第2話 吾輩、肉屋のおっちゃんに疑われる

 ケンジにバチクソ怒られた。吾輩はしっぽを下げて、反省したフリをして家路につくと、すぐさまテレビをつけた。


 ニュース番組で強盗事件の情報を集める。

 強盗事件が起きたのは四月十二日。今から二週間前だ。


 深夜、帰宅途中の二〇代女性が川沿いのマンション付近で、現金二万円が入ったバッグを奪われ、頭部を強打。全治三週間のケガを負った。


 犯人は黒っぽいパーカーにマスク姿。バッグを奪うと走って逃げたという。

 吾輩はテレビの前で固まった。


 黒いパーカーにマスクって、ケンジが散歩に行くときの姿だ。しかも吾輩たちの散歩コースは、川沿いのマンションがメインだ。朝晩の二回、歩いている。犯人はケンジ?


 鼻先を舐めて、思考の匂いを集める。


 吾輩とケンジと初めて会ったのは、強盗事件があった翌日。吾輩と前の主、京子さんと最後にあったのは、強盗事件が起きた日だ。


 もしかして被害者女性は、京子さんなんじゃないか。


 犯人のケンジは奪ったバッグから免許証を出して京子さんの住所を特定、鍵も使って川沿いのマンションに侵入した。そして、吾輩も奪った?


 いや、そんなはずは……でも、繋がってしまう。


 洗面所の戸が閉まった。奥でシャワーの音がする。ケンジが汗を流している間、吾輩はそろりと寝室へ足を踏み入れた。部屋のどこかに――答えの香りが落ちているかもしれない。


 クローゼットに並んだスーツと黒いパーカー。


 吾輩は鼻を近づけた。洗濯済みらしく、柔軟剤の匂いが鼻の奥まで入ってくる。匂いをかぎ分け、探ると吾輩が知っている匂いがあった。

 

 こっちにも。黒いパーカーの下に置いてあった紙袋から、優しい香りがする。

 京子さんだ。吾輩を抱きしめてくれたときに、鼻先をくすぐった良い匂い。耳の後ろを撫でてくれた優しい手の匂いが入っている。


 紙袋の中には畳んだ下着とベージュ色のシュシュ、それとタオルが何組か入っていた。

 

 これ、どういうこと?

 

 吾輩は匂いの残像の中に揺れながら、考え込んだ。

 盗んだのか? それとも……。


 ケンジの黒いパーカー姿が、テレビで見た犯人像と重なって見えた。


 

 翌朝の空は曇っていた。

 光がぼんやり差し込むリビングで、吾輩はケンジが用意したカリカリをもぐもぐしながら考える。

 

 昨日、ケンジがシャワーを浴びているとき家中を嗅いで探し回ったが、京子さんのバッグはなかった。ケンジの財布も嗅いで確認したが、京子さんの匂いがついた二万円もなかった。

 

 強盗犯に結びつく物的証拠はナシ。それもそうか。もしケンジが強盗なら、犯人逮捕に繋がる物的証拠は、早々と投棄したいはずだ。バッグはすぐ捨てる。奪った二万円はバレないように使うか両替して、証拠隠滅を計るだろう。

 

 ケンジの家には証拠がない。じゃあ、ケンジは犯人じゃない、と安心したい。

 

 ケンジと一緒に暮らした二週間。ごはんは忘れずもらい、散歩は一日に二回も連れて行ってくれた。


 体を洗ってくれたときにはタオルで拭いて、世話を焼いてくれた。世間では、こういうのを良い主というのだろう。

 

 ケンジは悪いヤツではない。いや、肉をくれなくなったから、ちょっと悪いヤツだ。


 ケンジに初めて会ったとき、優しい匂いがした。だから、吾輩は噛みついたり抵抗せずに、連れ出されたんだ。

 

 でも、もし京子さんの家から吾輩を奪ったのなら、吾輩のこの気持ちは、どうなるんだ?

 

 ケンジは洗面所の鏡を見つつ、鼻歌を歌いながら間抜けな顔をして歯を磨いている。呑気なやつめぇ。吾輩が悩んでおるのにっ。


 やはり真犯人を見つけるまで、吾輩は気を抜けない。あっ。

 

 皿のカリカリがもうなくなった。吾輩の腹が寂しく鳴った。くそう、でもどうやって犯人に繋がる推理をすればいいのだ。


「ササミ。散歩に行こう」

 

 吾輩はハッとした。


 現場だ。犯行現場には、まだ推理の匂いが残っているはず。散歩をしつつ、証拠の匂いを集めることができる。


 吾輩はケンジにリードをつけてもらい、玄関を出た。



 散歩コースはいつも通り。


 我が家を出て住宅地を通り、川沿いにあるマンションに向かって歩いていく。

 

 吾輩は鼻先を低くして、出来る限り匂いを集める。


 歩道の街路樹、冷たいアスファルト、自動販売機。散歩コースのあらゆる物に鼻を近づける。過去の記憶の香りが立ちのぼった。

 

 吾輩、犬にとって匂いは視覚や聴覚に匹敵する、いや、それ以上に重要な情報源だ。「いつ、どんな人や犬がここを通ったのか」や「ここでどんな出来事があったのか」といった、人間たちには知りえない詳細な情報を読み取ることができる。

 

 住宅地には、ここで暮らしている人の匂いが帯状になって残っていた。特に部外者らしいモノはない。荷物を運ぶ配送業者くらいか。初めて嗅ぐ匂いはほとんどない。

 

 商店街が近いからか、お肉や野菜、コロッケとか揚げ物のお惣菜の匂いも残っていた。お肉屋で会ったおばちゃん達の匂いもある。強盗のストレスかな、汗の香りに不安が乗っていた。

 

 川沿いの風が、吾輩の鼻先をくすぐった。じめじめとした湿気と共に流れてきた臭いは、重くどんよりとしている。イヤな臭いだ。事件現場が近い。鼻が自然と反応した。


 川沿いのマンションから三〇メートルほど離れた歩道で、吾輩は歩みを止めた。歩道に鼻先がくっつくほど近づける。


 住民たちの靴底と何十台もの自転車のタイヤ。その中に、小さく消えそうな血と化粧品が塗られた女性の肌の香りが残っていた。

 

 ここだ。

 ここが事件現場だ。


 被害者は強盗に襲われてケガをした。歩道に残っていた匂いは、地面に倒れたときに付いたんだろう。


 背後から襲撃された被害者は、前のめりに倒れて、額と顔を歩道に打ち付けたんだ。バッグはその衝撃で手から離れ、強盗に奪われた。緊張と恐怖がありありと想像できた。

 

 それと化粧品が乗った柔らかいコットンの残り香に、石鹸やシャンプーの清涼感。ケンジのクローゼットにあったシュシュと同じだ。

 

 この懐かしい匂い、京子さんだ。野良犬だった吾輩を拾ってくれた、たまに分厚いステーキをくれたあの人の匂いだ。

 

 やはり被害者は京子さんだった。くそう、犯人のヤツめ。


 ここが事件現場と地元の人は知っているのか、人が通った匂いがあまりしない。朝はここを通っている住民はいるみたいだが、夜はピタッといなくなっている。歩道を照らす街灯はないし、防犯カメラもない。

 

 きっと迂回しているのだろう。通っているのは川沿いのマンションに住んでいる住民か、呑気に散歩しているケンジくらいだ。


 ケンジはガードレール越しに川の中を覗いたり、近くの雑草を手で掻き分けて見ていた。明らかに挙動不審だ。大丈夫かコイツ。


「ん~。ここでもないのかなぁ」


 ボソッと呟いている。なにかを探しているのか? そういえばケンジは、なんでこの散歩ルートが好きなんだろう。もしケンジが強盗犯なら、逮捕される危険がある犯行現場には近づきたくないはずだ。ん?


 揚げ物の油の匂いが風で流れてきた。お惣菜かな、それと肉も。一種類じゃない。豚、牛、鶏、それぞれの脂と赤身の香りが混ざっている。


 吾輩は匂いの方向へ顔を向けた。


 川沿いのマンションに続く歩道から、肉屋のおっちゃんが歩いてきた。エプロン姿だ。仕入れの帰りらしい。両手にはぱんぱんに膨らんだ買い物袋をぶら下げていた。

 おっちゃんがこちらに気づいた。立ち止まり、ケンジと吾輩のことをジロジロ見ている。もしかして、疑われている?


「こんにちは。昨日はどうも」

「えっ、あっ。こ、こんにちは」


 おっちゃんに話しかけられ、ケンジは緊張していた。汗の臭いがする。


「その子、キミが飼ってるの?」

「い、いえ違います。今、預かってるだけです」

「ふーん。そう。預かっている、ねぇ」


 おっちゃんの視線が吾輩に刺さる。

 いや違うのだ。吾輩は強盗の仲間ではない。どうにかしないと。愛嬌を振りまいて弁解だ。


 吾輩は尻尾を振り、おっちゃんに抱きつこうと前に出る。おっちゃんのエプロンと服にある肉と油と汗の匂いの中に、京子さんのシャンプーと石けんが僅かに混ざっていた。なんで? 


「おい。やめろ。やめてくれ」


 おっちゃんが腕を払い、吾輩が近づくのを拒否する。嫌悪や憎悪の臭いがした。そ、そんなぁ。


「こら。ササミ。ダメだよ離れなさい」


 ケンジが吾輩のリードを引っ張る。あ、ちょっと待って。まだ匂いが、捜査の香りが。


 すみませんでした、とケンジはおっちゃんに謝り、吾輩を引きずって事件現場を後にした。

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