名犬タロとふたりの主

ああたはじめ

第1話 吾輩、肉を喰らい肉を失う

 吾輩は犬だ。名前はタロ。今の主(あるじ)はササミと呼んでいる。


「ササミ。ごはんだよ」


 主はあくびをしながら吾輩の前に皿を置いた。乗っているのは大盛りのカリカリだ。


「お手」


 主が手を差し出す。こんな朝食で吾輩に、忠誠を誓う前足を、主の手に乗せろと言うのか。


 吾輩はカリカリが嫌いだ。パサパサしていて、口の中の水分をごっそり持っていかれる。


「ササミ。お手。お手ったら、お手」


 催促する主に、そっぽを向いて反抗を示した。主はため息をついて台所へ行き、冷蔵庫の扉を開けた。


 主が台所に立って数分。食欲をそそる香りが吾輩の鼻をくすぐった。これは見なくてもわかる。牛肉だ。


 主が吾輩の前に皿を置く。ビンゴだ。艶やかな霜降り和牛が、ほかほかの湯気を立てていた。そう、これこれ。吾輩が求めているのはこれだ。


「ササミ、お――」


 主が言い終わる前に、差し出された手に前足を置く。主はやれやれといった感じで「よし」と言った。かぶり付く。


 うまい。こーいうのだよ、こーいうの。


 主の笑顔がこぼれる。まぁ、吾輩にここまでして朝食を食べてほしいのなら、こっちのカリカリも残さず腹に入れようか。うん。もったいないしな。


 主はテレビをつけてコーヒーを淹れに行った。強盗事件のニュースが流れる。

『犯人はまだ捕まっておらず、現金二万円が入ったバッグが盗まれました。被害にあった女性は――』


 物騒な話だ。吾輩の散歩コースも不安が混じった汗の臭いがするもんなぁ。でも、テレビ画面からは臭いは届かない。それにさ、大切なお食事中に見る物は、これじゃないんだよなぁ。


 吾輩は机にある卓上鏡を横にずらして、テレビのリモコンを手元に寄せた。前足でボタンを押して、番組をパパパッと変える。


『筋肉と肉汁のハイブリッド、ジューシー・肉山(にくやま)ですッ!』


 吾輩の大好きなジューシー肉山が出た。お肉評論家を自称するピン芸人で、なんでもお肉と筋トレでコメントするのが楽しい。最近はニュースとか食レポでも、見かけるようになった。


 視聴者のお悩みを訊く「ジューシー人生相談、焼き加減、ちょうどいい?」が始まった。


 司会者がジューシー肉山に話を振る。


『今年受験の娘が全然勉強しません。スマホをいじっていたり、鏡を見ていたり……。どうすればやる気が出るのでしょうか?』


 ジューシー・肉山は腕を組んで、神妙な顔でうなずいた。


『なるほど。これは、年頃の娘の勉強机に置いてある(鏡)の罠ですね。えぇ、僕も昔ひっかかりました。鏡ってね、人を“自分の部位”に意識を向けさせる装置なんですよ』


 ジューシー肉山の眉が上下に動く。


『例えばこう、勉強しようとしてもね、つい鏡を見ちゃったら「あれ、今日のワタシ、ほほのお肉太くない?」ってなっちゃうんです。

 だから僕の提案はシンプルです。まずはダイエット。朝の夜の二回だけ筋トレ。できれば腹筋を重点的に鍛える“ジューシースタイル”をやってもらいたい。そうすると体も心も満たされてジューシー!』

 

 ぶふふ。受験の相談なのに、ダイエットの話になってる。さすがジューシー理論。的外れな意見が最高だ。む?


 卓上鏡に映る吾輩の顔の背後に、主がいた。じぃ~っと見られてる。え。なになに? 


 主が声を上げて腕をぷるぷる震わせながら、吾輩を持ち上げた。四角い板に乗せられる。


 ピッ、と表示された数字。主から、和牛の香りが消えた気がした。



「ササミ。ごはんだよ」


 主はカリカリがちょこっと乗った皿を吾輩の前に置くと、すぐにテレビをつけて朝ごはんを食べ始めた。いつものお手を催促されない。吾輩がそっぽを向いても、抗議の視線を向けても、反応してくれない。あお向けになって可愛く腹を見せても、だ。


 吾輩は太りすぎたらしい。ダイエットが始まってから、主は肉を出さなくなった。今村健二めぇ。あ、つい主の名を呼び捨てにしてしまった。もういい。ケンジでいいや、ケンジで。


 前の主、京子さんの方が優しかった。野良犬だった吾輩を拾い、育ててくれた。お肉は食べさせてくれた。タロ、タロと吾輩の名前を呼んで、いっぱい撫でてくれた。二週間前から吾輩の前からいなくなってしまったが、今はどこにいるのだろう。


 腹の虫が鳴る。諦めてジューシー肉山のテレビを見ながらカリカリを食べた。口の中の水分が取られる。あぁ、すぐなくなった。最後の一粒は、呑み込まずに舌の上で転がした。


『強盗事件です』

『逃走した犯人を目撃した者はおらず』

『被害女性は――』


 ケンジはテレビを消すと、マスクをして出かける準備を始めた。スーツはハンガーに掛けたまま。散歩のときに着る黒いパーカーを手に取った。

 はぁ。今から散歩って。腹が減って動きたくないのに。



 ケンジが連れて行ってくれるお散歩のルートは、いつも同じだ。我が家を出て住宅地を通り、以前吾輩が住んでいたマンションの周囲を歩く。


 ケンジは川沿いにあるこのマンションが好きらしい。気が済むまでぐるぐる回り、それが終わったら大きい病院へ寄る。


 ケンジが病院に行っている間、吾輩は木に繋がれて待つことになるのだが、この時間が辛抱たまらない。近くにある商店街から、うまそうな匂いが流れてくるからだ。この香りはたこ焼き屋さんだ、お肉屋さんもある。目を閉じて想像する。

 

 たこ焼き屋さんの鉄板でじゅわわわと音を立てるソース、お肉屋さんでパチパチパチって揚がるコロッケ。吾輩の腹がぎゅうぎゅう鳴った。あぁ、よだれが出てきた。我慢できない。

 

 首輪に首輪についた紐を引っ張って、木から脱出する。今は主を待つより、食い物の方が優先である。

 

 商店街へ走り、お肉屋さんの前で座った。ちょうど、店の奥で揚げていたであろうホカホカのコロッケが、ショーケースに並ぶところだった。

 

 おっちゃん。おひとつくださいな。吾輩の可愛いところをアピールして、ちょこっと恵んでもらう作戦をした。


 尻尾をフリフリ。笑顔はニッコリ。ほら、可愛いでしょう。頭を撫でたくなったでしょう。触ってもいいんですよ。


 貰える自信はあった。前の主の京子さんと散歩がてらにお肉を買いに来たときは、いつもサービスでいろんな物を食べさせてもらっていたのだ。吾輩もサービスで地面に転がり、腹を見せたものだ。


 散歩中の野良猫に言われたことがある。あんたにゃ柴犬のプライドがないのか、と。そんなものは、母の腹にいるときに置いてきた。今は腹を満たすことが優先だ。


 吾輩が必死に頼んでおるのに、おっちゃんは目もくれなかった。それより、買い物かごを腕に下げたおばさま達との会話に夢中だ。


「強盗、まだ捕まってないわね」

「犯行現場ってこの町内らしいじゃない。ほら、あそこの川沿いのマンションの近く」

「恐いわぁ。襲われたらどうしよう」


 強盗。テレビでもやっていたやつだ。まったく、勘弁してほしいものである。吾輩よりも、強盗の方が話題にされるなんて迷惑な話だ……いや、まてよ。


 強盗がこの町からいなくなれば、吾輩に注目してくれるのではないか。そしたらおやつをくれる優しいお方が、じゃんじゃん増えるかもしれない。

 よし。吾輩が犯人を見つけるぞ。そうすれば、この空腹からおさらばできる。


「こら。ササミッ」


 名を呼ばれてビクッとした。顔を向けると、ケンジが腕を組んで立っていた。

 マズい。脱走したの、バレた。


「へいらっしゃい。ささみは何gご用意致しましょうか」


 おっちゃんがショーケースの戸を開けた。ケンジは、顔と両手をブンブン振った。


「いや、あの。ササミはこの子の……失礼しました」


 ケンジは吾輩の首輪の紐を引っ張って、この場をしゃっと退散した。おっちゃんとおばさま達は、主を不審者を見るような目を向けていた。



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