第20話 分かれ道
ご飯を食べてお風呂に入り、あとは寝るだけ。騒がしくて懐かしい一日だったけど、やっぱりはじめのことが気がかりだった。
「いちか、一緒に寝よ」
そんな時、敷かれた布団を無視してはじめがそう言った。ふわふわのパジャマを着て枕を両手で抱えた彼女に甘えるような声色でおねだりされて、抗うことなんてできなかった。
「狭くない?」
「へーき」
暗い部屋で身体を寄せ合って、同じ温度を共有し合う。ほんの少し詰めれば指が触れそうな距離感。毛布のふわふわとした感触とはじめの蜂蜜のような甘い香りが、疲れた体に眠気を促す。でも、私は眠気に抗い続けていた。このまま眠ったら、はじめが居なくなってしまいそうだったから。
「いちか、連れて来てくれてありがとね」
「べつに、これくらいどうってことないわ」
はじめに残された時間は少ない。だから、お願いを聞いてあげるのは当たり前……いや、そんな事なくても、はじめのお願いなら叶えていた。
「今日はいちかのことたくさん知れて嬉しかった。明日もいちかのことたくさん教えてね」
「明日……」
明日が訪れるのが怖い。はじめがいなくなる時間に近づいてしまう。そもそも、明日突然連れて行かれてしまうかも知れない。脆く危ういはじめの明日を考える事が怖かった。
「ねぇ、いちか。あたし、笑ってたいの。だから、一緒に楽しもう」
不安が顔に出てしまったのだろう。はじめは優しく私の手を握って、月明かりのように淡く笑いかけた。笑っていたい。終わりが近付く中ではじめが願ったのは、たったそれだけのことだった。それなのに私が終わりを怖がってしまって、彼女の望みを断とうとしている。何をしてるんだ私は。はじめが大切なんだろ。はじめに笑ってて欲しいんだろ。自分が笑顔を曇らせてどうするんだ。
「そっか。分かった」
「ありがと」
はじめが居なくなるのは嫌だし、怖い。それでも、笑っていることがはじめの望みならそうしよう。今だけは未来から目を背けて、ただ目の前のはじめの笑顔のことだけを考えるんだ。
「おやすみ、いちか」
恐怖を頭の隅に追いやると、はじめの声がじんわりと染み渡る。触れているのは手だけなのに、抱きしめられて頭を撫でられているような安心感に包まれて、恐怖心で堰き止められていた眠気が一気に溢れ出した。
おやすみ。言葉にできたか分からない曖昧な意識の中で、私は眠りに落ちていった。
〇〇〇
それからは驚くほど平穏な日々が過ぎ去っていった。とても命の終わりが決まった少女と過ごしているとは思えないほど、平和で、楽しくて、笑顔であふれた時間。楓ちゃんの手伝いで農作業をしたり、河原や山道をまわって写真を撮ったり、家族で山菜採りをしたり、そんな特別なことは何もない日常。かつてここで過ごした時間の中に、はじめが紛れ込んだような、そんな日々だった。
その中で、はじめは楓ちゃんや私の家族とよく話していた。こう言うのは恥ずかしいけど、てっきり私にべったりだと思っていたから意外だった。ただ、はじめが話していた内容はいつも私のことだった。
最初は恥ずかしかったけど、私の事を知るたびに楽しそうに笑うはじめを見ていたら、どんな事でも知ってもらえることが嬉しくなっていった。恥ずかしい過去も、誇らしい成功も、はじめのものにしてもらえる。好きな人が自分のことを知りたいと思ってくれる幸せを噛み締めた。
「みんな、いちかのこと大好きなんだよ」
どんな話をしたのかと聞くと、はじめはいつもこう答えた。どういう意図かは分からない。ただ、そう語るはじめは満ち足りた顔をしていた。
そして、故郷に帰ってきて5日目の夜。儀式の前日である明日の昼には東京に帰る。終わりが近付く平穏で幸せな時間の中で、否が応でも現実を思い出す。私ははじめを失う。想いを伝えることもなく、愛を受け取ることもなく。ただどうしようもない現実に抗うこともできず、一番大切な人を失うんだ。そう思うととても笑顔ではいられなくて、はじめを心配させないために、逃げるように夜の散歩をしていた。
「ここって、こんなに静かだったんだ」
家から駅に向かう道。何度もここを通っているはずなのに、静寂に包まれたこの夜道が新鮮だった。知っているはずなのに知らないこの場所で、行き場のない無力感を持て余す。はじめを守れず、それどころか最後の願いも叶えられそうにない。はじめとライバルになって強くなれたけど、それでもまだ足りなかった。自分の望みすら叶えられない。私はまだ弱いままだ。
「どうしたらいいの……」
故郷ではじめと過ごして、一時は本当にはじめを失う恐怖を忘れられた。このまま幸せな時間が続くんじゃないかと思った。でも、私の期待とは裏腹に現実は迫ってくる。明日ここから去れば、私の隣からはじめは消える。そんなの嫌だ。はじめとずっと一緒に居たい。好きだと伝えたい。けれど、それは叶わぬ夢だ。だって、勝てるはずのない力が未来を決めているのだから。行き詰った状況に、足りない力を嘆くことしかできない。
─あたしは誰にも傷付いて欲しくない。あたしの未来より、いちか達の未来を守りたいの。
無駄な足掻きすら許してもらえない。あんなにも優しいあの子の想いを無碍にできないから。
「あれ、一花? どーしてこんなとこいるんだ」
「兄さん……?」
「えぇ!? なんで泣いてんの!?」
突然現れた兄さんが黒い車の窓から顔を出して声をかけてきた。用事で少し遅くなると言っていたけど、よりにもよってこのタイミングで会うなんて。
「違う。ちょっと目にゴミが入っただけ」
「は、はぁ……」
さすがの兄さんも、こんな下手な言い訳には気付くらしい。ただ事情が分からない私に対して踏み込めず、微妙な表情で困ったように私を見ていた。
「自分で帰るから、兄さんは先に帰って」
兄さんに相談できることじゃない。魔法少女のことなんて信じないだろうし、そもそも頼りにならないし。突っぱねるように背を向けて、帰るように促した。
「一花、せっかくだしドライブしないか」
「……なんでよ」
「せっかくだからって言ったろ。ほら、助手席乗って」
「え、ちょっと」
兄さんは車から降りて私の腕を掴むと、無理矢理助手席に乗せる。兄さんが強引に物事を進めるのなんて初めてのことで、弱り切っていた私は抵抗できなかった。私が反論するより先にエンジンがかかり、車が発進する。行き先は分からないけれど、家とは逆方向に進んでいた。
「ラジオとかつけないの」
「静かなドライブが好きなんだ」
どれだけ進んでも兄さんは何も話さない。沈黙が気まずくてラジオを提案するけど、あえなく却下された。外を見れば山ばかり。暗闇で自然も楽しめないから、夜空を見上げるしかなかった。
「まだ父さんにも母さんにも言ってないんだけどさ、実は婚約者がいるんだ」
「……そうなんだ」
夜空にも飽きてきたころ、兄さんから話を切り出した。婚約者か。兄さんもあと一年で社会人だもんね。兄さんに惚れるような人が居るのは意外だったけど。でも、まだ誰にも言っていない秘密を、どうして私に話すのか。その意図だけは分からなかった。
「でも、大切な人だからこそ言えないことってあるんだよね。どういう仕事につくかとか、ちゃんと二人でやっていけるかとか」
「不安なら話せばいいじゃない」
私と兄さんじゃ価値観が違いすぎる。辛いことがあるなら努力して乗り越えればいいとしか思えない。ただ、兄さんに自分一人で乗り越えろというのは酷だから、ちゃんと話すよう促した。
「怖いんだよ。僕が不安だって言ったら、あの子の不安にさせちゃうでしょ」
弱いくせに注文つけんな。かつての私なら迷いなくそう言っていただろう。弱かったら選べる選択肢は限られる。本当に自由になりたいなら、強くならなきゃいけない。そうやって自分を追い込んでいたから。でも、今の私に兄さんを責める資格なんてない。弱いせいで迷い続けているのは、私も同じだから。
「一花の言う通り、ちゃんと話さなきゃいけない。一緒に生きていくなら、幸せも不安も全部共有した方が良い。でも、分かっててもやっぱり怖いんだ。あの子を困らせてしまうんじゃないか、傷付けてしまうんじゃないかって」
大切な人を傷付けたくない。兄さんが臆病になっている理由は、誰かを想っているからこそだった。傷付けるくらいなら自分が背負った方がマシだ。そうやって正しくて危険な道から目を背けようとしている。まるで鏡を見ているみたいだった。
「ははっ、情けないなぁ。僕も一花みたいに強かったら、勇気を出して言えるのかな」
「……そんなことない。私だって、怖いことがあったら躊躇うし、正しいことが分かってても迷うわ」
「そうなの?」
今の兄さんは私だ。大切な人のために悩んで、全部自分で抱え込もうとしている。ほんの少しでも相手を傷付ける可能性がある道を選ぶのが怖いんだ。たとえそれが一番の幸せが手に入る道だとしても。
「自分が傷付くのは怖くない。でも、大切な人を傷付けてしまうことはどうしようもなく怖い。だって、自分じゃどうしようもないもの」
さっきまでの私は道すら見えていなかった。正しいけれど危うい道か、辛いけれど安全な道か。暗闇で迷っていた私は分かれ道にすら辿り着けていなかった。でも、兄さんを見て理解できた。私は、はじめに傷付いて欲しくない。だから、自分の言葉を押し潰して、はじめの最期の望みを叶えることばかり考えていた。私の言葉は、きっとはじめを傷付けてしまうから。
「それでも、勇気を持って相手に触れないといけない」
私の前に分かれ道が現れる。はじめに私の想いを伝えるか、それともこのまま黙って見送るか。それなら私が選ぶ道は決まっている。
「自分の想いをちゃんと伝えないと、二人で幸せになれるわけないんだから」
私はまだ諦めたくない。もう遅いかもしれないし、無駄な足搔きかもしれない。それでも私は一番を目指したい。はじめと二人で笑い合っていたいんだ。はじめを傷付けたくなくて押し殺した想いをもう一度手に取る。どうするべきか。こんなに簡単な答えだったんだな。
「さすがだなぁ。一花はちゃんとやるべきことが分かってるんだね」
「大したことじゃないわ。私も兄さんを見るまでどうするべきか分からなかったもの」
「え? 僕の何を見て分かったの?」
「迷ってうじうじしてるのが一番カッコ悪いってこと」
「手厳しー」
兄さんはハンドルを切り、家に戻る道を走り出す。私は何も分かってなかったけど、兄さんにはちゃんと道が見えていた。そして、私も同じところで迷っていることも。
「ありがと、兄さん」
直接アドバイスをされたわけじゃない。でも、兄さんのおかげで迷う自分を見つけて、やるべきことも分かった。小さな声で夜空に吐き捨てるようにお礼をこぼす。静かな車内だから絶対に聞こえたはずだけど返答はない。エンジン音しか聞こえない静寂と、景色の変わらない退屈さに耐えられず、お礼を受け取った兄さんの顔も見ないまま目を閉じた。
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