第三話 崩れ落ちる「友人」たち
晴翔学園の朝は、いつものように偽りの平和で満たされていた。
校門をくぐる生徒たちの話し声、部活動の朝練の掛け声、そして遠くから聞こえるチャイムの音。
一年前、俺が地獄へ突き落とされたあの場所は、何一つ変わらない顔をしてそこにあった。
だが、その平穏も今この瞬間までだ。
俺は学園の向かいにある雑居ビルの屋上、その貯水タンクの陰に身を潜め、望遠レンズ越しに教室の窓を覗いていた。手元にはノートパソコンが一台。画面には、複雑なコマンドラインと、複数のチャットウィンドウが表示されている。
「さて、ショータイムの始まりだ」
俺は冷ややかに呟き、エンターキーを叩いた。
カチッ、という乾いた音が、崩壊の合図となった。
時刻は午前八時二十分。ホームルームが始まる直前。
教室の中では、ターゲットたちが優雅な朝を迎えていた。
かつての親友、バスケ部主将の健太。
彼は机の上に足を投げ出し、取り巻きたちに囲まれて大声で笑っている。
「あー、マジでダルいわ。推薦決まったからって、顧問が調子乗ってんだよな」
「さすが健太! 推薦とか余裕っしょ」
「ま、西園寺のおかげもあるけどな。あいつの親父さんが大学の理事と知り合いらしくてさ」
健太は得意げに鼻を鳴らした。その表情には、自分の実力で勝ち取ったものではないという負い目など微塵もない。あるのは、権力に寄生して得た地位への慢心だけだ。
そして、その少し離れた席には、美優がいる。
彼女は手鏡を見ながら前髪を直し、隣に座る沙織に話しかけていた。
「ねー沙織、今日の放課後スタバ行かない? 新作出たんだって」
「うん、いいよ。でも私、今日は委員会があるから少し遅れるかも」
「えー、また? 真面目だねー。西園寺くん待たせちゃ悪いんじゃない?」
「蓮くんは部活があるから大丈夫だよ」
沙織は困ったように笑っている。美優の言葉の端々に含まれる棘に気づいていないようだ。
ああ、実に美しい友情だ。ヘドが出る。
俺はパソコンの画面を切り替えた。
『送信完了』の文字が表示される。
最初の爆弾は、Twotterに投下された。
学園の裏掲示板、そして「晴翔学園」のハッシュタグがついたトレンドに、ある音声データと動画が一斉に拡散されたのだ。
アカウント名は『断罪者』。
投稿内容はシンプルだ。
『バスケ部主将・健太のスポーツ推薦の裏側。実力ではなく、親のコネと裏金、そして後輩へのパワハラで手に入れた栄光』
教室の中で、誰かのスマホが鳴った。
最初は一人、次に二人。通知音はさざ波のように広がり、やがて教室全体をざわめきが包み込む。
「おい、これ見ろよ……」
「嘘だろ? 健太が?」
「え、何これ、音声入ってるじゃん」
生徒たちがスマホを操作し、動画を再生する。静まり返った教室のあちこちから、健太の不快な笑い声が漏れ出した。
『いやー、マジでチョロいわ。あの顧問、西園寺の親父からの寄付金ちらつかせたら、すぐに俺をレギュラーにしたぜ』
『前の主将? ああ、湊のこと? あいつ邪魔だったからさ、ちょっと悪い噂流して追い出したんだよ。西園寺が全部やってくれたけどな』
『実力? バスケなんて適当にやってりゃいいんだよ。大学さえ行ければこっちのもんだ』
その音声は、あまりにも鮮明だった。
俺がハッキングした健太のスマホのマイクが拾った、彼自身の声だ。
教室の空気が凍りついた。
全員の視線が、一点に集中する。
机に足を乗せていた健太は、スマホを握りしめたまま硬直していた。顔からは血の気が引き、土色に変色している。
「な……なんだよこれ……」
震える声で呟く健太。
だが、攻撃はこれだけではない。
同時に公開された動画には、健太が部室で一年生部員を殴り、自分の課題をやらせている映像が映っていた。これは部室に仕掛けられていた防犯カメラの映像――本来なら顧問しか見られないはずのデータを、俺が抜き取ったものだ。
「健太、お前……これマジなのかよ」
取り巻きの一人が、恐る恐る尋ねる。
「ち、違う! 俺の声じゃない! 今のAIはすげーから、誰かが作ったんだよ!」
健太は必死に叫び、立ち上がった。
「誰だ! 誰がこんな悪質なイタズラをしたんだ!」
彼は教室中を睨みつけるが、誰も目を合わせようとしない。軽蔑、困惑、そして怒り。一分前まで彼に向けられていた羨望の眼差しは、汚物を見る目へと変わっていた。
そこへ、バン! と教室のドアが開いた。
入ってきたのは、血相を変えた担任の佐々木と、生活指導の教師たちだ。
「健太! ちょっと来い!」
佐々木の怒鳴り声が響く。
「せ、先生! 違うんです、これは捏造で……!」
「言い訳は職員室で聞く! 教育委員会から問い合わせが来てるんだぞ! ツイートが拡散されすぎて、学校の電話がパンクしそうだ!」
佐々木は健太の腕を乱暴に掴み、引きずっていく。
「離せよ! 俺は主将だぞ! 大学の推薦だって決まってるんだ!」
「その推薦が取り消されるかもしれないって話だ! さっさと歩け!」
健太の悲鳴のような叫び声が廊下に遠ざかっていく。
教室に残された生徒たちは、呆然と顔を見合わせた。
「うわ……マジだったんだ」
「最低じゃん」
「てか、湊先輩を追い出したって言ってたよね?」
「冤罪だったってこと?」
ざわざわと囁き声が広がる。
その混乱の中で、俺は次のターゲットに狙いを定めた。
美優だ。
彼女は青ざめた顔でスマホを見つめていたが、どこか他人事のような表情も浮かべていた。
「健太くん、バッカじゃないの。脇が甘すぎ」
小声でそう呟くのを、俺の盗聴アプリは逃さなかった。
彼女はまだ気づいていない。
対岸の火事だと思っているその炎が、既に自分の足元まで燃え広がっていることに。
「次は、お前だ」
俺は二つ目のエンターキーを叩いた。
ターゲットは、クラス全員が入っているMINEのグループチャット、そして全校生徒が参加している連絡網グループ。
一斉送信されたのは、膨大な数のスクリーンショットと、数枚の写真だった。
ピロン、ピロン、ピロン、ピロン、ピロン――。
教室中のスマホが、狂ったように鳴り始めた。
まるで警報音だ。不気味なほどの連動音が、静寂を切り裂く。
生徒たちが一斉に画面を見る。
『送信者:Unknown』
『件名:清純派女子・美優の裏の顔』
最初に表示されたのは、夜の繁華街で中年男性と腕を組み、ラブホテルに入っていく美優の写真だった。顔にはモザイクすらかかっていない。鮮明な高画質だ。
制服ではなく、派手なブランドもののワンピースを着て、媚びるような笑顔を浮かべている。
「え……?」
誰かが息を呑んだ。
続いて表示されたのは、美優の裏アカウントのタイムラインと、彼女が別の友人と交わしていたDMのスクリーンショットだ。
『今日もパパとデート。お小遣い五万ゲットw チョロすぎ』
『てか、学校の連中マジでガキくさい。貧乏人は相手にしてらんないわ』
『西園寺くん狙ってたけど、あいつ意外とケチなんだよねー。顔だけの男』
そして、極めつけは、親友であるはずの沙織に対する罵詈雑言の数々だった。
『沙織の聖女ぶった態度、マジで吐き気する』
『あの子、自分が一番可愛いと思ってるからw 天然キャラ作ってるけど、中身空っぽじゃん』
『西園寺くんと付き合って幸せアピールうざい。早く捨てられればいいのに』
『湊を犯人扱いして追い出した時の沙織の泣き顔、マジで笑えたw あいつ本当に単純で馬鹿だよね』
教室の空気が、凍りつくのを通り越して、真空状態になったかのように重くなった。
全員の視線が、美優に突き刺さる。
美優はスマホを持ったまま、ガタガタと震えていた。
「な、なにこれ……」
彼女は顔を上げ、引きつった笑みを浮かべて周囲を見回した。
「ち、違うよ? これ、私のアカウントじゃないし……誰かが勝手に……」
だが、その弁明はあまりにも苦しい。写真の服は、先日彼女がインスタで「買っちゃった♡」と自慢していたものと同じだ。
「……美優ちゃん?」
震える声がした。
沙織だ。
彼女は真っ白な顔で、美優を見つめていた。瞳には涙が溢れそうになっている。
「これ……本当なの? 私のこと、そんな風に思ってたの?」
「ち、違うの! 沙織、信じて! これは嘘! 誰かが私を陥れようとして……!」
美優は沙織にすがりつこうとするが、沙織は後ずさりしてそれを避けた。
「嘘じゃないよね……。この書き込みの日付、私たちが遊んだ日だし……内容も、私しか知らない話が書いてある……」
沙織は馬鹿ではない。ただ、人を疑うことを知らなかっただけだ。だが、突きつけられた証拠は、疑う余地を与えないほど残酷で、具体的だった。
「触らないで!!」
沙織の悲痛な叫びが響いた。
美優の手が空を切る。
その時、教室の入り口に人影が現れた。
騒ぎを聞きつけて戻ってきた西園寺蓮だ。彼は不機嫌そうに眉をひそめていたが、クラスメイトのスマホ画面を覗き込み、表情を一変させた。
「……美優、お前」
蓮の声は、氷点下のように冷たかった。
彼が見ているのは、美優が自分を「顔だけの男」「ケチ」と評していた部分だ。プライドの高い蓮にとって、それは何よりも許しがたい侮辱だった。
「西園寺くん! 違うの、これは……!」
「黙れよ、中古」
蓮は短く吐き捨てた。その瞳には、かつて美優に向けていた愛想の良い光など微塵もない。ゴミを見る目だ。
「俺の周りをチョロチョロしやがって。汚らわしい」
「そ、そんな……」
美優はその場に崩れ落ちた。
クラスメイトたちのひそひそ話が、奔流となって彼女に襲いかかる。
「パパ活ってマジ?」
「沙織ちゃんの悪口とか、性格悪すぎ」
「裏であんなこと言ってたんだ……こわっ」
「湊くんの時も、こいつが一番騒いでたよな? まさか、あれも……」
疑念の種は蒔かれた。
生徒たちは気づき始めている。一年前の事件も、彼らが仕組んだものだったのではないかと。
その時、廊下からドタドタという足音が聞こえ、職員室から脱走してきた健太が教室に飛び込んできた。
「おい! 誰だよ! 俺の動画流したのは!」
髪を振り乱し、目は血走っている。
そして、床に座り込んで泣いている美優と、彼女のスマホ画面を見て、何かに気づいたように目を見開いた。
「……お前か?」
健太が低い声で唸る。
「は?」美優が顔を上げる。
「お前だろ! 俺の不正を知ってんのは、西園寺とお前くらいだ! 西園寺がやるわけねーし、お前が俺を売ったんだろ!」
健太の理論は破綻していたが、極限状態の彼にはそれが真実に見えたのだろう。
「ふざけんな! 私だって被害者よ! あんたこそ、私の裏アカ晒したんでしょ!?」
美優も叫び返す。
「はあ!? 俺がそんなことするわけねーだろ! 自分のことで精一杯なんだよ!」
「嘘つき! いつも私のこと馬鹿にしてたじゃない!『パパ活女』って陰口言ってたの知ってんのよ!」
「言ってたけど晒してはねーよ! でも今分かったわ、やっぱお前クズだわ!」
「あんたに言われたくない! 親のコネで威張ってるだけの無能のくせに!」
二人は互いに掴みかかり、罵り合いを始めた。
「死ねよ!」
「お前が死ね!」
かつて「親友」や「仲間」と呼び合っていた二人が、醜く歪んだ顔で互いの秘密を暴露し合い、傷つけ合う。
机が倒れ、教科書が散乱する。
クラスメイトたちはドン引きし、遠巻きにその光景を眺めていた。
沙織は耳を塞ぎ、うずくまって泣いている。
蓮は舌打ちをし、関わりたくないとばかりに教室を出て行こうとした。
そのカオスを、俺はモニター越しに特等席で眺めていた。
最高だ。
これこそが、俺が見たかった景色だ。
偽りの友情、薄っぺらな絆。そんなものは少し揺さぶればすぐに崩壊する。
彼らが築き上げてきたスクールカーストという名の城は、今、音を立てて崩れ去った。
「さて……」
俺は冷めたコーヒーを一口啜った。
健太はスポーツ推薦取り消し、そして停学か退学処分は免れないだろう。部内でのいじめも公になった以上、彼が再びボールを触ることはできない。
美優も終わりだ。パパ活の事実は学校中に知れ渡り、親も呼び出される。何より、沙織という「盾」を失い、蓮からも見捨てられた彼女に、この学園での居場所はない。
社会的抹殺。
それが、彼らが俺にしたことへの、等価交換だ。
だが、まだ終わらない。
これはあくまで前座。外堀を埋めたに過ぎない。
本丸は、あの教室から逃げ出した男、西園寺蓮。
そして、教室の中心で被害者面をして泣いている女、一ノ瀬沙織。
俺はモニターに映る沙織の泣き顔を拡大した。
「泣くなよ、沙織」
俺は画面に指を這わせる。
「お前が泣くのはまだ早い。本当の地獄は、これからだ」
俺はパソコンを閉じ、立ち上がった。
屋上の風が、少しだけ強く吹いた気がした。
次は、直接会いに行こう。
亡霊が実体を持って、彼らの前に現れる時が来たのだ。
友人たちの屍を越えて、俺はついに、かつての恋人と対峙する。
ポケットの中でスマホが震えた。
蓮のGPS情報が移動を開始したという通知だ。
逃しはしない。
俺はフードを深く被り直し、階段を降りていった。
足取りは軽く、心は冷たく静まり返っていた。復讐者の凱旋パレードは、まだ始まったばかりだ。
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