第五話 主犯の転落と焦燥

都内屈指の高級ホテル「グラン・オーシャン東京」。その最上階にあるバンケットホールは、煌びやかなシャンデリアの光と、着飾った紳士淑女たちの談笑で満たされていた。

今夜は、国内有数の大企業「サイオン・ホールディングス」の創業記念パーティー兼、株主総会後の懇親会が開かれている。

会場の一角、ガラス張りの窓から眼下に広がる東京の夜景を見下ろしている青年がいた。

西園寺蓮(さいおんじ れん)だ。

彼はオーダーメイドのタキシードに身を包み、手にはノンアルコールのシャンパンを持っていた。その姿は、絵に描いたような御曹司であり、誰もが羨む「勝ち組」の象徴だった。


「……ふん、馬鹿な奴らだ」


蓮は独り言を漏らし、ポケットからスマートフォンを取り出した。

画面には、通知が絶え間なく表示されている。


『不在着信:健太』

『不在着信:美優』

『不在着信:沙織』


特に沙織からの通知は異常な数だった。MINEのメッセージも数百件溜まっている。

『蓮くん、助けて』『みんな嘘だよね?』『会いたい』『怖い』

通知のプレビューに並ぶそれらの言葉を見て、蓮は鼻で笑い、無造作に「通知オフ」の設定をタップした。


「面倒くさいな。あいつら、勝手に自爆しやがって」


今日一日で、学校は大騒ぎになっていた。健太の不正入学と部内暴力、美優のパパ活と裏アカウントの暴露。

低能な取り巻きたちが破滅していく様は、蓮にとって「少し不愉快なニュース」程度のことだった。

自分は違う。自分は特別だ。

親の権力がある。金がある。そして何より、自分自身が手を下した証拠なんてどこにもないはずだ。

健太や美優がどうなろうと知ったことではない。沙織に関しても、もう潮時だろう。あんな面白みのない女、一年も付き合ってやっただけで感謝してほしいくらいだ。


「蓮、ここにいたのか」


背後から重厚な声が掛かった。

振り返ると、白髪交じりのオールバックに、威厳のある髭を蓄えた男が立っていた。サイオン・ホールディングス代表取締役社長、西園寺剛造(ごうぞう)。蓮の父親だ。


「父さん。お疲れ様です」

「ああ。今日のパーティーはお前の顔見せも兼ねているんだ。来月には系列の子会社の役員に名を連ねさせる予定だからな。粗相のないようにしろよ」

「もちろんです。任せてください」


蓮は完璧な笑顔で応えた。

父親は厳しいが、成果さえ出していれば甘い。この男の権力さえあれば、学校でのちょっとしたトラブルなんて、指先一つで揉み消せる。

そう、俺の人生は順風満帆だ。これからも、ずっと。


「それでは皆様、これより西園寺社長のご挨拶がございます」


司会の声が響き、会場の照明が少し落とされた。スポットライトがステージを照らす。

剛造が堂々とした足取りで壇上へ向かう。

蓮はその様子を、余裕綽々の笑みで眺めていた。

あと数年もしないうちに、あの場所に立つのは自分だ。この会場にいる有象無象の大人たちを支配し、すべてを手に入れる。

その未来を疑いもしなかった。


その時だった。


ブブブブブ……。

ブブブブブ……。


会場内のあちこちで、異様な音が鳴り始めた。

一人のスマホではない。十人、二十人……いや、会場にいるほぼ全員のスマートフォンが、一斉にバイブレーションを響かせ始めたのだ。

緊急地震速報か?

ざわめきが広がる中、蓮のスマホも震えた。

画面を見る。

通知の送り主は『YourTube』。

タイトルは、『【緊急配信】サイオン・ホールディングス御曹司・西園寺蓮の真実と、腐敗した帝国の裏側』。


「……は?」


蓮の思考が停止した。

何だこれは。誰の悪戯だ。

しかし、周囲の反応は悪戯で済むものではなかった。

株主や取引先の重役たちが、血相を変えてスマホに見入っている。ある者は眉をひそめ、ある者は口元を押さえ、そしてある者は――強烈な怒りの形相で蓮を睨みつけていた。


「おい、これ……」

「西園寺社長の息子が?」

「会社の機密情報を漏洩?」

「未成年飲酒に、薬物疑惑まで……!?」


ひそひそ話が、やがて怒号のような騒音に変わっていく。

蓮は震える指で、その動画を再生した。


画面に映し出されたのは、いつものバーで泥酔している蓮自身の姿だった。

隠し撮りされた映像だ。

画角は不安定だが、音声はクリアに拾われている。


『あー、親父の会社? チョロいっしょ。どうせじじい共なんて、俺が適当におべっか使えばイチコロだし』


動画の中の蓮が、下品に笑いながらグラスをあおる。


『裏帳簿のデータとか見たけどさ、結構危ない橋渡ってんだよねーウチの会社。ま、俺には関係ねーけど! 金さえ入れば文句なし!』

『株主総会? ああ、あの老人ホームの集まりみたいなやつ? 行くだけダルいわー。適当に笑顔振りまいて、後は女と遊ぶだけw』


会場の空気が凍りついた。

壇上の剛造が、言葉を失って立ち尽くしている。その顔は朱色に染まり、こめかみに青筋が浮き上がっていた。


動画は続く。

場面が切り替わる。次は、蓮が友人と電話している音声データだ。


『湊の件? ああ、あいつマジでウザかったからハメてやったわ』

『女子の更衣室から体操服盗んで、あいつの鞄に入れたの俺だし。指紋? つかないように手袋したから完璧』

『警察とか学校とか、親父の金があればどうとでもなるって。正義なんて金で買えるんだよ、バーカ』


決定的だった。

一年前の冤罪事件の自白。

そして、法に触れる発言の数々。

さらに動画の後半には、蓮がドラッグの売人と接触している写真や、過去に転校前の学校で同級生を自殺未遂に追い込んだ際のいじめの記録、示談金の支払い明細までが流れていた。


「……嘘だ」


蓮は呼吸を忘れた。

全身から冷たい汗が噴き出す。

心臓が早鐘を打ち、視界が歪む。

これは夢だ。こんなことがあっていいはずがない。

誰だ? 誰がこんなものを?


『……楽しんでるか? 西園寺』


動画の最後に、加工された音声と、黒い背景に白い文字が浮かび上がった。


『これは、お前が「遊び」で壊した人生の、ほんの一部のお返しだ』

『想像力が足りないお前に教えてやる。お前が積み上げた砂の城は、もう波に攫われた』

『地獄へようこそ』


プツン、と動画が終わる。

静寂。

死のような静寂が、バンケットホールを支配した。

数百人の視線が、一斉に蓮に突き刺さる。

それは先ほどまでの羨望の眼差しではない。

汚物を見る目。軽蔑の目。そして、自分たちの資産を脅かす「疫病神」を見る敵意に満ちた目だ。


「れ……蓮……!!!」


怒号が轟いた。

壇上から駆け下りてきた剛造が、鬼の形相で蓮に歩み寄る。


「と、父さん……ち、違うんだ、これは合成で……!」


蓮は後ずさりながら弁明しようとした。

だが、剛造の手は容赦なかった。


バァァァァン!!


乾いた破裂音が会場に響き渡る。

蓮の体が吹き飛び、床に無様に転がった。

頬に焼き付くような激痛。口の中が切れ、鉄の味が広がる。


「貴様……! よくも……よくも私の顔に泥を塗ったな!!」


剛造は倒れた蓮の胸ぐらを掴み上げ、唾を飛ばして怒鳴りつけた。


「会社の機密を漏洩だと!? 株主を愚弄しただと!? 貴様、自分が何をしたか分かっているのか!! 今日のためにどれだけの根回しをしたと思っている!!」

「ご、ごめんなさい……! 悪気はなかったんだ……! ただの酒の席の冗談で……!」

「黙れ!! 冗談で株価が暴落してたまるか!! 見ろ!!」


剛造が指差した先にある大型スクリーン。そこには経済ニュースの速報が流れていた。


『サイオン・ホールディングス御曹司、犯罪関与疑惑』

『株価急落、ストップ安の気配』

『警察が捜査開始か』


終わった。

何もかもが終わった。

蓮はガタガタと震え、失禁しそうになるのを必死に堪えた。


「父さん……助けて……何とかしてよ……」


縋るように父親を見る。

しかし、剛造の目にあったのは、息子への愛情ではなかった。

損切りすべき不良債権を見る、冷徹な経営者の目だった。


「……お前はもう、私の息子ではない」

「え……?」

「勘当だ。二度と西園寺の敷居を跨ぐな。そして、この損害はお前の個人資産と、お前の人生すべてを使って償ってもらう」


剛造は蓮をゴミのように突き放した。


「警備員! この男を摘み出せ! 警察が来たらそのまま引き渡せ!」

「は、はい!」


数人の屈強な警備員が蓮に群がる。


「離せ! 俺は西園寺蓮だぞ! ここは俺の家みたいなもんだ!」


蓮は無様に暴れたが、もはや彼の言葉に耳を貸す者は誰もいなかった。

両脇を抱えられ、引きずられていく。

かつて彼に媚びへつらっていた大人たちが、冷ややかな目で見送る。


「最低だな」

「親の顔が見てみたいとはこのことか」

「教育がなってない」


罵声と嘲笑の中、蓮はホールの出口へと放り出された。


廊下の冷たい床に投げ出された蓮は、呆然と天井を見上げた。

タキシードは汚れ、髪は乱れ、頬は赤く腫れ上がっている。

スマホが震えた。

恐る恐る画面を見る。

通知の嵐だ。

アウスタ、Twotter、MINE。

世界中から誹謗中傷が届いている。

『犯罪者』『死ね』『親の七光り』『湊くん可哀想』『ざまぁみろ』

その中に、一件だけ、見知らぬ番号からのメッセージがあった。


『随分と派手なパーティーだったな』


直感した。

湊だ。湊遥輝だ。

あいつがやっているんだ。

蓮は震える指で通話ボタンを押した。

ワンコールで繋がる。


「……湊か!? お前なんだろ!!」


蓮は叫んだ。恐怖と怒りで声が裏返る。


『ああ、久しぶりだな西園寺。元気そうで何よりだ』


電話の向こうから聞こえる声は、不気味なほど落ち着いていた。氷のような冷静さだ。


「ふざけんな! お前の仕業か! あの動画も、ハッキングも!」

『仕業? 人聞きが悪いな。俺はただ、お前が撒き散らしたゴミを拾って、みんなに見える場所に並べただけだ』

「俺を殺す気か!? これで俺の人生めちゃくちゃだぞ!」

『殺す? まさか。死んで楽になれると思うなよ』


遥輝の声が、低く、深く響く。


『お前はこれから、生きて地獄を味わうんだ。親に見捨てられ、社会から抹殺され、誰からも信用されない世界で、這いつくばって生きろ』

「やめろ……やめてくれ……! 謝る! 謝るから!」


蓮は廊下で土下座をした。誰に見られているわけでもないのに、プライドも何もかも捨てて哀願した。


「金ならやる! 親父に頼んで……あ、いや、俺の貯金全部やるから! だからこの動画を消してくれ! お願いだ!」

『金? お前の金なんて、もう紙切れ同然だろ。それに、俺が欲しいのは金じゃない』

「じゃあなんだよ! 何が欲しいんだよ!」

『……お前の絶望だ』


その言葉と共に、電話が切れた。

ツーツーという電子音が、蓮の耳元で虚しく響く。


「う……うあぁ……」


その時、エレベーターホールから数人の男たちが現れた。

紺色のスーツに身を包み、鋭い目つきをした男たち。

警察だ。


「西園寺蓮さんですね」


刑事の一人が警察手帳を提示する。


「窃盗、器物損壊、名誉毀損、威力業務妨害、および薬物取締法違反の容疑で署まで同行願います」

「ち、違う……俺じゃない……」


蓮は後ずさるが、背後は壁だ。


「俺は悪くない……ちょっと悪ふざけしただけで……みんなやってるじゃないか……! なんで俺だけ!」

「言い訳は取調室で聞きます。手錠を」


ガチャリ。

冷たい金属の感触が手首に食い込む。

それは、彼が今まで「自分とは無縁」だと信じていた世界の象徴だった。


「嫌だ……嫌だぁぁぁぁ!! 父さぁぁぁん!!」


蓮は子供のように泣き叫んだ。

廊下を連行されていく彼の姿を、ホテルの客たちが白い目で見ている。

カメラのフラッシュが焚かれる。

明日の朝刊の一面は決まりだ。


『名門の崩壊』

『転落の御曹司』


蓮の視界が涙で滲む。

その滲んだ視界の隅に、幻覚だろうか。

黒いパーカーを着た男が、非常階段の陰からこちらを見ている気がした。

その男は、無表情のまま、ゆっくりと口元を動かした。


『ざ、ま、あ、み、ろ』


一年前、蓮が湊に向けた言葉。

それが今、巨大なブーメランとなって蓮の心臓を貫いた。


「あ……あぁ……」


蓮の意識が遠のいていく。

恐怖と後悔、そして理解不能な理不尽さへの怒り。

だが、どれだけ嘆いても、時は戻らない。

彼の輝かしい未来は、彼自身の愚かさと想像力の欠如によって、完全に、跡形もなく消滅したのだった。


■


ホテルから数百メートル離れたネットカフェの個室。

湊遥輝は、モニターに映るニュース映像を見つめていた。

「サイオン・ホールディングス、西園寺蓮容疑者を逮捕」

テロップと共に、警察車両に押し込まれる蓮の情けない姿が映し出されている。

SNSのタイムラインは、蓮への批判と、過去の悪事の暴露で埋め尽くされていた。

サイオン・ホールディングスの株価チャートは、ナイアガラの滝のように垂直落下している。


「……チェックメイトだ」


遥輝は静かに呟き、エナジードリンクの空き缶をゴミ箱に投げ入れた。

胸の奥にあったドロドロとした塊が、少しだけ溶けていくのを感じた。

だが、まだ完全に晴れたわけではない。

復讐は終わったが、失った青春が戻ってくるわけではないからだ。

それでも。

あの教室で感じた無力感、絶望感。それらを倍にして返してやったという事実は、遥輝に歪んだ達成感を与えていた。


「さて……」


遥輝は席を立った。

健太、美優、沙織、そして蓮。

全員の人生を破壊し尽くした。

この街に、もう用はない。


「行くか」


彼は荷物をまとめ、個室を出た。

外は雨が降り始めていた。

街のネオンが濡れたアスファルトに反射して、毒々しく光っている。

遥輝はフードを被り、雨の中へと歩き出した。

その足取りは軽く、どこか清々しささえ感じられた。

偽りの楽園は焼き払われた。

あとは、灰になった廃墟を背に、新しい孤独な道を歩むだけだ。

遥輝の唇に、微かな笑みが浮かんだ。それは復讐者としての冷酷な笑みではなく、長い戦いを終えた戦士の、自嘲混じりの安息の笑みだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録(無料)

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る