第21話 告白

「ん-、すずしー」

「そうね」


 一夜明けて東京に帰る日。私とはじめは早朝の静かな田舎道を散歩していた。野鳥の声だけが聞こえる、静かで穏やかな光景は落ち着いて散歩するにはぴったりだ。私の隣を歩くはじめも心なしか普段より大人しい。


「はじめ、こっちの方に行かない?」

「え、山に入っちゃうよ?」

「いいの。ちゃんと道になってるでしょ」

「じゃあ、登山としゃれこみますか!」


 万が一にも話を聞かれないため、山頂にはじめを誘う。小学生の私でも一人で登れる山なのでそこまで負荷はない。快く受け入れてくれたはじめを連れて、山道を登って行った。


 一時間ほど歩くと開けた場所が見えてきて、申し訳程度に整備された階段を上ると山の頂に辿り着いた。吹き抜ける風は強く、吐いた息が白く染まる。朝焼けに染まった空を見つめるはじめの横顔は、いつもと違っていた。目の前の景色ではなく、どこか遠くを見つめているような、はじめらしくない穏やかな瞳。山頂に辿り着いた達成感とは違う何かが、はじめの心を支配していた。


「はじめ、話したいことがあるの」

「……うん。いいよ」


 振り向いてもはじめの表情はさざ波のように穏やかで、いつもの太陽のように眩しいはじめとは違っていた。なにかを悟ったような彼女は、瞬きした瞬間に消えてしまいそうなほど儚い。だから、誰にも奪われないように彼女の手を取った。


「私、諦めたくない。はじめを守るために戦いたい」


 意を決して私の願いを伝える。望まぬ思いを口にされたはじめがどんな表情をするのか怖かったけれど、意外なことにはじめは穏やかな顔のまま話を聞いていた。


「はじめが私達を危険に晒したくないことは分かってる。でも、私だってはじめとずっと一緒に居たい。たとえどんなに危ない道だとしても、はじめを守れるなら、私はその道を選びたいの。だからお願い。私と一緒に戦って」


 祈るようにはじめに想いを伝える。これは全部私のわがままだ。でも、たまには私のわがままを聞いてよ。一緒に幸せになろうって、悲しいことなんていらないって言ってよ。はじめだって生きることを望んでいるはずでしょ。私のことが好きなんでしょ。だったら、この手を握り返してよ。


「ありがとう、いちか。でも、ごめんね。あたしにはできないや」


 けれど、はじめの手はいとも容易く抜けていった。はじめは悟ったような表情を崩さない。あぁ、そうか。はじめも私に何かを伝えるつもりでここに来たんだ。私の想いを受け取れないなにかを。


「あたしね、いちかに幸せになって欲しいの」


 幸せにしたいではなく、なって欲しい。自分を枠の外に置いた言葉は彼女の諦観を理解するのに十分だった。ただ次の言葉を待つことしかできないまま、彼女の温度が消えた手は行き先を失った。


「ただそれだけが心配で、だから、ここに連れてきてもらったの。いちかの家族は、友達は、どんな人なんだろうって」


 はじめがここに来て私を知りたいと言ったのは、自分のためではなく私のため。もうすぐ死ぬというのに、残されたわずかな時間を私のために使っていた。死の恐怖も、未来がない悔しさも隠して、ただ私の未来を思ってくれていた。また同じじゃないか。私の弱さのせいで我慢をさせていたあの頃と同じ。この子は大切な人のためなら真っ先に自分を犠牲にするんだ。


「楓ちゃんは頼れるお姉ちゃんで、一颯さんは優しくて温かい人で、お父さんとお母さんはいちかの幸せを願ってた。トラちゃんとすずめちゃんもきっと同じ。いちかには帰って来れる場所があって、何があっても味方でいてくれる人がたくさんいる。あたしが居なくてもいちかは絶対に幸せになれる」


 はじめは真っ直ぐ私を見てくれてるのに、手を伸ばせば触れられる距離に居るのに、ひどく遠く離れているようだった。自分が居なくても願いは叶う。これでもう十分だ。これが一番なんだ。そうやって納得しているような態度は、まだ諦められない私とはまるで反対で、認めたくなかった。


「だから、もう、いいの」


 ひどく寂しげなつくり笑顔。太陽のように眩しくて、猫のように愛らしいはじめの笑顔はもう消えてしまっていた。凍えてしまいそうなほど温度を失った彼女の笑顔。守るって決めたのに、守れないどころか、逆に守られてばっかりだ。


「そんなわけない!!」


 否定したかった。はじめを守れない非力な自分も、諦めてしまったはじめの気持ちも。けれど、自分の弱さも、私の弱さのせいで諦めてしまったはじめの決断も、すべてが正しくて、紛れもない現実だった。


「これから先、どんなにいい大学に入っても、どんなにいい仕事に就けても、どんなにたくさんお金を稼げても、はじめが居なかったら意味なんてない! 友達と笑い合って幸せだって思えても、そんなの一番の幸せじゃない!」


 もしはじめがいなくなっても、きっと私は生きていける。生きていかなきゃいけない。トラ子もすずめも、楓ちゃんも、家族のみんなも、きっと私を支えてくれる。はじめの言う通り、幸せを感じて生きていけるだろう。でも、そんな人生に意味なんてない。はじめと出会って、はじめを好きになって、私の幸せの形はすっかり変えられてしまった。私が目指す一番幸せな未来には、はじめが必要なんだ。


「はじめは私の一番なの! 誰よりも大切で、大好きで、もうはじめのいない未来なんて考えられない……おねがい、私と一緒に生きてよ……」


 絞り出すような声で必死にはじめに縋って、大粒の涙を流す。はじめの肩を掴んだ手は力加減を忘れ、震えるその手が服にくしゃりとしわを作った。手のひらからはじめの温度が伝わってくるのに、温かいと思えないし、震えも止まってくれない。安定しない視界のまま顔を上げると、はじめの指が私の目尻に触れた。


「最期に一番をくれて、ありがとう。今までもらったどんな一番よりも嬉しいや」


 はじめが私の涙を拭い、視界が晴れる。その先には、はじめの笑顔があった。今までに見たどんなはじめの笑顔よりも綺麗で、温かくて、悲しい笑顔。はじめの気持ちはもう変わらない。これが私が触れられる最後の輝きなんだ。だから、零れ落ちていく輝きを少しでも感じていたくて、はじめの温度に触れたくて、吸い込まれるように私の唇を寄せた。


「ごめんね、あたしはもういちかを幸せにできないの」


 けれど、それがはじめの唇に触れることはなかった。はじめは私の唇にそっと指を添え、欲望にあてられた私の凶行を止める。寂しそうに、口惜しそうに、けれど確かな意思を持った彼女の瞳は、誠実に私を見つめていた。


─キスっていうのは相手を幸せにしますって誓うためのものなの。


 温泉旅行の時に私はそう言った。それは私の中の確かな価値観だけれど、日常の中のなんてことない言葉だ。そんなことすらはじめはしっかり覚えていて、胸の中で大切に抱えてくれている。それなのに私は自分の言葉を裏切ってしまった。弱くて醜い自分が憎たらしくて、そんな自分を見せてしまったことが悔しくて、涙がまた溢れてくる。そんなのだから好きな人ひとり守れないんだ。力も心も弱いから何も得られない。後悔することしかできない。自分を責める言葉がばかりが浮かんでくる。そんな私の身勝手な涙すら、はじめはそっと拭ってくれた。


「帰ろう。みんな心配しちゃうよ」


 はじめが泣きじゃくる私の手を優しく握る。最後に打ち明けた本音は私の弱さばかり。酷く情けないのに、はじめは全く失望せず、最後まで話を聞いてくれた。話してよかったなんて全く思えない。でも、話さずにはいられなかった。結局、弱い私には後悔の道しか残されてなかったんだ。


 朝日を背に受けて影の差す方に足を踏み出す。下り道の足取りは重く、はじめに支えてもらわないと上手く歩けなかった。

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