サイドストーリー 泥濘に沈む「元・特権階級」たちの肖像

蒸し暑い空気が肌にまとわりつく、六月の午後。

郊外にある建設資材の置き場では、大型トラックの排気ガスと土埃が舞い上がり、視界を茶色く濁らせていた。

カン、カン、カン、という金属音が絶え間なく響く中、一人の青年が重い鉄パイプを肩に担いで歩いていた。

作業着は汗と油で黒ずみ、安全靴は泥まみれだ。かつて、手入れの行き届いたバッシュを履き、ワックスで整えた髪を揺らしていた「彼」の姿は、そこには微塵もなかった。


「おい、新人! 手が止まってるぞ! さっさと運べ!」


現場監督の怒号が飛ぶ。

青年――かつて私立晴翔学園のバスケ部主将として君臨していた健太(けんた)は、ビクリと肩を震わせ、「は、はいっ!」と裏返った声で返事をした。

手のひらには無数のマメができ、いくつかは潰れて血が滲んでいる。

腰が痛い。足が棒のようだ。

バスケットボールを持っていた時とは違う、ただ身体を酷使するだけの労働。

これが今の健太の現実だった。


(なんで……なんで俺がこんなこと……)


鉄パイプをトラックの荷台に放り投げながら、健太は心の中で毒づいた。

数ヶ月前まで、俺の人生は輝いていたはずだ。

強豪大学へのスポーツ推薦が決まり、クラスではカースト上位のグループに属し、美人の彼女候補もいた。

西園寺蓮(さいおんじ れん)という強力な後ろ盾を得て、邪魔だった前主将の湊遥輝(みなと はるき)を追い出し、我が世の春を謳歌していたのだ。

それが、たった一日で崩壊した。

あの日、遥輝によって拡散された動画と音声データ。


『実力? バスケなんて適当にやってりゃいいんだよ』


自分の軽薄な声が、ネットという海に永遠に刻み込まれた。

推薦入学における裏金工作、後輩への暴力行為、そして湊への冤罪加担。

すべてが白日の下に晒された結果、大学の推薦は取り消され、高校からは「自主退学」という名の追放処分を受けた。


「おい、お前。またスマホ見てんのか?」


休憩時間、スポーツドリンクを飲んでいた健太に、同僚の作業員がニヤニヤしながら話しかけてきた。


「え、いや、時間を確認しただけで……」

「嘘つけ。お前、またエゴサしてんだろ? 『晴翔学園 バスケ部 健太』ってな」


同僚の言葉に、健太の顔から血の気が引く。

この職場に来て一週間。隠していた過去は、あっという間にバレていた。

今の時代、名前と顔写真があれば、誰でも簡単に「特定」できる。

ネット上には、健太の顔写真、住所、そして彼が犯した悪事の数々が、「デジタルタトゥー」として半永久的に残っているのだ。


「有名人は辛いねぇ。裏金で大学行こうとしたんだって? すげぇ根性だな」

「やめ……てください」

「なんだよ、事実だろ? ほら、この掲示板にも書いてあるぞ。『こいつのパワハラのせいでバスケ辞めた』って書き込み。これ、お前の後輩か?」


同僚が突きつけてきたスマホの画面には、見覚えのある後輩の実名告発が表示されていた。

『健太先輩に部室で殴られたあざの写真です』

『西園寺さんの腰巾着で、逆らうと部活にいられなくされました』

コメント欄には辛辣な言葉が並ぶ。

『クズすぎ』『一生ボール触るな』『社会のゴミ』


「……うっ、うぅ……」


健太は耳を塞ぎ、逃げるようにトイレへと駆け込んだ。

個室の鍵を閉め、便座に座り込む。

悔し涙が溢れてくる。


「俺は悪くない……俺だけじゃない……!」


そう、悪いのは西園寺だ。あいつが俺に「親父に頼めば推薦なんて楽勝だ」と唆したんだ。

湊を追い出す計画だって、全部西園寺が考えたことだ。俺はただ、それに話を合わせただけだ。

それなのに、西園寺は逮捕され、俺はこうして全てを失った。

バスケも、学歴も、未来も。

地元に帰れば「あの事件の主犯格」として白い目で見られ、親からは「恥晒し」と勘当同然の扱いを受け、逃げるようにこの街へ出てきた。

だが、どこへ行ってもネットの悪意は追いかけてくる。

一生、このレッテルを背負って、泥水をすするように生きていくしかないのか。


「……湊」


ふと、かつての親友の名前が口をついて出た。

一年前、部費を盗んだ犯人に仕立て上げられた湊は、こんな風に誰も信じてもらえず、孤立無援の中で学校を去ったのだろうか。

「ざまぁみろ」と俺たちが笑っていた時、あいつはどんな気持ちだったのだろうか。


「……知るかよ! あいつが陰気だったのが悪いんだ!」


健太は虚勢を張るように叫び、壁を蹴った。

認めたくなかった。

自分が「悪」であり、湊が「正義」だったという結末を。

それを認めてしまえば、自分の存在価値が完全に否定されてしまう気がしたからだ。

だが、どれだけ強がっても、汚れた作業着と筋肉痛、そしてスマホの中の罵詈雑言という現実は変わらない。

昼休みの終了を告げるベルが、死刑執行の合図のように鳴り響いた。



その日の夜。

健太は逃げるように現場を後にし、繁華街の雑踏に身を隠していた。

安いカプセルホテルに帰る気にもなれず、あてもなく街を彷徨う。

きらびやかなネオン、着飾った若者たち、楽しそうな笑い声。

かつてはその中心に自分がいたはずだった。

今は、薄汚れたTシャツにサンダル履きで、誰とも目を合わせないように俯いて歩く「異物」でしかない。


「……あ?」


ふと、路地裏の薄暗い一角で、見覚えのある後ろ姿を見つけた。

派手なピンク色のワンピースに、高いヒール。

長い髪を巻き、ブランド物のバッグを提げているが、その背中はどこか疲れ切っているように見えた。

客引きの男と何かを言い争っている。


「だから! 二万じゃ無理だって言ってんでしょ! 最低でも三万!」

「あぁ? お前、自分の立場分かってんのか? ネットで晒されてる『パパ活女子』がよぉ。顔バレしてんだから、安くしねーと誰も買わねーよ」

「うっさいわね! だったらいいわよ、他の人探すから!」


その甲高い声。

間違いない。

かつて沙織の親友であり、クラスの女王気取りだった美優(みゆ)だ。


「……美優?」


健太がおずおずと声をかけると、彼女はビクリと肩を震わせ、般若のような形相で振り返った。


「誰よ! 今忙しいんだから……あ」


美優の目が大きく見開かれた。

厚塗りのファンデーションの下に、驚きと、そして隠しきれない羞恥の色が浮かぶ。


「……健太?」


二人は、ゴミ捨て場の裏のような薄暗い路地で、奇妙な再会を果たした。

美優の姿は、遠目に見れば華やかだったが、近くで見ると悲惨だった。

髪は根本が黒く伸びてプリン状態になり、ブランドバッグは角が擦り切れている。何より、肌荒れが酷く、目の下のクマをコンシーラーで必死に隠しているのが分かった。


「……お前、こんなとこで何してんだよ」


健太が尋ねると、美優はふんと鼻を鳴らし、バッグを持ち直した。


「何って、見ての通りよ。仕事中。あんたこそ、何その汚い格好。ホームレス?」

「ふざけんな、仕事帰りだ。……お前、まだパパ活やってんのかよ」

「うるさいわね。親に勘当されたんだから、生きるためには仕方ないでしょ!」


美優は叫び、ポーチからタバコを取り出して震える手で火をつけた。

彼女もまた、地獄を見ていた。

あの日、遥輝によって暴露された裏アカウントと、パパ活の証拠写真。

学校にはいられなくなり、厳格だった親からは「家の敷居を跨ぐな」と追い出された。

手元に残ったのは、少しの小遣いと、売れ残ったブランド品だけ。

真っ当なバイトをしようにも、面接で名前を言った瞬間に「ああ、あの……」と断られる。

結局、彼女に残された道は、身体を売ることしかなかった。

しかも、ネットで顔が割れているため、まともな店も使えず、こうして路上で客を拾う「立ちんぼ」にまで落ちぶれていたのだ。


「……あーあ、最悪」


美優は紫煙を吐き出し、壁に寄りかかった。


「西園寺くん捕まったってニュース見た?」

「……ああ」

「執行猶予ついたけど、親から絶縁されて、今はどこかの公園で野宿してるらしいわよ。ざまぁみろって感じ」


美優は乾いた笑い声を上げた。


「あいつも、私たちも、みんな終わり。……ねえ、健太。あんた、湊のこと覚えてる?」


唐突に出た名前に、健太は眉をひそめた。


「……忘れるわけねーだろ。あいつのせいで、俺たちはこうなったんだ」

「そうね。あいつのせい。……でもさ」


美優はタバコの灰を地面に落とし、自嘲気味に呟いた。


「私たち、最初から間違ってたのかもね」

「は?」

「だって、湊は何もしてなかったじゃない。美優の体操服盗んだのも、部費盗んだのも、全部西園寺くんだった。私たちはそれを知らずに、あるいは知ってて見ないフリをして、湊をいじめた」


美優の瞳が、街灯の光を反射して揺れる。


「沙織もそうよ。あの子、今引きこもりになってるらしいけど……自業自得よね。一番近くにいたくせに、一番最初に湊を疑ったんだから」


美優は沙織の悪口を言いながらも、どこか寂しげだった。

かつては「親友」としてカフェに行き、インスタ用の写真を撮り合っていた日々。

中身のない友情だったかもしれないが、それでもあの頃は「楽しかった」のだ。

それが今はどうだ。

互いに傷を舐め合うことすらできず、こうして泥沼の底で罵り合うことしかできない。


「……俺たちが悪いって言いたいのかよ」


健太が低い声で言う。


「そうよ。悪いわよ、私たち」


美優はあっさりと認めた。


「調子に乗ってたのよ。自分たちは特別で、何をしても許されると思ってた。西園寺くんという虎の威を借りて、気に入らない奴を踏み潰して……その結果がこれ」


美優は自分の身体を指差した。


「中古のブランド品みたいに、安値で買い叩かれる人生。……笑えるでしょ?」


健太は何も言えなかった。

反論したかった。「俺は悪くない」と言いたかった。

だが、目の前にいる美優の荒んだ姿が、自分自身の姿と重なり、言葉が出てこなかった。

俺たちは、鏡写しだ。

かつての栄光にしがみつき、現実を受け入れられず、過去の亡霊に怯えながら生きている。


「……湊は、今どこにいるんだろうな」


健太がポツリと漏らした。


「さあね。風の噂じゃ、この街を出て行ったらしいけど」

「俺たちのこと、笑ってるかな」

「笑ってるわけないでしょ」


美優は冷たく言い放った。


「あいつにとって、私たちはもう『眼中にない』のよ。復讐が終わった時点で、私たちは用済みのゴミ。笑う価値すらない存在」


その言葉は、どんな罵倒よりも鋭く健太の胸を突き刺した。

無関心。

それが湊からの最終宣告だった。


「お前らのことなんて、もうどうでもいい」


そう言われている気がした。


「……行くわ」


美優はタバコをもみ消し、バッグを肩にかけ直した。


「まだ今日のノルマ稼げてないの。ホテル代も払えないし」

「……ああ」

「じゃあね、元・主将さん。お互い、野垂れ死なないように頑張りましょうね」


美優はヒラヒラと手を振り、再びネオンの海へと消えていった。

その後ろ姿は、かつて教室で見せていた自信満々なものではなく、今にも折れそうなほど細く、頼りなかった。


健太は一人、路地裏に残された。

ドブ川の臭いが鼻をつく。

遠くでパトカーのサイレンが聞こえる。

ポケットの中のスマホが震えた。

また通知だ。

『お前の住所特定したぞ』

『明日、現場に見に行ってやるよ』

ネットの悪意は眠らない。


健太はその場にへたり込んだ。

アスファルトの冷たさが、尻を通して全身に伝わる。


「くそっ……くそぉっ……!」


涙が溢れて止まらなかった。

後悔しても、時間は戻らない。

バスケットボールの弾む音。

チームメイトの歓声。

「ナイスシュート、健太!」と笑ってくれた、かつての湊の声。

それらすべては、二度と手に入らない幻となってしまった。


彼は知ってしまったのだ。

自分たちが築き上げてきた「スクールカースト」という城が、いかに脆く、砂上の楼閣であったかを。

そして、その城を自ら破壊し、瓦礫の下敷きになったのが自分自身であることを。


「帰りたい……」


どこへ?

帰る場所など、もうどこにもないのに。


健太は膝を抱え、嗚咽を漏らした。

繁華街の喧騒は、彼の泣き声をかき消すように、無慈悲に、そして明るく輝き続けていた。

それは、選ばれなかった者、道を踏み外した者に対する、残酷なまでの「日常」の輝きだった。

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