第四話 残酷な真実とヒロインの慟哭

放課後の校舎は、まるで嵐が過ぎ去った後のような、奇妙で重苦しい静寂に包まれていた。

いつもなら部活動の活気ある声や、帰宅する生徒たちの笑い声が響いているはずの時間帯だ。しかし今日は違う。

午前中に起きた「事件」――バスケ部主将・健太の不正発覚と、学年のアイドル・沙織の親友である美優の裏の顔が暴露された騒動は、瞬く間に全校生徒の知るところとなっていた。

Twotterのトレンドには「晴翔学園」の文字が躍り、生徒たちは教室の隅や廊下で、ひそひそと噂話を交わしている。

その視線の先にあるのは、好奇心と、そして恐怖だ。次は誰が標的になるのか。誰の秘密が暴かれるのか。疑心暗鬼という見えない毒ガスが、校内を満たしていた。


そんな空気から逃げるように、一ノ瀬沙織(いちのせ さおり)は、特別棟の屋上へと続く階段の踊り場に身を潜めていた。

ここは、かつて幼馴染の湊遥輝(みなと はるき)とよく昼食を食べた場所だった。人があまり来ない、二人だけの秘密基地のような場所。

沙織は膝を抱え、震える指先でスマートフォンを握りしめていた。

画面には、美優とのMINEのトーク履歴が表示されている。


『沙織の聖女ぶった態度、マジで吐き気する』

『あの子、自分が一番可愛いと思ってるからw』


暴露されたスクリーンショットの文面が、脳裏に焼き付いて離れない。


「……嘘だよね、美優ちゃん」


掠れた声が、冷たいコンクリートの壁に吸い込まれていく。

親友だと思っていた。何でも話し合える、かけがえのない存在だと信じていた。

けれど、突きつけられた現実はあまりにも残酷だった。彼女は裏で、沙織を嘲笑い、西園寺蓮(さいおんじ れん)に媚びを売っていたのだ。

そして、健太。

部活の星であり、努力家だと尊敬していた彼が、実は裏金とパワハラで地位を築いていたなんて。

信じていた世界が、足元から音を立てて崩れ去っていく感覚。

めまいがした。


「……蓮くん」


沙織は縋るように恋人の名前を呟いた。

蓮なら、きっとこの状況を何とかしてくれるはずだ。彼は強くて、優しくて、正義感に溢れている。

一年前、遥輝の罪を告発した時のように、きっと正しい道を示してくれる。

そう自分に言い聞かせなければ、心が壊れてしまいそうだった。


「……随分と辛気臭い顔をしているな」


不意に、頭上から声が降ってきた。

冷たく、感情の抜け落ちた、低い男の声。

沙織はびくりと肩を震わせ、弾かれたように顔を上げた。

逆光の中に、一人の男が立っていた。

黒いパーカーに、少し伸びた黒髪。痩せた頬と、鋭い眼光。

記憶の中にある姿とは随分と変わってしまっていたが、その面影を見間違えるはずがなかった。


「……湊、くん?」


沙織の声が裏返る。

そこに立っていたのは、一年前に学校を追われ、行方知れずになっていた幼馴染、湊遥輝だった。

最後に見た彼は、涙ながらに無実を訴え、絶望に顔を歪ませていた。

けれど、今の彼は違う。

嵐のような静けさを纏い、氷のような瞳で沙織を見下ろしている。その立ち姿からは、かつての温厚で優しかった「はるくん」の面影は微塵も感じられない。


「久しぶりだな、一ノ瀬」


他人行儀な呼び名に、沙織の心臓が早鐘を打つ。

「一ノ瀬」なんて呼ばれたことは、生まれて初めてだった。ずっと「沙織」だったのに。

沙織は慌てて立ち上がり、スカートの埃を払った。動揺を悟られないように、努めて明るく、そして少しだけ「心配していた幼馴染」としての振る舞いを取り戻そうとした。


「湊くん……! 生きてたんだね。ずっと心配してたんだよ? 急にいなくなっちゃうし、連絡も繋がらないし……」

「心配?」


遥輝は鼻で笑った。嘲笑だ。


「俺を犯罪者扱いして切り捨てたお前が、俺を心配していた? 随分と都合の良い記憶改変だな」

「そ、それは……だって、あの時は証拠があったし……湊くんが悪いことしたんだから、仕方ないじゃない」


沙織は口元を引き結んだ。

そうだ、悪いのは遥輝だ。彼が美優の体操服を盗んだり、部費を横領したりしたから、みんな不幸になったのだ。

彼がちゃんと反省してくれれば、また昔のように仲良くできるかもしれない。そう思っていた。


「私、ずっと待ってたの。湊くんがちゃんと罪を償って、戻ってきてくれるのを。……ねえ、湊くん。今からでも遅くないよ。先生やみんなに謝ろう? 私も一緒にお願いしてあげるから」


沙織は一歩近づき、遥輝の手を取ろうとした。


「蓮くんも、湊くんが反省してるなら許してあげるって言ってたよ。彼は優しいから……」


パシッ。


乾いた音が響き、沙織の手が虚空を舞った。

遥輝が、沙織の手を無造作に払いのけたのだ。

その力は強く、拒絶の意思が痛いほど伝わってきた。


「……触るなと言ったはずだ」


遥輝の声が、さらに温度を下げる。


「許す? 反省? ……お前は本当に、頭の中がお花畑だな」

「な、何よ……。私がせっかく親身になって話してるのに……!」

「親身? それは『上から目線』と言うんだよ」


遥輝はポケットから、古びたタブレット端末を取り出した。

画面を操作し、沙織の目の前に突きつける。


「見ろ」

「何……?」


画面に映し出されたのは、粗い画質の監視カメラ映像だった。

場所は、一年前の教室。放課後の誰もいない時間帯だ。

沙織は目を凝らした。

画面の端から、一人の男子生徒が現れる。

彼は周囲を警戒しながら、遥輝の席へと近づいていく。そして、懐から黒いビニール袋を取り出し、遥輝の机の横にある鞄の中に、手早く押し込んだ。

その男子生徒の顔が、西日に照らされてはっきりと映し出された瞬間、沙織の呼吸が止まった。


「……え?」


整った顔立ち。流行りの髪型。

それは、湊遥輝ではなかった。

西園寺蓮だった。

蓮は鞄に袋を入れた後、誰にも見られていないことを確認し、口元を歪めてニヤリと笑った。その笑顔は、沙織がいつも見ている爽やかなものではなく、悪意に満ちた卑劣なものだった。


「これ……何……? 合成……?」

「原本データだ。タイムスタンプも改ざんされていない。警察に出せば一発で鑑定されるレベルの代物だよ」


遥輝は淡々と告げる。


「お前が信じていた『正義の告発者』は、最初から犯人だったんだよ。俺を陥れるために、自分で体操服を用意し、自分で俺の鞄に入れた。それだけの話だ」

「嘘……嘘よ……だって、蓮くんは……」

「まだ信じられないか? なら、これも聞け」


遥輝は画面を切り替え、音声ファイルを再生した。

ザザッというノイズの後に、蓮の声が聞こえてくる。


『あーあ、マジでチョロかったわー。一ノ瀬の奴』

『え? 泣いてたの? マジ? ウケるw』


それは、蓮が友人たちとカラオケかどこかで話している音声だった。

沙織の顔から血の気が引いていく。


『俺がちょっと「湊くんが怪しい」って吹き込んだだけで、コロッと信じやがってさ。幼馴染のくせに、あいつのこと何にも分かってねーの』

『「信じてたのに!」とか言って泣き出した時、笑い堪えるのに必死だったわー。あんな単純な女、今まで見たことねえよ』

『これで湊も退学だし、一ノ瀬は俺のモノだし。一石二鳥ってやつ? 俺、天才すぎw』


「……っ!」


沙織はその場に崩れ落ちそうになった。

聞きたくなかった。知りたくなかった。

あの日、優しく肩を抱いてくれた蓮。

「辛いよね、僕が支えるから」と囁いてくれた蓮。

そのすべてが、演技だった?

私を騙して、笑っていた?

そして、そのために遥輝を……無実の遥輝を、社会的に抹殺した?


「理解できたか? 一ノ瀬」


遥輝は冷酷に追い打ちをかける。


「お前が『優しい』と信じていた男は、お前を馬鹿にして、俺を嵌めたクズだ。そして、お前はそのクズの言葉を鵜呑みにして、十年来の幼馴染である俺を切り捨てた。……それが『真実』だ」


沙織はガタガタと震え出した。

吐き気が込み上げてくる。

自分が信じていた世界が、真っ黒に反転していく。

自分は被害者だと思っていた。裏切られた可哀想なヒロインだと思っていた。

でも違った。

私は、加害者だ。

蓮という悪魔に加担し、一番大切にすべき人を傷つけ、追い詰めた共犯者だ。


「あ……あぁ……」


沙織の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。


「ごめんなさい……ごめんなさい……私、知らなかったの……本当に知らなかったの……!」


彼女は地べたに手をつき、遥輝に向かって頭を下げた。

プライドも何もかもかなぐり捨てて、ただ謝罪の言葉を繰り返す。


「湊くん、ごめん……! 私、馬鹿だった……! 蓮くんに騙されて……湊くんのこと信じてあげられなくて……!」


涙で視界が歪む中、沙織は遥輝の足元に縋りつこうとした。


「許して……お願い、許して……! 私、どうしたらいいか……」

「どうもしなくていい」


遥輝は一歩下がり、沙織の手を避けた。

その瞳には、一欠片の慈悲もなかった。怒りすらなく、あるのはただの「無関心」だけ。それが、何よりも沙織を傷つけた。


「知らなかった? だから何だ? お前が俺を信じなかった事実は変わらない」


遥輝の言葉が、鋭利な刃物となって沙織の心臓を抉る。


「証拠があったから仕方ない? ふざけるな。幼馴染だろ? ずっと隣にいたんだろ? なら、どんな証拠があろうと、世界中が俺を敵に回そうと、お前だけは『湊はそんなことしない』って言ってくれるべきだったんじゃないのか?」


その通りだった。

何の反論もできない。

沙織は自分の「正義感」という名の薄情さを突きつけられ、呼吸すらままならなくなる。

潔癖で、真面目で、だからこそ「悪」とされた遥輝を即座に切り捨てた。

疑うことの苦しみから逃げて、蓮という安易な救いに飛びついた。

その代償が、これだ。


「お前のその薄っぺらい正義感と、人を見る目の無さが、俺の人生を壊したんだ。蓮だけじゃない。お前もだ、沙織」


遥輝は初めて、昔のように名前を呼んだ。

けれど、その響きは呪いのように冷たかった。


「私……私……償うから……! 何でもするから……! だから、見捨てないで……!」


沙織は泣き叫んだ。

失いたくない。

健太も美優もいなくなり、蓮が最悪の裏切り者だと知った今、沙織に残されたのは遥輝だけなのだ。

彼に拒絶されたら、私は一人ぼっちになってしまう。

孤独への恐怖と、罪悪感が混ざり合い、パニック状態に陥る。


「償い? 必要ない」


遥輝はタブレットを懐にしまった。


「お前はそこで、一生後悔していればいい。自分がどれだけ愚かで、残酷なことをしたのかを噛み締めながら、孤独に震えていろ」

「湊くん……!」

「それと、蓮には伝えておけ。『次はテメェの番だ』とな」


遥輝は踵を返した。

夕日が、彼の背中を長く引き伸ばす。

その背中は、かつて一緒に帰った時の温かい背中ではない。二度と触れることのできない、遠い世界の住人の背中だった。


「待って! 行かないで! 湊くん!!」


沙織は立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、無様に転んだ。

膝を擦りむき、血が滲む。痛みなど感じないほど、心が痛かった。

手を伸ばしても、届かない。

彼は一度も振り返らなかった。


「うあぁぁぁぁぁ……!!」


屋上に、沙織の慟哭が響き渡った。

それは、遅すぎた後悔と、取り返しのつかない喪失への絶叫だった。

誰も助けには来ない。

美優もいない。健太もいない。

そして、愛していたと思っていた蓮は、彼女を嘲笑う悪魔だった。


「湊……ごめんなさい……ごめんなさい……」


誰もいないコンクリートの上で、沙織は子供のように泣きじゃくった。

涙が枯れるまで泣いても、あの日失った信頼は、二度と戻らない。

彼女の「青春」は、この瞬間、完全に終わりを告げたのだった。



踊り場を後にした遥輝は、階段を降りながら、一つ大きなため息をついた。

胸のつかえが取れたような、それでいて空っぽの穴が開いたような、奇妙な感覚だった。

沙織の泣き顔を見ても、同情心は湧かなかった。

かつてあれほど愛おしいと思っていた彼女の涙が、今はただの生理現象にしか見えない。

自分の中で、「一ノ瀬沙織」という存在が完全に死んだことを実感した。


「……さようなら、初恋」


遥輝は小さく呟き、スマホを取り出した。

画面には、次のターゲット――西園寺蓮の行動ログが表示されている。


『現在地:サイオン・ホールディングス本社ビル』

『予定:父親との会食』


感傷に浸っている暇はない。

ヒロインは舞台から退場した。

次は、ラスボスを引きずり下ろす番だ。

遥輝の瞳に、再び昏い復讐の炎が宿る。

彼は足早に校舎を出て、夕闇の迫る街へと姿を消した。

その背中には、もう迷いはなかった。

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