サイドストーリー 腐敗した象牙の塔、その崩落と瓦礫の下で

鉛色の空から、絶え間なく雨が降り注いでいた。

私立晴翔学園の理事長室。重厚なマホガニーのデスク、革張りのソファ、壁一面に飾られた歴代のトロフィーや表彰状。それらすべてが、今や墓標のように冷たく沈黙している。

窓ガラスを叩く雨音だけが、部屋の静寂を埋めていた。

理事長である大河内巌(おおこうち いわお)は、ブランデーグラスを握りしめ、窓の外を見下ろしていた。

かつては我が世の春を謳歌したこの場所から見えるのは、色とりどりの傘を差したマスコミの群れと、怒号を上げる保護者たちの姿だ。

正門の前には「説明責任を果たせ」「隠蔽体質を許すな」と書かれたプラカードが掲げられている。


「……ふん、愚民どもが」


大河内は鼻で笑い、グラスの中身を一気に煽った。

喉を焼くアルコールの刺激だけが、彼に「自分はまだ生きている」という実感を与えてくれる。

彼はまだ、自分が終わったとは思っていなかった。

西園寺グループという巨大な後ろ盾がある限り、この程度の不祥事は金と権力で揉み消せる。そう信じていた。

一年前、湊遥輝(みなと はるき)という一人の生徒を切り捨てた時と同じように。


「失礼します」


ノックの音と共に、秘書の男が顔面蒼白で入ってきた。


「理事長、西園寺会長との連絡がつきました」

「おお! やっとか! 遅いぞ剛造の奴め。さっそく繋げ」


大河内は受話器に飛びついた。

これで助かる。資金援助と、マスコミへの圧力を要請すれば、この騒ぎもすぐに沈静化するはずだ。


「もしもし、西園寺さん! いやぁ、参りましたよ。ご子息の件で少々騒がれておりましてな。ここは一つ、御社のお力添えを……」

『……大河内さん』


電話の向こうから聞こえてきたのは、氷点下のように冷徹な声だった。

かつては「先生、先生」と媚びへつらってきた西園寺剛造の声とは、まるで別人のようだ。


『単刀直入に申し上げます。当グループは、晴翔学園への一切の支援を打ち切ります』

「……は?」


大河内の思考が停止した。


「い、今なんと? 支援を打ち切る? 冗談でしょう? 蓮君の件は確かに残念でしたが、あれはあくまで個人の問題で……」

『個人の問題? あなたは教育者として、私の息子を正しく導く義務があったはずだ。それを怠り、あまつさえ息子の犯罪行為を黙認し、無実の生徒を退学に追いやった。その事実が、我が社の株価にどれほどの損害を与えたか分かっているのですか?』

『それに、貴校の隠蔽体質が暴かれた今、これ以上関わりを持つことは、我が社のコンプライアンス上、不可能です』

『顧問弁護士を通じて、過去の寄付金の返還訴訟も検討しています。……二度と連絡してこないでいただきたい』


ガチャリ、ツーツー……。


無慈悲な切断音。

大河内は受話器を耳に当てたまま、石像のように固まった。

寄付金の返還? 支援打ち切り?

それは、学園の死を意味していた。

この学校の運営資金の半分以上は、西園寺家からの寄付と、彼らのコネで入学してくる富裕層の子息たちの授業料で賄われていたのだ。


「り、理事長……」


秘書がおずおずと声をかける。


「うるさい!! 出て行け!!」


大河内は受話器を壁に叩きつけた。

プラスチックの破片が飛び散る。


「どいつもこいつも……! 私がどれだけ尽くしてやったと思っているんだ! 蓮の悪さを揉み消してやったのは誰だ! あの湊とかいう貧乏くじのガキを排除してやったのは誰だ!!」


彼は叫び、デスクの上の書類をぶちまけた。

そこには、来年度の入学志願者数の速報値が記されていた。

『志願者数:ゼロ』

その数字が、大河内の網膜に焼き付いた。

彼は椅子に崩れ落ち、震える手で顔を覆った。

栄華を極めた象牙の塔が、音を立てて崩れ落ちていく幻聴が聞こえた。



一方、職員室では、地獄のような光景が繰り広げられていた。

教頭の小林(こばやし)は、受話器をガムテープで頭に固定したい衝動に駆られていた。

朝から晩まで、ひっきりなしに鳴り続ける電話。


「お宅の学校はどうなってるんだ!?」

「教育委員会に通報したからな!」

「娘を転校させます。授業料を返してください」


苦情、罵倒、解約の申し出。

小林はロボットのように「申し訳ございません」を繰り返すしかなかった。

喉は枯れ、胃には穴が開きそうだ。


「教頭先生、また週刊誌の記者が裏口に来てます!」

「事務長が過呼吸で倒れました!」

「3年の保護者会が紛糾してます! 誰か来てください!」


次々と舞い込むトラブル。

小林は頭を抱えた。

(なんで私がこんな目に……)

彼は一年前、担任の佐々木から湊遥輝の件を相談された時、「穏便に済ませろ」と指示した張本人だった。

『西園寺君の機嫌を損ねるな。証拠があるなら、さっさと退学させろ』

そう言った自分の声を、今でも覚えている。

あの時は、それが最善の策だと思ったのだ。一人の生徒の未来よりも、学校の平穏と経営を守るのが管理職の仕事だと信じていた。

だが、その「平穏」は、腐った土台の上に築かれた砂上の楼閣だった。


「小林教頭」


背後から、幽霊のようにやつれた校長が声をかけてきた。


「……はい」

「今、理事長室から戻りました」


校長の声は震えていた。


「……廃校です」


職員室の喧騒が、一瞬にして静まり返った。

電話の音だけが、空気を読まずに鳴り響いている。


「は……はいこう……?」

「西園寺グループからの支援打ち切りが決まりました。負債総額は数十億。これ以上、学校を維持することは不可能です。本日付けで、全教職員に解雇通知が出されます」


若い女性教師が悲鳴を上げて泣き崩れた。

ベテランの教師が机を叩いて怒鳴った。


「退職金はどうなるんですか!?」

「次の再就職先は!?」


校長は力なく首を振った。


「ありません。資産はすべて差し押さえられます。……私たちには、何も残らないでしょう」


小林は呆然と窓の外を見た。

雨に濡れた校庭。

そこで無邪気にボールを追いかけていた生徒たちの姿が、遠い過去のように感じられた。

彼らの未来を守るどころか、彼らから学びの場を奪い、経歴に「廃校になった不祥事校」という傷をつけてしまった。

その罪の重さに、小林は膝から崩れ落ちた。

これが、事なかれ主義の末路だ。

一人の少年の涙を見なかったことにした代償は、自分たちの人生そのものだった。



2年B組の教室に向かう廊下を、新任の英語教師・松本(まつもと)は重い足取りで歩いていた。

彼女はこの騒動とは直接関係がない。今年度から採用されたばかりの、夢と希望に燃える新人教師だった。

だが、配属されたのは「呪われた学園」であり、担当することになったのは、あの西園寺蓮と湊遥輝がいたクラスの副担任だった。


(もう、嫌だ……)


松本は心の中で泣いていた。

彼女は何もしていない。湊遥輝の顔さえ知らない。

それなのに、世間からは「晴翔学園の教師」というだけで白い目で見られる。

合コンに行けば「あ、あの学校の?」と引かれ、親からは「早く辞めなさい」と毎日電話がかかってくる。

そして何より辛いのは、生徒たちの荒廃ぶりだった。


ガララ……。

教室のドアを開ける。

チャイムは鳴っているのに、席に着いている生徒は半分もいない。

西園寺蓮、健太、美優といった主要メンバーが消え、残された生徒たちは無気力そのものだった。

スマホをいじる者、化粧をする者、机に突っ伏して寝る者。

そして、黒板の前の席で、亡霊のように一点を見つめている一ノ瀬沙織。


「えー、授業を始めます。教科書の……」


松本の声は、誰の耳にも届かない。


「ねー、先生。この学校、潰れるって本当?」


後ろの席の男子生徒が、ガムを噛みながら聞いてきた。


「そ、そんなことは……まだ正式には……」

「ネットニュースに出てたし。マジ終わってんな」

「てかさ、俺らの経歴どうなんだよ。就職できねーじゃん。先生責任取ってくれんの?」

「そうだそうだ! 金返せよ!」


生徒たちの鬱憤が、一番弱い立場の松本に向けられる。

彼らもまた、被害者であり加害者だ。

西園寺のいじめに加担し、湊を笑い者にしていた彼らは、今、その報いとして「将来への不安」という名の拷問を受けている。

そのストレスの吐け口として、無関係な新人教師をサンドバッグにしているのだ。


「先生、私のこと、軽蔑してますか?」


不意に、最前列の一ノ瀬沙織が話しかけてきた。

彼女の目は虚ろで、まるで深淵を覗き込んでいるようだ。


「い、一ノ瀬さん……?」

「私、湊くんを裏切ったんです。最低ですよね。先生もそう思ってるんでしょ?『こいつのせいで学校がめちゃくちゃになった』って」

「そ、そんなこと……」

「思ってるくせに。みんなそう思ってる。私が死ねばいいって思ってる」


沙織がいきなりカッターナイフを取り出し、自分の机をガリガリと削り始めた。

不快な音が教室に響く。


「きゃあ!」

「おい、一ノ瀬がまた発狂してるぞ!」

「先生なんとかしろよ!」


教室はパニックに陥った。

松本は震えながら、「や、やめて一ノ瀬さん!」と叫ぶことしかできない。

これが、彼女が夢見た教師生活なのか。

いじめを黙認し、権力に媚びた前任者たちのツケを、なぜ自分が払わなければならないのか。


その時、松本のスマホがポケットの中で震えた。

母親からのLINEだった。

『もういいでしょう? 帰ってきなさい。お父さんも心配してるわ』

その一文を見た瞬間、松本の中で何かが切れた。

プツン、と。


「……授業は、自習にします」


松本は小さな声で言った。


「は? 何言ってんの?」

「私は、もう無理です」


彼女は教壇に教科書を置き、生徒たちに向かって深々と頭を下げた。


「ごめんなさい。私には、あなたたちを救えません。……自分を守ることで精一杯です」


松本は教室を飛び出した。

背後で生徒たちのざわめきが聞こえるが、もう振り返らなかった。

辞表は鞄の中に入っている。

今日、それを叩きつけて辞める。

「無責任だ」と罵られてもいい。これ以上、この沈みゆく泥船に乗っていることはできない。

彼女は被害者だ。だが、逃げることでしか自分を守れない弱者でもあった。



数ヶ月後。

かつての名門、私立晴翔学園の跡地には、解体工事の音が響き渡っていた。

校舎は半分以上が瓦礫となり、重機が容赦なく思い出を粉砕していく。

その様子を、フェンス越しに見つめる一人の男がいた。

警備員の制服を着た、初老の男。

元・理事長の大河内だ。


彼は自己破産し、豪邸も財産もすべて失った。

家族には逃げられ、今は安アパートで独り暮らしをしている。

皮肉なことに、彼がようやく見つけた仕事は、かつて自分が支配していた学園の解体現場の交通誘導員だった。


「オーライ、オーライ! ストップ!」


誘導棒を振る大河内の手は、寒さと老いで震えていた。

通り過ぎるダンプカーの運転手が、窓から顔を出して怒鳴る。


「おい爺さん! もっとキビキビ動けよ! 危ねぇだろ!」

「も、申し訳ありません……」


かつては数千人の生徒と教職員を顎で使っていた男が、今は若造に頭を下げている。

プライドはずたずたに引き裂かれ、残ったのは惨めな現実だけだ。


「……あ、あぁ……」


大河内は、崩れゆく校舎を見上げた。

2年B組があった教室の窓枠が、重機のアームで引き剥がされるのが見えた。

あそこで、すべてが始まったのだ。

西園寺蓮の傲慢さと、湊遥輝の悲劇、そして教職員たちの事なかれ主義。

それらが複雑に絡み合い、化学反応を起こして、この巨大な城を内側から腐らせた。


ふと、フェンスの向こうに、人影が見えた気がした。

黒いパーカーを着た青年。

湊遥輝だ。

彼は瓦礫の山を冷ややかな目で見つめ、そして大河内の方を一瞥した。

その目に宿っていたのは、憎しみではなく、完全なる「無関心」だった。

『まだそこにいたのか。哀れだな』

そう言われた気がした。


「ま、待ってくれ……! 湊君!」


大河内は思わず叫び、手を伸ばした。

しかし、瞬きをした瞬間、青年の姿は消えていた。

幻覚だったのか。

それとも、亡霊が最期の別れを告げに来たのか。


「おい爺さん! サボってんじゃねぇ!」


監督の声が現実に引き戻す。


「は、はい! すみません!」


大河内は慌てて誘導棒を振り上げた。

冷たい雨が降り始めた。

彼の頬を伝うそれが、雨なのか涙なのか、自分でも分からなかった。


解体工事は続く。

「いじめ」と「隠蔽」と「冤罪」の温床となった学園は、跡形もなく消え去ろうとしている。

そこに残るのは、更地という名の「無」だけだ。

そして、その「無」の上に立ち尽くす元・権力者たちの背中には、一生消えない「因果応報」という焼き印が押されていた。


ガシャン、ドーン。

重機が壁を崩す音が、終わりの鐘のように街に響き渡った。

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