サイドストーリー 沈黙する教室と、傍観者たちの緩やかな窒息
六月の湿った風が、窓の隙間から教室に忍び込んでくる。
かつては笑い声と活気、そして残酷なまでの「青春」が満ちていた2年B組の教室は、今や墓場のような静寂に支配されていた。
俺、佐藤啓介(さとう けいすけ)は、机に突っ伏して、スマホの画面を親指で何度もスワイプしていた。
画面に映っているのは、地域の掲示板サイトだ。
『晴翔学園の生徒を見かけたら通報』
『犯罪者予備軍の巣窟』
『あそこの生徒、全員共犯だから』
書き込みは止まらない。一分間に数件のペースで、俺たちへの罵倒と嘲笑が更新されていく。
俺は小さく溜息をつき、顔を上げた。
教室を見渡す。
窓際の一等地に、空席が三つ並んでいる。
西園寺蓮。健太。美優。
かつてこのクラス、いや、学園全体を支配していた「王族」たちの席だ。
彼らがいた頃、この教室は輝いていた。……いや、輝いているように見えていた。
西園寺が笑えば、俺たちも笑った。健太が誰かをいじれば、俺たちもそれに乗っかって手を叩いた。美優が流行りのコスメの話をすれば、女子たちは媚びるように群がった。
それが「正解」だったからだ。
その空気に乗っていれば、俺のような目立たない生徒でも「イケてるグループの一員」という錯覚に浸ることができた。
だが、王は死んだ。
そして、王に追従していた俺たちは、焼け野原に取り残された。
「……なぁ、啓介」
前の席に座る、友人の洋平(ようへい)が振り返る。その顔色は悪く、目の下にはクマができている。
「なんだよ」
「進路指導室、行ったか?」
「行ってねーよ。行く意味ねーだろ」
「だよな……。俺、昨日行ったんだけどさ、進路担当の先生、半泣きだったぜ。指定校推薦の枠、全部消えたって」
洋平の声が震えている。
指定校推薦。それが俺たちの生命線だった。
晴翔学園は進学校だ。西園寺グループのコネもあり、有名大学への推薦枠が豊富にあるのが売りだった。俺も洋平も、実力で受験戦争を勝ち抜く自信はなく、最初からその枠を狙っていた。
そのために、素行を良くし、先生に媚び、そして何より――クラスの「空気」を乱さないように生きてきたのだ。
「マジで終わったな、俺たち」
「……ああ」
一年前。
湊遥輝(みなと はるき)が冤罪をかけられたあの日。
俺はその場にいた。
西園寺が「湊くんからこんなMINEが来た」とスマホを掲げた時、俺はどう思ったか。
『うわ、湊って変態だったんだ』
そう思った。疑いもしなかった。
いや、心のどこかで違和感はあったかもしれない。湊は地味だが真面目な奴だった。そんな大胆なことをするようには見えなかった。
けれど、西園寺がそう言うなら、それが「真実」なのだ。
健太が「最低だな」と罵り、美優が「キモい」と騒ぎ立てた時、俺も一緒になって言ったのだ。
「うわー、引くわー」と。
たった一言。その軽い一言が、俺の罪だ。
俺は直接、湊の鞄に体操服を入れたわけじゃない。湊を殴ったわけでもない。
ただ、西園寺たちの作った「流れ」に乗って、安全圏から石を投げただけだ。
みんなが投げているから、自分も投げた。そうしないと、次は自分が標的になるかもしれないという恐怖もあったから。
「……俺ら、何もしてねーのにな」
洋平がポツリと漏らした言葉に、俺は過剰に反応してしまった。
「は? お前、それ本気で言ってんのか?」
「だってそうだろ! 悪いのは西園寺だし、健太だし、美優じゃんか! 俺たちはただ見てただけだぞ? なんで俺たちが大学行けなくなったり、ネットで叩かれたりしなきゃなんねーんだよ!」
洋平の声が大きくなる。
周囲のクラスメイトたちが、ビクリと反応してこちらを見る。
その視線は、同意を求めているようであり、同時に「大声を出すな、目立つだろ」という苛立ちも含んでいた。
「見てただけ、か……」
俺は自嘲気味に笑った。
そう、俺たちは「見てただけ」だ。
湊が必死に無実を訴えている時、俺たちはニヤニヤしながらスマホを向けていた。
湊が教室から引きずり出される時、俺たちは「ざまぁみろ」という空気を共有し、一種のエンターテインメントとして消費した。
Twotterで湊の悪口が拡散された時、俺も「いいね」を押した。
たった一度のタップ。
それが、湊を追い詰める凶器の一部になったことなど、考えもしなかった。
「……おい、見ろよ」
洋平が顎でしゃくった先。
教室のドアが開き、一人の女子生徒が入ってきた。
一ノ瀬沙織(いちのせ さおり)だ。
かつてのクラスのアイドル。湊の幼馴染であり、彼を裏切って西園寺についた「悲劇のヒロイン」。
今の彼女に、かつての輝きはない。
髪はボサボサで、制服は薄汚れ、まるで幽霊のように足音を立てずに歩く。
教室の空気が、一瞬で凍りつく。
そして次の瞬間、粘着質な悪意へと変わる。
「……うわ、来たよ」
「空気悪くなるなぁ」
「よく学校来れるよね。メンタルお化けかよ」
ヒソヒソという声が、さざ波のように広がる。
誰かが、消しゴムのカスを沙織の方へ弾いた。
それは彼女の肩に当たり、床に落ちる。
沙織は反応しない。ただ俯いて、自分の席へと向かう。
彼女の机には、無数の落書きが刻まれている。
『裏切り者』『売女』『死ね』
それは、かつて湊の机に書かれていたものと同じ言葉だ。
そして、それを書いたのは――俺たちだ。
俺たちは、西園寺がいなくなった後、行き場のない不安とストレスをぶつけるサンドバッグを求めた。
自分たちは「被害者」だと思いたかった。
「俺たちは西園寺に騙されてたんだ! 一番悪いのは、西園寺の共犯者だった一ノ瀬だ!」
そう思い込むことで、自分たちの罪悪感を薄めようとした。
だから、俺たちは今、全力で沙織をいじめている。
かつて湊にしたことと同じことを、今度は「正義の鉄槌」という名目で繰り返しているのだ。
沙織が席に着く。
彼女は机の中を確認し、教科書を取り出そうとして――動きを止めた。
机の中から出てきたのは、ボロボロになった教科書と、腐った生ゴミのような臭いを放つコンビニ袋だった。
誰かが入れたのだ。
「くすっ」
教室のどこかで、忍び笑いが漏れる。
俺も、口元が歪むのを止められなかった。
ざまぁみろ。お前のせいだ。お前が湊を信じてやれば、こんなことにはならなかったんだ。
俺たちの未来を返せ。
沙織は泣き叫ぶこともなく、無表情のまま袋を掴み、ゴミ箱へ捨てに行った。
その背中はあまりにも小さく、痛々しかった。
だが、誰も同情しない。
同情したら、次は自分がターゲットになるからだ。
この教室は、西園寺がいなくなっても何も変わっていない。
ただ、支配者が不在のまま、弱者がさらに弱い者を食い物にする、地獄のような相互監視社会になっただけだ。
「……なぁ、湊って今、何してるんだろうな」
洋平が小声で言った。
俺はビクリとして、周囲を警戒した。その名前は、この教室ではタブーに等しい。
「知らねーよ。噂じゃ、街を出て行ったらしいけど」
「復讐、終わったからな」
「……言うな」
「俺ら、許されてんのかな」
許される?
俺はハッとした。
俺たちは、心のどこかで「自分たちは西園寺ほど悪くないから、湊も見逃してくれるだろう」と思っていた。
だって、直接手は下していない。ただのクラスメイトAとBだ。
モブキャラだ。
物語の端役になんて、主人公はいちいち構わないだろう。
だが、現実は違った。
湊は、俺たちに直接的な復讐はしなかった。
俺のスマホには、暴露動画も脅迫状も届いていない。
しかし、俺たちは確実に「殺された」。
学校の評判は地に落ち、就職も進学も絶望的。
「晴翔学園出身」というだけで、世間からは犯罪者予備軍扱いされる。
バイトの面接に行けば、学校名を書いた瞬間に面接官の顔が曇る。
「ああ……あの学校ね。君、いじめとかやってたの?」
そう聞かれるのが怖くて、俺はもう三つもバイトを落とされている。
湊は、俺たちを殴る必要すらなかったのだ。
西園寺という柱を一本折るだけで、俺たちが寄りかかっていた「安全な教室」という屋根は崩れ落ち、俺たちは瓦礫の下敷きになった。
彼はそれを知っていたのだ。
俺たちが自分の足で立っていない、ただ空気に流されるだけの脆弱な存在であることを。
「……許されるわけ、ないだろ」
俺は絞り出すように言った。
「あいつにとって、俺たちは憎む価値すらねーんだよ。道端の石ころだ。蹴飛ばすのも面倒くさい、ただの背景だ」
それが一番、堪えた。
俺たちが必死に守ろうとした「スクールカースト」や「クラス内の地位」なんて、湊から見ればゴミ同然だったのだ。
俺たちは、無視されたまま、勝手に自滅した。
キーンコーンカーンコーン……。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。
重苦しい空気を切り裂くように、担任代理の教師が入ってきた。
前の担任だった佐々木は、懲戒解雇されて消えた。
新しい教師は、若くて頼りない男で、俺たちの顔色を常に窺っている。
「えー、席に着いてください。午後の授業を始めます」
誰も返事をしない。
ただ、死んだ魚のような目をして、黒板の方を向くだけだ。
教科書を開く音だけが、カサカサと響く。
この音は、俺たちの青春が枯れ落ちていく音だ。
ふと、窓の外を見た。
グラウンドでは、何も知らない一年生たちが体育の授業で走っている。
彼らもまた、この学校に入ったことを後悔しているのだろうか。
それとも、俺たちのような「汚染された世代」がいなくなるのを待っているのだろうか。
スマホが震えた。
また掲示板の通知だ。
『お前ら、一生十字架背負って生きろよ』
見知らぬ誰かの言葉が、呪いのように画面に浮かぶ。
俺はスマホをポケットにねじ込んだ。
逃げ出したい。
この息苦しい教室から、ネットの悪意から、そして自分自身の過去から。
でも、どこへ行けばいい?
卒業まであと一年。
俺たちはこの針のむしろのような教室で、互いを監視し、互いを憎しみ、そして恐怖に震えながら過ごさなければならない。
「楽しかった高校生活」なんて、もう記憶の彼方だ。
「……帰りたい」
思わず口から漏れた言葉は、誰にも届かずに消えた。
隣の席では、沙織が教科書の端を爪でカリカリと削っている。
その不快な音が、俺の神経を逆撫でする。
俺は彼女を睨みつけた。
「うるせーな、死ねよ」
心の中でそう毒づくことで、なんとか自分の精神を保とうとする。
ああ、俺はまだ何も変わっていない。
反省なんてしていない。ただ、罰が怖いだけだ。
湊が見たら、きっと鼻で笑うだろう。
「お前らは、最後までその程度か」と。
俺はシャーペンを握りしめた。
芯が折れる音がした。
黒板の文字が滲んで見える。
これが、俺たちの因果応報。
傍観者という名の共犯者が辿り着いた、色あせた灰色の末路だった。
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