第5話

十日目の夜。

村を包む静寂は、もはや死そのものだった。

かつて笑い声が響いていた通りには、腐敗した匂いと、何かに怯えるように固まったままの”物言わぬ肉塊”だけが転がっている。


中村彩葉は、重い足取りで村外れの大きな屋敷へと向かっていた。

今夜の”狼”は、いつになく静かだった。焦ることもなく、一歩一歩、獲物のもとへ近づいていく。


その屋敷に住んでいるのは、村長だ。

あの忌まわしい十歳の誕生日、彩葉に毒のスープを飲ませた張本人。しかし、それまでの五年間、村の中で唯一、彩葉を”人間”として扱い、処刑の訴えを退け続けてくれた恩人でもあった。


「……彩葉か。待っていたよ」


縁側に座っていた村長は、逃げようともせず、月を眺めていた。

その手には、半分ほど空になった酒瓶がある。


彩葉の意識は、まだぎりぎりのところで”自分”を保っていた。

視界が赤く染まり、指先が獣の鉤爪へと作り替えられていく苦痛の中で、彼女は必死に言葉を絞り出す。


『逃げて……おじいさん、逃げてよ……。私、もう、自分を止められないの……!』


彩葉の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。

しかし、村長は静かに首を振った。


「逃げても同じことだ。この村には、もう私とお前しかいない。それに……お前にあんな毒を飲ませてまで生き延びようとした、私の臆病への罰だ。受けるべき時が来ただけだよ」


村長は立ち上がり、ゆっくりと彩葉に近づいた。

狼の殺意が膨れ上がり、彩葉の理性を食い破ろうとする。


「彩葉。お前の中の狼は、お前のせいじゃない。だが、その孤独を一人で背負わせたのは、私たちの罪だ。……せめて、最後は満腹になって眠りなさい」


村長が、震える手で彩葉の──毛に覆われ始めた──頬を優しく撫でた。


その瞬間。

彩葉の中の”狼”が、完全に意識を塗りつぶした。


『──っ!!』


鋭い牙が、自分を撫でてくれた温かい手のひらを噛み砕き、そのまま村長の喉笛へと深く突き刺さる。

村長は、苦しげな声を出すこともなく、ただ満足そうに微かな微笑を浮かべて、彩葉の腕の中へと崩れ落ちた。


ゴクリ、と喉が鳴る。

最後の一滴、最後の一人。

彩葉が一番”食べたくなかった”はずの人間を飲み込んだとき、十日間に及ぶ長い晩餐は、ついに幕を閉じた。


翌朝。

血の海と化した縁側で、彩葉は目を覚ました。

周囲を見渡しても、動くものは何もない。


『……あ、あはは。ねえ、村長。起きてよ』


彩葉は、自分の口の周りにこびりついた”恩人の味”を感じながら、いつものように冗談を言った。


『見てよ、私……全部食べちゃった。これで、もう村には『悪い狼』に襲われる人なんて、一人もいないね。……大成功だね、おじいさん』


誰も、答えない。

笑い声も、悲鳴も、怒号も。

すべてを飲み込んだ彩葉の目の前に、一匹の白い犬が、静かに姿を現した。

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