サイドストーリー 崩れ落ちる教壇と、事なかれ主義の末路

私立晴翔学園の職員室は、まるで戦場のような喧騒に包まれていた。

電話のベルが鳴り止まない。一本取れば、間髪入れずに次の回線が火を吹く。


「はい……申し訳ございません。現在、事実関係を調査中でして……」

「ご指摘は真摯に受け止め……はい、監督不行き届きで……」


教頭や事務員たちが、受話器を握りしめながら必死に謝罪を繰り返している。その顔色は土気色で、額には脂汗が滲んでいた。

窓の外には、まるでハイエナの群れのように報道陣が押し寄せている。カメラのフラッシュが断続的に焚かれ、ブラインドの隙間から鋭い光が差し込んでくる。


2年B組担任、佐々木(ささき)は、自分のデスクで頭を抱えて震えていた。

胃がキリキリと痛み、吐き気が止まらない。

目の前のパソコン画面には、教育委員会の通達メールと、ネット上の掲示板が表示されている。


『晴翔学園の教師は無能』

『冤罪で生徒を退学に追い込んだ担任・佐々木の実名と顔写真』

『いじめを隠蔽し、権力に媚びへつらう教育者の恥』

『こいつの住所特定したわ。〇〇マンション〇〇号室』


特定されていた。

佐々木の名前、顔写真、そして家族構成までもが、ネットの海に晒されている。


「違う……私は悪くない……」


佐々木はうわごとのように呟いた。


「私はただ、円滑な学校運営のために……」


一年前のあの日。

湊遥輝(みなと はるき)の鞄から、女子の体操服が見つかった日。

佐々木は、遥輝の必死の訴えを聞いた。


『違います! 俺じゃない! 俺はそんなもの知りません!』


その声は悲痛で、目には涙が溢れていた。

教師としての長年の勘は告げていた。「この生徒は嘘をついていないかもしれない」と。遥輝は普段から真面目で、そんなことをする生徒には見えなかったからだ。

だが、佐々木はその直感を意識的に握りつぶした。

なぜなら、告発者が西園寺蓮(さいおんじ れん)だったからだ。

学園の最大出資者である西園寺グループの御曹司。理事長も頭が上がらない「特権階級」の生徒。

もし、ここで蓮の証言を疑い、徹底的な調査を行えば、西園寺家の機嫌を損ねるかもしれない。警察沙汰になれば、学園の評判に傷がつく。

ならば、親の後ろ盾もない、平凡な生徒である遥輝一人に泥を被ってもらい、早々に退学してもらうのが「正解」だと判断したのだ。


「それが……こんなことになるなんて……」


佐々木はガタガタと震えた。

蓮が逮捕され、その悪行の数々が暴露された今、あの日佐々木が下した判断は「教育者による冤罪加担」として、世間から猛烈なバッシングを受けている。

もはや「事なかれ主義」では済まされない。彼は共犯者なのだ。


「佐々木先生」


背後から、氷のように冷たい声が掛かった。

ビクリと肩を跳ねさせ、振り返る。

そこに立っていたのは、顔面蒼白の校長だった。かつては西園寺家からの寄付金の話をする時だけ満面の笑みを浮かべていた男が、今は死神のような形相をしている。


「……理事長室へ来てください。今回の件について、処分が決定しました」


佐々木の心臓が早鐘を打った。

足が鉛のように重い。

廊下を歩くと、すれ違う生徒たちが佐々木を見て、露骨に顔をしかめるのが分かった。


「あ、佐々木だ」

「あいつが湊を追い出したんだろ?」

「西園寺の腰巾着」

「最低だな」

「よく平気な顔して歩けるよな」


生徒たちの囁き声が、鋭い棘となって突き刺さる。

かつて、彼らが佐々木に従っていたのは、教育者としての敬意からではない。ただ単に「西園寺蓮の言いなりになる教師」として、恐れられていただけだったのだ。

その虎の威を失った今、佐々木はただの「無能な中年男」でしかなかった。


理事長室の重い扉が開く。

中には、弁護士を伴った理事長が座っていた。


「佐々木先生。単刀直入に言います」


理事長は書類を一枚、テーブルの上に滑らせた。


「本日付けで、懲戒解雇とします」

「ちょ……懲戒、ですか!?」


佐々木の声が裏返る。


「ま、待ってください! 私は学校の指示に従っただけです! あの時、穏便に済ませろと言ったのは教頭じゃないですか!」

「見苦しいですよ、佐々木先生」


弁護士が冷淡に遮った。


「あなたは担任として、事実確認を怠り、一人の生徒の未来を不当に奪った。その事実は消えません。世間の批判を沈静化させるには、責任の所在を明確にする必要があります」

「そ、そんな……トカゲの尻尾切りじゃないですか!」

「尻尾? とんでもない。あなたは毒そのものだ」


理事長が吐き捨てるように言った。


「あなたのせいで、来年度の志願者数は激減です。西園寺グループからの支援も打ち切られ、学園は存続の危機に瀕している。退職金など出ると思わないでください」


佐々木は膝から崩れ落ちた。

30年近い教師生活。

そのすべてが、この一瞬で否定された。


「嘘だ……嘘だ……」

「荷物をまとめて、すぐに出て行ってください。これ以上、校内にいられると迷惑です」


警備員のような男に促され、佐々木はふらふらと職員室に戻った。

誰とも目を合わせられない。

同僚たちは、佐々木が解雇されたことを察してか、蜘蛛の子を散らすように彼から距離を取っていた。明日は我が身だと怯えているのだ。

佐々木は段ボール箱に私物を詰め込んだ。

マグカップ、生徒指導のマニュアル、そして……一枚の書類。

一年前、遥輝に書かせた『自主退学届』のコピーだ。なぜか捨てられずに持っていたそれが、今は呪いの護符のように見えた。


「……くそっ」


佐々木はそのコピーをくしゃくしゃに丸め、ゴミ箱に叩きつけた。

逃げるように職員室を出る。

最後に、自分が受け持っていた2年B組の教室の前を通った。

放課後の教室は無人だった。

夕日が差し込む教室内には、空席が目立つ。

西園寺蓮の席。

バスケ部主将・健太の席。

パパ活女子・美優の席。

そして、黒板の前にある、かつて湊遥輝が座っていた席。

そこには今、一ノ瀬沙織(いちのせ さおり)が座っていた。

彼女は帰るでもなく、ただ机に突っ伏して、動かずにいた。

机には、無数の落書きがされている。

『裏切り者』『男好き』『湊くんごめんなさいは?』

クラスメイトたちが、かつて遥輝に向けた悪意を、今は沙織に向けているのだ。

佐々木は息を呑んだ。

この教室を作り上げたのは、自分だ。

強い者が弱い者を踏みつけにする、そんな歪んだ秩序を容認し、「いじめ」を「いじり」と言い換えて見て見ぬふりをした結果が、この地獄絵図だ。


「……先生?」


沙織が顔を上げた。

その瞳は虚ろで、生気が全く感じられない。


「……先生、湊くんは……湊くんは、戻ってこないんですか?」


亡霊のような問いかけに、佐々木は後ずさりした。


「わ、私は……もう教師じゃない……」

「教えてくださいよ。どうしたら許してもらえるんですか? どうしたら、あの頃に戻れるんですか?」


沙織がふらりと立ち上がり、佐々木に近づいてくる。


「先生も言ってたじゃないですか。『西園寺くんの言う通りにすれば間違いない』って。だから私、信じたのに……」

「くるな……来るな!!」


佐々木は叫び、廊下を走った。

背後から沙織の乾いた笑い声が聞こえた気がした。

息が切れる。心臓が痛い。

校門を出ると、マスコミが彼に気づいて一斉に押し寄せてきた。


「佐々木先生ですね!?」

「冤罪事件について一言!」

「生徒を見殺しにしたという自覚はありますか!?」

「ネットの書き込みは事実ですか!?」


フラッシュの嵐。

突きつけられるマイク。

佐々木は顔をカバンで隠し、「違う! 私は悪くない!」と叫びながら、無様に逃げ惑った。

その姿は全国ニュースで放送され、彼の社会的生命を完全に断つ決定打となった。


■


数ヶ月後。

季節は夏を迎えていたが、佐々木の人生は厳冬の只中にあった。

都内の古いアパートの一室。

カーテンは閉め切られ、部屋にはコンビニ弁当の空き容器と、安酒の空き缶が散乱している。

エアコンをつける金も惜しく、蒸し風呂のような暑さの中で、佐々木は薄汚れた下着姿でスマホを見つめていた。


『元教師・佐々木の現在w』

『コンビニでバイトしてるの見たぞ』

『あいつのせいで学園崩壊したよな』

『死んで詫びろ』


ネットの掲示板には、今でも彼への誹謗中傷が書き込まれ続けている。

再就職などできるはずもなかった。

履歴書を送っても、名前を見ただけで断られる。

日雇いの交通誘導員のアルバイトで食いつなぐ日々だが、そこでも「お前、あのニュースの……」とバレて、居づらくなって辞めることの繰り返しだ。

貯金は底をつきかけている。

妻と子供は、事件直後に実家へ帰った。離婚届が郵送されてきたが、まだ署名できずに机の上に放置されている。


「なんでだ……なんで私がこんな目に……」


佐々木は震える手でワンカップ酒を煽った。

喉を焼く安っぽいアルコールの刺激だけが、今の彼に与えられた唯一の救いだった。


「私は30年も教師をやってきたんだぞ……。数えきれないほどの生徒を卒業させてきた……。たった一度……たった一度、判断を誤っただけで……」


間違いだったのか?

権力者に従うことが。

長いものに巻かれることが。

それが大人の処世術ではなかったのか。

「正義」などという甘っちょろい言葉で飯が食えるか。

そう思って生きてきた。

だが、その「処世術」が、彼をこの破滅へと導いたのだ。


「……あ、あぁ……」


幻聴が聞こえる。

『先生、信じてください』

遥輝の声だ。

『先生、これが教育なんですか?』

『先生、あなたも同罪ですよ』

あの日、彼を見捨てた瞬間の遥輝の絶望した目が、暗闇の中に浮かび上がる。

そして、その隣で西園寺蓮が嗤っている。

『先生、僕の言う通りにしてよかったね。……一緒に地獄へ行こうよ』


「ひっ、ひぃっ!!」


佐々木はスマホを放り投げ、頭を抱えてうずくまった。


「許してくれ……悪かった……私が悪かった……!!」


誰もいない部屋で、謝罪の言葉を叫び続ける。

だが、その声は誰にも届かない。

遥輝はもう、遥か遠い場所へ行ってしまった。

彼が戻ってくることはないし、彼が佐々木を許すこともない。


外から、近所の子供たちの笑い声が聞こえてくる。

無邪気な声。

かつては、自分もあんな子供たちを導く立場にいたのだ。

教壇に立ち、未来を語り、尊敬される「先生」だったのだ。

それが今は、社会の掃き溜めで震えるだけの、ただの初老の男だ。


ピンポーン。


インターホンが鳴った。

佐々木はビクリと体を強張らせた。

マスコミか? それとも借金取りか? あるいは、ネットで住所を特定した「正義の味方」気取りの襲撃者か?

恐ろしくて出られない。

息を潜め、居留守を使う。


「……佐々木さーん、家賃、まだですかー?」


大家の声だ。

滞納している家賃の催促。


「……いません……私はここにはいません……」


佐々木は小声で呟き、布団を頭から被った。


涙が枕を濡らす。

これが、彼の末路だ。

一人の生徒を見捨て、保身に走った代償は、あまりにも高くついた。

彼はこれから先、死ぬまで「あの事件のクズ教師」という十字架を背負い、誰の目にも触れないように、日陰を這いずり回って生きていくしかないのだ。


机の上に転がったスマホの画面が、通知で一瞬明るくなった。

ニュースアプリの速報だ。


『晴翔学園、来年度の募集停止を発表。事実上の廃校へ』


佐々木はそれを見ることもなく、ただ暗闇の中で、過去の栄光の残骸に縋り付いて泣き続けた。

教育という名の聖域を汚した彼に、朝が訪れることは二度となかった。

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