支配者に与えられた、終わりのない懲役刑だった。


剛造は煎餅布団を頭から被り、暗闇の中に逃げ込んだ。

夢の中でだけは、あの栄光の日々に戻れることを願いながら。

だが、彼を待っているのは、きっとあの動画の中で笑う息子の顔と、それを見て嘲笑う世間の声という、永遠の悪夢だけだろう。

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