第六話 灰になった楽園
季節は巡り、また春が訪れようとしていた。
しかし、今年の桜は、一年前とは全く違う色に見える。
かつて湊遥輝(みなと はるき)が通っていた私立晴翔学園の校門前には、満開の桜並木が続いているが、その華やかさはどこか白々しく、無機質なものに感じられた。
学園を揺るがした一大スキャンダル――「サイオン・ホールディングス御曹司逮捕」と「生徒による集団不正・いじめ問題」の嵐が過ぎ去ってから、数ヶ月が経過していた。
世間の関心は移ろいやすく、ネット上の炎上も鎮火しつつある。だが、当事者たちの人生に残された爪痕は、決して消えることはない。
焼け野原となった彼らの楽園には、冷たい灰だけが降り積もっていた。
都内のとある公園。
ブルーシートで作られた即席のテントが並ぶ一角に、薄汚れたパーカーを着て、虚ろな目でベンチに座り込んでいる男がいた。
伸び放題の髪は脂でべとつき、無精髭が頬を覆っている。かつての整った顔立ちの面影はあるが、今の彼からは、誰もが振り返るようなオーラは微塵も感じられない。
西園寺蓮(さいおんじ れん)。
かつてこの世のすべてを手にしていた男の成れの果てだ。
「……腹減ったな」
蓮は掠れた声で呟き、ポケットを探った。出てきたのは、くしゃくしゃになったレシートと、小銭が数枚だけ。
合わせて百二十円。これで何が買えるというのか。
一年前、彼は一食数万円のディナーを当たり前のように平らげ、親のブラックカードで湯水のように金を使っていた。
それが今では、コンビニのおにぎり一つ買うのにも躊躇する有様だ。
「なんで……なんで俺がこんな目に……」
蓮は何度目か分からない呪詛を吐いた。
逮捕された後、彼は地獄を見た。
警察での執拗な取り調べ。余罪の追及。
父親は優秀な弁護士を雇うどころか、絶縁状を叩きつけ、彼を完全に見捨てた。
「西園寺家の恥晒しめ。二度とその名を名乗るな」
面会室のアクリル板越しに浴びせられた罵倒は、今でも耳鳴りのように響いている。
結果として、彼は初犯ということで執行猶予付きの判決を得たが、それは自由を意味しなかった。
サイオン・ホールディングスの株価暴落による損害賠償、被害者たちへの慰謝料。それらは莫大な借金となって彼にのしかかった。親が肩代わりしてくれるはずもなく、彼は自己破産の手続きを進めることになったが、未成年飲酒や薬物疑惑による社会的信用の失墜は、彼からまともな職を奪った。
住所不定、無職。前科持ち。
ネットで検索すれば、彼の顔写真と過去の悪行が半永久的に表示されるデジタルタトゥー。
誰も彼を雇おうとはしない。日雇いの現場ですら、「お前、あの西園寺か?」と気づかれ、追い出される始末だ。
「クソッ……クソッ!!」
蓮はベンチを拳で叩いた。
痛みが走るが、心の痛みには及ばない。
あの日、あのパーティーで、遥輝が流した動画。あれさえなければ。
「湊……湊ぉぉぉ!!」
復讐相手の名前を叫ぶが、公園を歩く人々は「関わりたくない」という顔で彼を避けて通るだけだ。
誰も彼を見ない。誰も彼を助けない。
かつて彼の周りに群がっていた取り巻きたちも、蜘蛛の子を散らすように消えた。
健太は退学になり、田舎の実家に強制送還されたと聞いた。美優はパパ活が親にバレて勘当され、風俗街に沈んだという噂だ。
そして、自分はここだ。
ゴミ捨て場の王様。それが今の自分の称号だ。
「……誰か、金くれよ……」
プライドも何もない。蓮は通りがかりのサラリーマンに手を伸ばした。
「おい、そこのおっさん。千円でいいからくれよ。俺は西園寺蓮だぞ。復活したら倍にして返してやるからさ」
サラリーマンは汚物を見るような目で蓮を一瞥し、無言で早足に去っていった。
その視線。
遥輝に向けられていたはずの軽蔑の視線が、今は自分に向けられている。
因果応報。
その言葉が、冷たい風と共に蓮の身を切り刻んだ。
■
一方、かつて蓮が「手軽な玩具」として扱っていた少女の部屋もまた、深い闇に沈んでいた。
一ノ瀬沙織の部屋は、昼間だというのに厚い遮光カーテンが閉め切られ、重苦しい空気が淀んでいた。
ベッドの上で膝を抱え、彼女はぼんやりと壁を見つめている。
痩せ細った腕には点滴の痕のようなあざがあり、長い黒髪は艶を失ってパサついていた。
「沙織……ご飯、置いておくわよ」
ドア越しに、母親の心配そうな声が聞こえる。
しかし、沙織は返事をしない。する気力がなかった。
彼女の世界は、あの日、遥輝に拒絶された屋上で終わってしまったのだ。
「……ごめんなさい……はるくん……」
壊れたレコードのように、謝罪の言葉を繰り返す。
目を閉じると、鮮明に浮かび上がる光景がある。
一年前、無実を訴える遥輝の必死な顔。
それを冷たく拒絶し、「最低」と罵った自分の顔。
そして、真実を知った時の絶望と、遥輝の氷のような瞳。
『お前のその薄っぺらい正義感と、人を見る目の無さが、俺の人生を壊したんだ』
その言葉が、鋭利なナイフとなって心臓を抉り続ける。
枕元には、スマートフォンの残骸が転がっていた。
事件の後、沙織のSNSには大量の誹謗中傷が殺到した。
『被害者ぶんなよ共犯者』
『男を見る目なさすぎw』
『お前が一番残酷だよ』
『湊くんを返せ』
見知らぬ人々からの悪意の奔流に耐えられず、彼女は自らの手でスマホを壁に叩きつけて壊したのだ。
だが、スマホを壊しても、現実は変わらない。
家のポストには毎日のように嫌がらせの手紙が届き、外に出れば近所の住人がひそひそと噂話をしている幻聴が聞こえる。
学校へは行けなくなった。転校しようにも、この街にいれば「あの一ノ瀬沙織」というレッテルからは逃れられない。
「……もし」
沙織は震える手で、引き出しの奥から一枚の写真を取り出した。
中学の卒業式。桜の下で、遥輝と二人で並んで撮った写真だ。
遥輝は少し照れくさそうに笑い、沙織は満面の笑みでピースサインをしている。
この頃は、世界が輝いていた。
遥輝がいれば、何も怖くなかった。
彼が隣にいてくれることが当たり前すぎて、その大切さに気づけなかった。
「もし、あの時……私が『信じる』って言えてたら……」
そうすれば、今頃は二人で並んで登校していただろうか。
放課後はクレープを食べて、週末は映画に行って。
いつか恋人同士になって、ずっと一緒にいられたかもしれない。
そんな「あり得たはずの未来」を想像するたびに、胸が張り裂けそうになる。
「うぅ……あぁぁぁ……」
写真の中の遥輝は笑っているのに、今の彼はもう、二度と私に笑いかけてはくれない。
私が殺したんだ。
あの優しい笑顔も、温かい心も、全部私が壊したんだ。
蓮という悪魔を招き入れ、彼の手を取ってしまった私の罪だ。
「戻りたい……戻りたいよぉ……」
沙織は写真を胸に抱きしめ、子供のように泣きじゃくった。
涙は枯れることなく、枕を濡らし続ける。
彼女の時間は止まったままだ。
後悔という名の牢獄の中で、彼女は一生、自分の愚かさを呪い続けて生きていくしかない。
それは、遥輝が彼女に与えた、最も残酷で適切な「罰」だった。
■
そして、すべての物語を終わらせた男、湊遥輝は、新しい季節の風を感じながら街を歩いていた。
黒いパーカーのフードを浅く被り、背中には大きなリュックサックを背負っている。
手には片道の切符。
この街を出て、遠い場所で新しい生活を始めるつもりだった。
もう、ここには未練も何もない。
復讐という名のタスクはすべて完了した。
心の中は、驚くほど静かだった。達成感というよりは、長い掃除を終えた後のような、さっぱりとした虚無感が漂っている。
駅へ向かう途中、遥輝はふと足を止めた。
視線の先にある公園のベンチ。
そこに、見覚えのある男が座っていたからだ。
薄汚れた衣服、猫背になった姿勢、生気のない顔。
西園寺蓮だ。
かつて自分を見下し、嘲笑っていた男が、今は野良犬のように震えている。
遥輝は無表情のまま、彼を見つめた。
怒りも、憐れみも湧いてこない。ただ「そこにゴミがある」という程度の認識だ。
その時、蓮が顔を上げ、遥輝と目が合った。
蓮の目が大きく見開かれる。
「……あ……!」
蓮が立ち上がった。
ふらつく足取りで、遥輝の方へと歩み寄ろうとする。
「み、湊……! お前、湊か!?」
蓮の声は震えていた。
何と言おうとしたのだろうか。
謝罪か? 罵倒か? それとも、助けを求める言葉か?
「待ってくれ! 俺だ! 西園寺だ! なあ、話を聞いてくれよ!」
蓮は必死の形相で手を伸ばしてきた。
しかし。
遥輝は立ち止まることすらしなかった。
視線を蓮から外し、まるでそこに誰もいないかのように、ただ前を向いて歩き続けたのだ。
「え……?」
蓮が呆気にとられて立ち尽くす。
遥輝は、蓮の横をすり抜けていく。
肩が触れそうな距離。
蓮からは異臭が漂ってきたが、遥輝は眉一つ動かさない。
無視。
徹底的な無視。
それは、「お前は俺にとって、憎む価値すらない存在だ」という、最大の侮辱だった。
「お、おい! 無視すんなよ! 俺だぞ! お前の人生を壊した西園寺蓮だぞ!!」
背後で蓮が喚いている。
自分の存在を証明しようと、必死に過去の悪行を叫ぶその姿は、あまりにも滑稽で哀れだった。
かつての宿敵は、もう遥輝の視界に入る資格すら失っていたのだ。
「……うるさい雑音が消えたな」
遥輝は小さく呟き、駅の改札をくぐった。
もう振り返らない。
あの公園のベンチで、蓮は一生、過去の栄光に縋りながら朽ちていけばいい。
それが彼に相応しい末路だ。
ホームに滑り込んできた電車に乗り込む。
車内は空いていた。
窓側の席に座り、流れる景色を眺める。
見慣れた街並みが、どんどん遠ざかっていく。
通学路、よく行ったファミレス、沙織と歩いた桜並木。
それらすべてが、過去へと流れていく。
遥輝はポケットからスマートフォンを取り出した。
画面を点灯させ、連絡先アプリを開く。
そこには、まだ消去していなかった数人の名前が残っていた。
『西園寺蓮』
『一ノ瀬沙織』
『健太』
『美優』
復讐のために情報を集める際、あえて残しておいた「標的リスト」だ。
遥輝の指が、画面の上で迷いなく動く。
『削除しますか?』
「……さようなら」
タップする。
『削除完了』
画面から名前が消えた。
一人、また一人。
最後に、『一ノ瀬沙織』の名前が表示される。
一瞬だけ、指が止まった。
脳裏に、幼い頃の沙織の笑顔がよぎる。
『はるくん、大好き!』
無邪気だったあの頃。守りたかった笑顔。
だが、それはもう存在しない幻影だ。
今の彼女は、俺を信じなかった裏切り者であり、俺に絶望を与えた女だ。
感傷に浸る時間は終わった。
「……バイバイ、沙織」
遥輝は静かに、削除ボタンを押した。
データが消える。
それと同時に、胸の中に巣食っていた重い鉛のような塊が、すっと消えていくのを感じた。
これで、本当に終わりだ。
俺の青春も、初恋も、復讐も。
すべてがデジタルデータのように消去され、初期化された。
スマートフォンをポケットにしまい、遥輝は窓ガラスに映る自分の顔を見た。
そこには、復讐鬼の険しい表情ではなく、憑き物が落ちたような、穏やかで少し寂しげな青年の顔があった。
口元が、自然と緩む。
「ふっ……」
小さく笑った。
一年ぶりに、心からの笑みがこぼれた気がした。
電車が鉄橋を渡る音が、リズミカルに響く。
ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。
それは新しい人生へのカウントダウンのようだった。
行き先は決めていない。
どこへでも行ける。
誰にも縛られず、誰の目も気にせず、自分のためだけに生きる人生が、今ここから始まるのだ。
灰になった楽園を焼き捨てて、僕は歩き出す。
その先にあるのが荒野だとしても、偽りの花畑よりはずっとマシだ。
遥輝は深く息を吸い込み、青く澄み渡る空を見上げた。
そこには、一点の曇りもない、突き抜けるような自由が広がっていた。
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