第二話:空白

「綿衣子……今からでも遅くない、キヌを病院に連れて行け」

「うるせぇよ! キヌを追い出した分際で、いちいちコッチの事情に首突っ込んでくんじゃねぇ!!」


 穏やかな助言をしてくれた相手に対して、怒号で返答する綿衣子。

 その相手は綿衣子達の友人の一人で、インディーズ・バンドのリーダーとして活躍している、高野レイ(こうの れい)という女性でした。

 彼女も綿衣子達と同じ三十一歳。身長は綿衣子とキヌの中間である163cm、ポニーテールの活発そうに見える容姿で、その容姿に負けないほど情熱的に活動しています。


    *


 キヌを自分の部屋に招き入れてから、約二ヶ月が経過した八月の終わり頃。

 綿衣子の体調は、実はとんでもない勢いで悪化していました。


 アルコール摂取量は確実に増加しており、飲酒後に寝落ちして記憶がなくなっていること(や、他人にはとても話せない恥ずかしいトラブル)が頻繁に起きています。平日の仕事は残業が一切ないデスクワークであるため何とか体裁を保ててはいるものの、思考業務に悪影響はない……と言い切れる自信はまったくありません。

 しかしキヌとの毎日の飲食を何より楽しみにしている綿衣子には、その生活を改善する気はさらさらありませんでした。


 そんなある日。グループチャットではなく電話で「二人だけで会いたい」とレイから直接連絡が入り、こぢんまりとした個室のある和風レストランまでノコノコ出掛けていった綿衣子に対して……。


「綿衣子……お前、かなり顔色が悪くなってるな。キヌの飲酒のペース、相当上がっているんじゃないか?」


 と図星を指されてしまったのです。


「何でキヌの酒のこと、レイに分かんだよ。キヌは大学ん頃から、結構飲んでる方じゃねぇか」

「よく分かるさ。キヌは最近まで俺と、杏子(あんず)の三人で一緒に住んでたんだよ」

「何だって!?」


 杏子(あんず)のことについては、ここでは詳細に紹介しません。

 彼女とレイ、綿衣子とキヌ、そして奈々子の合計五人が大学時代から親しい……もとい、親しかったグループのメンバー全員となります。


 そんなことよりも……『キヌがレイ&杏子と一緒に住んでいた』というのは、綿衣子にとっては初耳でした。まあキヌの身の上について詳しく聞かないと決めたのは、綿衣子自身なのですが。


「今から三年くらい前だったかな。アパートの建て替えでキヌが部屋を追い出されて、『新しい部屋が合わなかった』とボヤいていたから、俺と杏子が部屋に招き入れて、ルームシェアしてたんだ」

「結構長くルームシェアしてたんだな。……ってか、キヌが転がり込むなら、奈々子んトコじゃねぇのか?」

「最初に奈々子に頼もうとしたそうだが、あいつとは連絡が付かなかったらしい」

「そっか、そうだったよな」


 思えば奈々子はこの頃から、綿衣子達との付き合いが悪くなっていました。グループチャットに既読こそ付いていましたが、発言の類は一切していなかった記憶があります。

 キヌが『合わなかった』部屋というのが、前に住んでいた部屋(※ワンルーム)の近所と仮定すると……レイ&杏子のマンションが一番近く、そして綿衣子のアパートが一番遠い位置にあります。キヌがレイ達を頼る流れは、綿衣子の頭の中で何となく想像が付きました。レイの部屋は交通の便は悪いものの、3LDKと広いため三人でも快適に過ごせる(過ごせた)でしょう。


「キヌが『すぐに出て行く』と言ってたから、結果的に今までお前に伝えてない形になってしまった。すまない」

「んなこたぁ、別に怒っちゃいねぇよ。……ただ、まあ、色々と『離れちまった』よな、オレ達」

「ああ」


 最後に五人で飲みに行ったのは、もういつの頃だったろうか。五人で集まって愚痴を言い合うだけでも、十分に楽しかったのだが。


 ……いや、そうでもなかったのかもしれません。大学時代の知人の悪口(※主にキヌ)については「もう昔の話だ」と綿衣子が止めていましたし、職場などの知らない人間の愚痴(※これは主に、綿衣子と杏子)については、今度は奈々子がまったく話題に乗ってきませんでした。これまでの五人の関係は絶妙にバランスが取れていただけで、それが何らかの理由で少し崩れたことで、このような結末になってしまったのでしょう。


「その後の話だが……奈々子が姿を消してから、キヌの酒を飲む量が増えてきてな。大きなお世話だとは分かっていたが、酒の量を控えてもらえるように動いていたんだ。ノンアルを試してみたり、医者に連れて行ったりとか」

「ああ……そりゃダメだな。キヌは、そういうコソコソしたのが大っ嫌いだからな」

「分かってる。でも、様子を見ているうちに、普段の言動が怪しい感じになってきて……焦ったのかもしれない」

「『焦った』って、そんなにヤバいペースだったのか、キヌ?」

「ああ。……いや、これはどちらかというと、俺の事情になるのかな……」


 言葉を濁す感じで返答するレイ。

 彼女のほうも仕事(バンド)などの事情があるのでしょうが、まあ訊きたいのはキヌのことだけですので、この辺りについて綿衣子はスルーすることにします。


「それで……キヌを追い出したその日、杏子とキヌがケンカをしてな。キヌが杏子の顔を殴り付けたんだ」

「マジかよ!?」


 キヌも杏子も大人しい性格なので、二人がケンカをしたり、ましてやキヌが杏子に対して手を上げる光景は、綿衣子にはまったく想像することができませんでした。


「マジだ。杏子が『いよいよ飲み過ぎだ』とチューハイ缶を取り上げようとして、もめ事になったらしい」

「嘘だろ、信じられねぇ。キヌもそうだけど、杏子がそんな積極的になるなんて……」

「俺も正直、目を疑ったよ。でもさすがに暴力は見逃すことができなくて、スマホと財布だけ持たせて、キヌを部屋から叩き出した。まあ杏子の顔に傷痕は残らなかったし、杏子もキヌのことを憎んではいなかったから、戻ってきてくれれば取りあえず部屋には入れるつもりだった。結局のところ連絡は無かったし、電話も着信拒否されてたから、綿衣子の『キヌを部屋に招き入れた』ってメッセージを見るまで、杏子と二人で近所を探し回ってたよ」

「そうだったのか……」


 この件について、綿衣子は『キヌの自業自得である』と結論付けます。居候させてもらっている身分で、同居人に手を上げるというのは論外でしょう。


 しかし、その一方で……綿衣子の脳裏に、あの日のキヌの姿が思い浮かんだのでした。


「ところでよレイ、キヌを追いだした日の天気って覚えてるか?」

「その日のことは忘れたが……次の日が、季節外れの雪だったことは良く覚えてる」


 その雪が雨に変わり、そして追い出されたキヌの全身を濡らしたのです。

 美しい長髪が冷たい水に濡れて、化粧もすべて落ちてしまった、あの哀れで弱々しいキヌの姿。もし綿衣子のアパートにたどり着くことができなければ、もしかするとキヌは命を落としていたかもしれません。


 レイと杏子の事情も分かる。一方で、あのときのキヌの見ていられなかった姿もある。

 こういう葛藤した状況から発生する、腹の底から煮えたぎってくる『怒り』を着火させたい状態に陥った際、綿衣子が取る問題解決の手段は……。


「まっ、事情を教えてくれてありがとよ。キヌは今のところ、大人しいもんさっ」


 『思考の打ち切り、結論の先送り』でした。こういうとき、『一番感情的な結論に手を伸ばすと、大抵ロクな目に遭わない』というのが、綿衣子のこれまでの人生経験から得た処世術です。


「それだったら、今のお前の体調はどう説明を付けるつもりだ。キヌのことを大切に思ってるなら、せめてお前だけでも病院に……!」


 しかしレイの方は『言いたいことはその場で絶対に言う』主義であったため、残念ながら綿衣子を逃がしてはくれませんでした。

 消火させようとした綿衣子の『怒り』はついに着火して、ついに……。


「だからどうして、そこで突っ込んで来るんだ。オレにケンカ売ってんのか!?」

「そういうことじゃない。でもそれだったら、何でお前は今調子を崩しているんだ!!」

「それが大きなお世話だっ言(つ)ってんだよ!!」


 ここからキヌを病院へ連れて行け、うるさい……と口論が始まり、冒頭の展開へと続いていったのです。


    *


 口論がヒートアップしそうになる直前、料理を持ってきてくれた店員に強い口調で注意されてしまい、とりあえず綿衣子とレイは『怒り』の火を強引に鎮火する事態になってしまいました。


「……すまない。余計なお節介でケンカの原因を作るのは、いつも俺だったな」

「気にすんな、オレもおあいこだよ。……仲裁役の奈々子がいないと、いっつもこうなっちまうんだよなぁ」

「ああ……」


 奈々子の仲裁は『まあまあ』と穏便に済ませるものではなく、『どうして綿衣子達がそう思ったのか』とトコトンまで詰めていくスタイルでした。従って綿衣子もレイも怒りの矛先が一旦奈々子に向かうのですが、奈々子は全然まったく平気なもので、そうして話し合ううちにお互いの心情が理解できて、いつの間にか和解してしまうのです。


「少し、飲んでいくか?」

「いや、止めとく。体調については正直、レイの言うとおりなんだよ。図星指されてカチンときた、ってのがホントのトコさ」

「そうか……」


 レイが穏やかに回答してくれて……個室にしばらく、重い沈黙の時間ができてしまいました。

 お酒を飲まないとなると、現在のレイとは少々会話がしづらく、そんなに時間も経ってないのに『お開き』な雰囲気になってしまっています。


「料理が勿体ねぇし、食べねぇか?」

「そうだな」


 こういうときにも便利なのが、先述の『思考の打ち切り、結論の先送り』。レイも空気の悪さを察してくれたのか、目の前の料理を黙々と食べることに集中してみました。


「美味いな」

「うん。……へえ、フライドガーリックを砕いて散らしてんのか。今度マネしてみっか」

「相変わらず『料理力』が高いな」

「単なるヒマつぶしだよ。昔も今もな」


 スパイシーなドレッシングが掛かったサラダに、一切れが大きめの皮付きポテトと、生姜とニンニクの風味が効いた鶏の唐揚げ。どの料理も味付けの濃いものが多く、綿衣子は結局アルコール度が低めのハイボールを注文して(※レイも合わせてくれた)、そのうち個室の雰囲気は良い感じに戻っていきました。


「半年後に、イギリスまでレコーディングに行くんだ。準備で色々忙しくなると思うから、その前に一度お前に会って、キヌのことを話したかったんだよ」


 二杯目のハイボールと料理の皿を空にした頃合で、レイが自身の話題を振ってきてくれます。


「イギリスのレコーディングって、何かスゲぇじゃねぇか。……杏子は、どうすんだ?」

「杏子は……あの子は、実家に戻そうと思ってる」

「ああ。杏子はまあ、しゃあねぇか」


 杏子は家事一般、もとい生活能力が壊滅的であるため、レイがすべて一人で『お世話』している形となっています。レイが海外に出ている間、残された彼女が一人で生活することは、絶対に不可能でしょう。


「さっきの話に戻ってしまうが……余計な口出しをしたのは、済まないと思っている。しかし……」

「分かってるよ。オレもまだ死にたくねぇし、キヌにもやんわり言っとくわ」

「そうしてくれ」


 本当に心配そうな表情でレイが答えてくれました。

 〆のご飯類も食べ終えて、お互いに話したいことをすべて話し終えた雰囲気ですので、お開きにするには今度こそ丁度良い頃合なのかもしれません。


「そろそろ行くわ、ごっそさん。ワリカンで悪(わり)ぃが、コレで」

「良いのか、この店は割と安いみたいだが……?」

「良いよ。もし足りなかったとしても、後で取り立てるのは勘弁してくれ」

「分かった」


 財布から五千円札を一枚と、数枚の千円札を取り出して、レイに手渡す綿衣子。お品書きの価格をチラリと見る限り、レイの出費の方が少ないはずです。


「じゃあな、レイ。誘ってくれてありがとよ」

「ああ。元気でな、綿衣子」

「うん。キヌにも、折を見て色々伝えとくわ」


 レイに笑顔で手を振って、フスマを模した扉を優しく閉める綿衣子。

 きっとこれが、レイとの最後の食事になるのだろう……と、綿衣子は感傷的な気分になってしまったのでした。


    *


 帰りの電車の中で綿衣子は、三人だけ残っていたグループチャットのメンバーから静かに離れました。

 奈々子が離れて、キヌが離れて。レイは杏子と縁を切ることが確定しているので、これで大学時代のグループは完全に消滅してしまったことになります。


「これでオレに残ったのはキヌだけ……いや違うか。オレがレイから、キヌを『奪っちまった』のかもしれねぇな」


 向かいのロングシートに座る乗客に聞こえないように、独り呟く綿衣子。

 そういえば先程のお店では、アルコールはハイボール二杯だけでした。帰り道のドラッグストアでチューハイ缶を買い込んで、キヌと二人で……キヌが先に寝てしまっているなら、朝まで独りで飲み続けたいと、綿衣子はボンヤリと思ったのでした。

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