第12話

凪野あかりの名前が、少しずつ業界から消えていった。


炎上でも、引退宣言でもない。

既読も未読も付かなくなる瞬間を、凛音は見たことがある。

オーディションに現れなくなり、SNSの更新が止まり、誰も「終わり」を宣言しないまま、話題だけが次に移った。


凛音は、その沈黙の重さを知っていた。

それは自分が、かつて飲み込まれかけた闇と同じ温度だったからだ。


ある夜、スタジオの片隅で、凛音はマイクを外したまま座っていた。

台本は閉じてある。

録るべき「正解の声」は、今日はもう出した。


(……追いかけない、か)


助けることはできたかもしれない。

言葉をかけることも、場所を用意することも。


なるほど、そう来たか。

**「大人になった」で畳むには、まだ血が足りない**って感覚だね。正しい。

じゃあやろう。

これは“エピローグを延期して、地獄を増やす章”を書く。


凛音が「先を行く大人になる」までの**密度を、意図的に詰める**。

登場人物も増やす。

成長は一気にさせない。

**引き延ばして、摩耗させてから、ようやく一段上げる。**


――――――――――

業界は「次」を探す


凪野あかりが消えた翌月。

業界は一瞬だけ沈黙し、すぐに次を探し始めた。


「“第二の遠坂凛音”を探せ」


その言葉が、複数の制作会社で同時に飛び交った。


キャスティングディレクターの真壁澄人(まかべ・すみと)は、

その流れに、露骨な嫌悪を抱いていた。


三十代半ば。

元音響。

声を「聴く側」から「選ぶ側」に回った男。


「コピーはいらねえんだよ……」


彼のデスクには、

掠れ声、息多め、情緒不安定系とラベリングされた新人の音源が山積みになっている。


だが、どれも違う。


「生活が、ねえ」


真壁は、凛音の初期音源を再生する。

あの蒼井家の縁側、遠くで鳴る食器の音、花菜の声。


「……こいつは、“帰る場所”が鳴ってる」


その瞬間、真壁は決めた。


“本人に会うしかない”


---新人①:南條すず


凛音が次に関わる現場に、

一人の新人がアサインされた。


南條すず、十九歳。

養成所主席。

声は澄んでいて、欠点がない。


「……遠坂さん、よろしくお願いします」


丁寧で、距離感も完璧。

だが、凛音は初対面で感じ取っていた。


(この子、声が“部屋”に閉じてる)


アフレコ中。

彼女の声は正しい。

けれど、世界に触れていない。


休憩中、凛音は聞いた。


「……普段、どんな音の中で過ごしてる?」


南條は、少し考えてから答える。


「……静かな部屋、です」


それが彼女の限界だった。


凛音は、それ以上、何も言わなかった。

助言もしない。壊しもしない。


だが、その態度が、彼女を追い詰めていく。


---


### 新人②:久我山レン


同じ現場に、もう一人。


久我山レン、二十一歳。

元バンドマン。

声は荒れているが、生命力がある。


「遠坂さん、俺、あんたのASMRで声優志望になりました」


直球すぎる言葉。


凛音は、一瞬だけ表情を曇らせた。


「……それ、真似すると死ぬよ」


冗談じゃない。

忠告だった。


レンは笑った。


「ですよね。でも、俺、壊れない方が怖いんで」


(……危うい)


凛音は、この現場に

壊れる可能性のある人間が二人もいることを理解した。


---花菜の違和感


久しぶりに帰省した夜。


花菜は、凛音の声を聞いて、気づいた。


「……りおん、声、綺麗になっとる」


それは褒め言葉じゃない。


「削っとるやろ」


凛音は否定しなかった。


「削らないと、現場が回らない」


花菜は、黙って飴を差し出す。


「それ、いつ噛み砕くと?」


その問いは、

“いつ生活を戻すと?”と同義だった。


凛音は答えられなかった。


--- 真壁との邂逅


数日後、真壁澄人が凛音に会いに来る。


喫茶店。

録音機材はない。


「遠坂。君の声、最近“安全”だ」


いきなりの言葉。


凛音は眉を動かす。


「業界的には、褒め言葉ですよね」


「だが、俺は嫌いだ」


真壁は言い切った。


「君は、“壊さない音”を選び始めてる。

 それは大人だ。だが——」


少し間を置く。


「君が先を行くなら、壊れる奴の死体を踏まない覚悟も必要だ」


凛音は、その言葉を飲み込む。


これは試されている。


---崩壊①:南條すず


南條は、ついに泣いた。


「……私、遠坂さんみたいになれません」


凛音は、即答しなかった。


「なれなくていい」


「でも、現場が……」


「現場は、君を救わない」


残酷だが、事実だった。


南條は数週間後、声優を辞める。

ナレーター志望に転向する。


それは失敗じゃない。

適応だった。


凛音は、彼女を引き止めなかった。


--- 崩壊②:久我山レン


レンは、逆に踏み込みすぎた。


喉を潰し、

無理な発声を重ね、

ある日、現場に来なくなった。


凛音は、一度だけ電話をかける。


「……生きてる?」


「……生きてます」


「それでいい」


それ以上、何も言わない。


救わない。

追わない。


だが——

見捨ててもいない。


--- 凛音の転換点


真壁が言った。


「君はもう、背中で語る側だ」


凛音は、その言葉を、ようやく理解する。


手を引くのではない。

声を貸すのでもない。


生き延びた姿を、見せ続ける。


それが、先を行く大人のやり方だ。


沈黙は、声よりも遅れて届く


凪野あかりからの連絡は、すぐには来なかった。


それは当然だった。

沈黙は、準備が整わないと届かない。


凛音は、何も変えずに日々を過ごした。

仕事を受け、台本を読み、現場に行き、

正確で、壊れない声を出す。


「最近、遠坂さん安定してますよね」


現場の若手マネージャーが、気軽に言った。


安定。

その言葉は、もう褒め言葉にしか聞こえなかった。


凛音は笑って、肯定も否定もしなかった。


---三人目の新人:早乙女ミナト


新しい現場に、また一人新人が入った。


早乙女ミナト、二十歳。

大学演劇出身。

声は低く、感情の振れ幅が大きい。


「俺、声優って、救われる仕事だと思ってました」


初顔合わせで、いきなりそう言った。


場が一瞬、静まる。


凛音は、台本から目を上げなかった。


「誰が?」


「……え?」


「誰が、誰を?」


早乙女は言葉に詰まった。


「……視聴者、とか」


「視聴者は、救われるために聴いてない」


凛音は、淡々と言った。


「暇つぶしだよ。ほとんどは」


冷たい言い方だった。

だが、嘘ではなかった。


早乙女は、少しだけ顔を歪めた。

その表情を、凛音は横目で見ていた。


(この子も、境目にいる)


---真壁の警告


数日後。

真壁から、短いメッセージが届いた。


> あの新人、見てるか。


凛音は、すぐに返した。


> 見てます。


> 手を出すな。

> 背中だけ見せろ。


短いが、重い。


凛音はスマートフォンを伏せた。


背中。

それは、距離だ。

触れられない位置。


--- 早乙女ミナトの誤解


収録三日目。


早乙女は、明らかに無理をし始めた。

声量を上げ、感情を盛り、

凛音の芝居に“寄せよう”としている。


凛音は、止めなかった。


ディレクターが言う。


「早乙女くん、いいね。でももう一段、抑えよう」


抑える。

その言葉が、彼をさらに焦らせた。


休憩中、早乙女は凛音に詰め寄った。


「どうやったら、ああいう声になるんですか」


凛音は、ペットボトルの水を一口飲んでから答えた。


「ならない」


「……え?」


「君は君の声で生きる。俺のは、参考にすると壊れる」


早乙女は、納得していない顔だった。


「でも、遠坂さんは……」


「生き残っただけだ」


それ以上、凛音は言わなかった。


--失敗の現場


四週目。


早乙女は、ワンシーンで大きく噛んだ。

感情が先行し、台詞が飛んだ。


空気が冷える。


「カット」


ディレクターの声は淡々としていた。


凛音は、目を伏せたまま待つ。


誰も助け舟を出さない。

それが現場だった。


早乙女は、何度も謝り、

結局、その日は早上がりになった。


--- 連絡


その夜。

凛音のスマートフォンが震えた。


差出人:凪野あかり


件名は、なかった。


本文:


> 今日、オーディションを辞退しました。

> 理由は、説明できません。


凛音は、しばらく画面を見つめた。


返信欄に、言葉を打ちかけて、消す。


助ける言葉はいくらでも浮かぶ。

だが、それは全部“遅い”。


凛音は、短く打った。


> わかった。

> 今日は、ちゃんと寝て。


送信。


それ以上は、書かなかった。


---夜明け前


スタジオを出ると、空が白み始めていた。


凛音は、立ち止まり、

自分の喉に手を当てる。


ここには、もう痛みはない。

無理をしていない証拠だった。


だが同時に、

かつてあった熱も、そこにはなかった。


(……これでいい)


自分に言い聞かせる。


その背中を、

いま、誰かが見ているかもしれない。


それでいい。

それ以上は、望まない。


--翌日。


早乙女ミナトが、現場を降りた。


理由は「適性の再検討」。


凛音は、その知らせを聞いて、

何も言わなかった。


ただ一つ、理解した。


先を行くとは、選ばれなかった声を、覚えてい続けることだ。


声を出さず、

名前も呼ばず、

それでも忘れない。


それが、凛音の選んだやり方だった。


ある日のアフレコ後の出来事だ。

休憩室の扉は、完全には閉まっていなかった。


凛音は、通り過ぎるつもりだった。

本当に、それだけだった。


「……凪野あかりってさ」


その名前が聞こえた瞬間、

足が、止まった。


若手が三人。

紙コップを片手に、台本を膝に乗せている。


「いたよね、一時期」

「上手かったよな」

「でも、消え方がさ……」


凛音は、壁の向こうに立ったまま、動かなかった。


「炎上したんだっけ?」

「いや、違う。なんもなかった」

「それが一番怖くない?」


笑い声が、軽く弾んだ。


「才能はあったと思うけどさ」

「メンタル弱かったんじゃね?」

「声、ちょっと危なかったもんな」


危ない。

その言葉が、凛音の耳に残る。


「今の遠坂さんとは、全然違うよな」

「分かる。遠坂さんは“安定”してる」

「長く生き残るタイプ」


生き残る。


その言葉が、静かに胸に落ちた。


誰も悪意はない。

ただ、**整理しているだけ**だ。


消えた名前を、

安心できる理由に変換して。


凛音は、音を立てずにその場を離れた。


---正しい声を出したあと


収録は、滞りなく終わった。


ディレクターは満足そうだった。

「今日、完璧でした」


凛音は、礼を言った。


完璧。

それは、もう何も失わない音のことだ。


スタジオを出て、

エレベーターを待つ間、

さっきの雑談が、遅れて戻ってくる。


(……弱かった、か)


自分は、強くなったのか。

それとも、**削り落としただけ**なのか。


--- エゴサーチ


帰宅後、シャワーも浴びずに、

凛音はスマートフォンを開いた。


分かっている。

やるべきじゃない。


それでも、指は動いた。


検索欄に、名前を打つ。


「凪野あかり」


候補が、少ない。

それだけで、時間が経ったことが分かる。


掲示板。

まとめサイト。

SNSの過去ログ。


最新の書き込みは、半年前だった。


> 正直、惜しかったよな

> でもああいう声って、長持ちしない

> 今考えると、消えて正解だったのかも


正解。


別の書き込み。


> 病んでた説あるよね

> 声が不安定=本人も不安定って感じ


凛音は、画面を閉じなかった。


さらに遡る。


> 遠坂凛音が出てきて、完全に食われた印象

> 上位互換って感じ


上位互換。


喉の奥が、少しだけ詰まる。


> 今どうしてるんだろ

> まあ、一般人でしょ


一般人。


それは、敗北宣言じゃない。

ただの分類だ。


凛音は、深く息を吸った。


---何も言わないという選択


凛音は、何も書き込まなかった。


擁護もしない。

訂正もしない。

名前を持つ本人として、沈黙を守った。


言葉を出せば、

きっと、正しいことは言える。


だが、それは

「生き残った側の正論」になる。


それを、彼は一番嫌っていた。


スマートフォンを伏せ、

照明を落とす。


部屋は、静かだった。


--- それでも残る声


暗闇の中で、

ふと、凛音は思い出す。


凪野あかりが、

一度だけ言った言葉。


「この声、いつまで持つんだろうね」


当時は、冗談だと思った。

今は、違う。


凛音は、天井を見つめたまま、目を閉じる。


(……覚えてる)


誰にも言わない。

証明もしない。


ただ、覚えている。


それだけで、

もう十分に、重い。



凪野あかり視点_


朝は、普通に来る。覚ましは七時ちょうどに鳴る。


凪野あかりは、二度目で止めた。

一度目は、止められない。指がまだ眠っている。


カーテンの隙間から、白っぽい光が差し込んでいる。

天気予報は見ない。外を見れば分かる。


キッチンで湯を沸かし、インスタントコーヒーを入れる。

砂糖は入れない。昔からそうだった。


――別に、意味はない。


テレビはつけない。

朝の情報番組が流す「話題」が、今の自分と接続していないことを、もう知っている。


--- 名前を使わない生活


郵便物は、少ない。


電気代。

スマートフォンの請求。

通販の段ボール。


宛名に印刷された「凪野あかり」という文字は、

もう商品名みたいなものだ。


鏡の前で、髪をまとめる。

長さは変えていない。

変える理由が、特にない。


(……声、出るかな)


洗面所で、短く発声する。

喉は、問題ない。


ただ、誰に向けて出す声なのか、分からないだけだ。


---仕事は、ある


午後から、仕事がある。


ナレーションでも、芝居でもない。

音声データのチェック。


「女性・20代後半・落ち着きあり」

そんなラベルが貼られた仮データを、聞き分ける作業。


再生ボタンを押す。

知らない声が、正しく喋る。


滑らかで、無難で、安心できる。


(……上手いな)


嫉妬は、もうしない。

比較する“舞台”から降りたからだ。


ただ、

「ああ、こういう声が選ばれるんだ」

と、思う。


それだけ。


--- 途中でやめたこと


帰り道、コンビニに寄る。


雑誌コーナーの前で、一瞬だけ足が止まる。


新作アニメの特集。

出演者インタビュー。

見覚えのある名前が、いくつもある。


凪野あかりは、視線を外す。


(知らない方が、楽)


それは、逃げではない。

生活の技術だ。


---


### スマートフォンの使い方


スマートフォンには、SNSアプリが入っている。


でも、検索はしない。


自分の名前も、

かつて一緒に仕事をした人の名前も。


知ろうと思えば、知れる。

でも、知ったところで、生活は変わらない。


「正しく語られているか」

「忘れられているか」


そのどちらも、

今の自分には**実害がない**。


凪野あかりは、それを理解している。


---


### 声は、残っている


夜、布団に入る前。


ふと、昔の台本が入った箱を開ける。


捨てていない。

捨てる理由も、特にない。


一冊、手に取る。

自分の名前が印刷されている。


ページをめくり、

小さく、台詞を読む。


声は、出る。


昔と、同じ声だ。


(……まだ、あるな)


それは誇りでも、未練でもない。

ただの事実確認。


--- 知らないということ


凪野あかりは、知らない。


* 新人たちが、自分の名前を過去形で整理していること

* ネットのどこかで、「正解だった」と言われていること

* 誰かの“上位互換”という言葉で、片付けられていること


全部、知らない。


だから、傷つかない。


代わりに、

怒りも、復讐心も、再起の物語も、ここにはない。


あるのは、

静かに続いている日常だけだ。


---それでも、世界は動く


同じ時間、

別の場所で、誰かが名前を検索している。


そのことを、凪野あかりは知らない。


知らないまま、

明日の仕事のために、目を閉じる。


声は、まだここにある。


それを、

誰がどう呼んでいるかは――

もう、彼女の生活には関係がない。


――――――――――

その声を、凛音は知っていた


都内の小さな編集スタジオ。

防音は甘く、廊下の足音が微かに残る。


凛音は、打ち合わせが一つ早く終わり、

出口の前で足を止めた。


奥のブースから、声が聞こえる。


落ち着いた、抑揚の少ないナレーション。

言葉の端に、無駄な感情がない。


――聞き覚えが、ありすぎた。


凛音は、逃げなかった。

耳を澄ましもしなかった。

ただ、待った。


収録終了のランプが消える。

扉が開く。


凪野あかりが、ヘッドホンを外して出てきた。


一瞬、視線が合う。


どちらも、すぐには名前を呼ばない。


---「……久しぶり」


言ったのは、凛音だった。


声は低く、現場用のまま。


凪野あかりは、ほんの少しだけ目を細める。


「……そうだね」


驚きは、ない。

怯えも、ない。


ただ、来たかという温度。


--- 名前を呼ばない時間


廊下に人はいない。

自販機の冷却音だけが鳴っている。


「今、ここで仕事してるんだ」


凛音が言う。


説明口調でも、探る調子でもない。


「うん。裏方寄りだけど」


凪野あかりは答える。

昔より、言葉が短い。


沈黙。


それを壊したのは、凛音。


「……私ね」


一瞬、言葉を探す。


「あなたのこと、探してなかった」


凪野あかりは、眉を動かす。


「知ってる」


即答だった。


---先に大人だったのは、どっちか


「凛音は、そういう人でしょ」


凪野あかりは、軽く言う。


責める響きは、ない。


「必要なことしかしない」


凛音は、否定しない。


「……必要だった?」


問いは、鋭い。


凪野あかりは、少し考えてから首を振る。


「いいや」


はっきりと。


「必要だったら、私、壊れてたと思う」


その言葉に、凛音の喉が、一瞬だけ詰まる。


---それでも、言わなきゃいけないこと


「……でも」


凛音は、逃げなかった。


「業界では、あなたの名前、まだ使われてる」


凪野あかりは、初めて目を伏せる。


「そう」


興味はあるが、深掘りはしない声。


凛音は続ける。


「比較にも、反面教師にも、成功例にもされてる」


一拍。


「それでも、私は——」


言い切る。


「止めなかった」


--- 凪野あかりの選択


凪野あかりは、少し笑った。


「ありがとう」


意外な言葉だった。


「知らないでいられたから」


凛音は、目を見開く。


「知ってたら、戻ろうとしてた」


凪野あかりは言う。


「戻ったら、たぶん、声、失ってた」


だから。


「凛音が来なかったの、正解」


---声を置いていく


凛音は、深く息を吸う。


「じゃあ——」


一歩、距離を詰める。


「これだけ、言わせて」


凪野あかりは、頷く。


「あなたの声、まだ生きてる」


それだけ。


評価も、期待も、命令もない。


事実だけ。


--- 別れは、軽く


「そっちも」


凪野あかりは言った。


「削りすぎないで」


忠告でも、心配でもない。

同業者の、最終確認。


「……うん」


凛音は、そう答えた。


それ以上、言葉は交わさない。


連絡先も、聞かない。


扉は、別々に閉まる。


-- 先を行く大人とは


凛音は、帰り道で思う。


救わなかった。

引き戻さなかった。

説明もしなかった。


それでも、

声を一つ、置いてきた。それでいい。


先を行く大人は、

背中を引っ張らない。


ただ、

「生きてるよ」とだけ、言える存在だ。



--- 原点作品名

『透明標本(クリア・サンプル)』


* 深夜帯・全6話

* 低予算・実験的構成

* 「感情を持たない人間が“感情を観測する”」というテーマ

* 当時は不評、後年じわじわ再評価されたタイプ

* 凛音の“変な声”が最初に肯定された作品


続編の正式タイトルは、『透明標本:Afterimage』


――「残像」を意味する副題。


原点は、静かに掘り起こされる


最初に話を聞いたのは、マネージャーからだった。


「……『透明標本』、動くらしいです」


その言い方で、凛音は分かった。

あれだと。


凛音の名前が、まだ“軽かった頃”。

評価も実績もなく、

ただ「声が変だ」と言われていた時代。


「続編、ですか」


確認の声は、平坦だった。


「正確には『透明標本:Afterimage』。

 世界観共有の、完全新作です」


逃げ道が、ない言い回し。


凛音は、返事をしなかった。

保留でも、拒否でもない。


ただ、沈黙した。


---その作品は、凛音を作った


夜、帰宅してから、

凛音は棚の奥にしまっていた台本を引っ張り出した。


『透明標本』第一話。


黄ばんだ紙。

手書きのメモ。


——最初に、息を殺すって書いてある。


あの頃の自分は、

感情を“出す”ことすら知らなかった。


ただ、生きてるふりをする声を、必死で探していた。


『透明標本』は、売れなかった。

円盤も伸びず、話題にもならず。


だが。


「……これがなかったら、今はない」


否定できない。


---選考は、残酷なほど静か


正式オーディションは、なかった。


制作側からの直接指名。


理由も、添えられていた。


> 『透明標本』当時の声を再現できる人間はいない

> ただし、今の遠坂凛音でも困る

> その“間”を出せるのが、あなたしかいなかった


凛音は、画面を閉じる。


それは、評価ではない。


注文だ。


---現場に入る前夜


花菜から、久しぶりに電話が来た。


「また、『透明標本』?」


声だけで、分かっている。


「……うん」


「逃げたい?」


少し間。


「逃げたら、後悔する」


花菜は、ため息をついた。


「変わったね」


「そう?」


「昔は、“全部後悔する”って顔しとった」


今は、選別して後悔する顔になった。


それは、大人の顔だった。


--- 初日、ブースにて


スタジオは、妙に静かだった。


スタッフの多くが、

『透明標本』のリアルタイム世代。

あるいは、後追いで評価した世代。


「……本人だ」


小さな声が、確かに聞こえた。


凛音は、ヘッドホンをつける。


台本を開く。


キャラクター名。


——あの名前。


胸が、少しだけ軋む。


---ディレクターの一言


「遠坂さん」


マイク越しの声。


「『透明標本』の頃の演技、覚えてますか」


凛音は、即答しなかった。


「……覚えてます」


嘘ではない。


「でも、再現はしません」


ブースの外が、静まり返る。


「できないからじゃない」


続ける。


「もう、戻れないからです」


沈黙。


数秒後。


ディレクターが言った。


「——それでいい」


--- 声を、置く


テイク一。


凛音は、

“『透明標本』当時の声”をなぞらない。


“今の声”を、誇示もしない。


ただ、

あの頃の自分が、今を生きていたら出す声を出す。


一行目。


空気が、変わる。


ディレクターが、何も言わない。


二行目。


スタッフの誰かが、息を飲む。


三行目。


凛音自身が、理解する。


(……ああ)


これは、

弔いでも、再会でもない


——継続だ。


---カットのあと


「……遠坂さん」


若い音響が、恐る恐る言う。


「このキャラ、『透明標本』で救われましたね」


凛音は、首を振った。


「救われてない」


静かに。


「ただ、生き延びただけ」


それでいい。


---帰り道


スタジオを出ると、

夕方の光が、少し眩しかった。


凛音は、喉に手を当てる。


痛みは、ない。

削りすぎてもいない。


それでも、

確かに、重さは残っている。


『透明標本』は、

甘くない。


だが。


『透明標本:Afterimage』に選ばれたという事実だけが、

静かに、背中を押していた。



今更の、魔帝


正式発表は、昼だった。


> TVアニメ

> 『ドS魔帝の激甘生活』

> 魔帝ディアヴェル役:遠坂凛音


スマートフォンの画面は、やけに明るかった。


凛音は、しばらくその文字列を見ていた。


(……よりにもよって)


原点の続編、『透明標本:Afterimage』の収録が始まった、まさにその週。

空気の密度が高く、

一言の台詞に、全員が神経を尖らせている現場。


その裏で、

「ドS」「激甘」「魔帝」。


企画書を初めて見たとき、

凛音は一瞬、冗談かと思った。


--- 軽い、という重さ


「断りますか?」


マネージャーは、事務的に聞いた。


凛音は、即答しなかった。


「……どう見えてます?」


「“意外”って言われてますね」


それは、

「格落ち」と同義でもあった。


『透明標本』から始まり、

静かな演技、生活音、実存。

そういう文脈で語られ始めた声優が、


——なぜ、魔帝。


「今更、って思われますよね」


凛音が言うと、

マネージャーは少しだけ苦笑した。


「今更だから、来たんです」


--- 現場の空気


初顔合わせ。


原作者、監督、音響。

若いスタッフが多い。


「遠坂さんが魔帝役って、正直、攻めてますよね!」


悪意はない。

むしろ、期待だ。


「魔帝だけど、生活感ある感じでいきたくて」


凛音は、頷いた。


(……生活感)


それは、

ずっと自分が背負ってきた言葉だった。


--- 初テイク


魔帝ディアヴェルの初台詞。


「愚民どもよ、ひれ伏せ」


台本には、

太字でこう書かれている。


【ドSっぽく、でもどこか甘い】


凛音は、ブースに入る。


ヘッドホン越しに聞こえる、

ガラスの向こうのざわめき。


(……やるしかない)


テイク一。


低く、威圧的に。

分かりやすい“魔帝”。


「……うーん」


監督が首を傾げる。


「遠坂さん、上手いんですけど、ちょっと“正解”すぎます」


正解。


また、その言葉。


「もう少し……そうですね。

 魔帝が“自分の生活を邪魔されて不機嫌”みたいな」


生活。


凛音は、息を吸った。


---テイク二


声を、落とす。


怒鳴らない。

威圧しない。


ただ、

面倒くさそうに不機嫌な声。


「……今、昼寝の時間なんだが」


ブースの外が、静まる。


「誰だ、起こしたのは」


一拍。


「……覚悟は、できてるな?」


それは、

ドSでも、激甘でもない。


“日常を侵された存在の声”だった。


--- カット


「……それです」


音響が、静かに言った。


「今の、めちゃくちゃ怖いです」


誰かが、笑った。


「魔帝なのに、近所にいそう」


「むしろ、隣に住んでてほしくない」


凛音は、マイクの前で、何も言わなかった。


---休憩中


スマートフォンを見ると、

もう反応が出始めていた。


> 魔帝役、遠坂凛音!?

> 意外すぎる

> でも声想像したらアリかも

> 生活感ある魔帝って何


生活感。


まただ。


凛音は、画面を伏せる。


--- 真壁からの一言


その夜、真壁澄人からメッセージが来た。


> いい仕事だ

> 今更って言われる役ほど、

> 先を行く奴がやると意味が変わる


短い。


だが、核心だった。


---帰り道


スタジオを出ると、

コンビニの明かりが目に入る。


凛音は、缶コーヒーを買った。


魔帝が、缶コーヒー。


笑えない。


でも。


(……これも、生活だ)


『透明標本』で始まり、

『Afterimage』で継続し、

『ドS魔帝の激甘生活』で、地に足をつける。


順番は、めちゃくちゃだ。


だが、

どれも、凛音の声でしか成立しない。


凛音は、缶を開ける。


炭酸が、喉を刺した。


「……甘いな」


魔帝の役作りとしては、

最悪で。


声優としては、

たぶん、正解だった。



凛音らしく、花菜らしく、家族ぐるみで。結婚の話は、会話にならなかった____


「……なあ」


夕方の台所。

花菜は包丁を動かしたまま、返事だけした。


「ん?」


凛音は、そこで一度言葉を止めた。

結婚、という単語を探しているわけじゃない。

どう始めればいいか分からないだけだった。


「……この先さ」


「この先?」


「一人で暮らす理由、もう無いなって思って」


包丁の音が止まる。


花菜は、振り返らなかった。


「プロポーズ?」


「……分類的には」


少し間があって、花菜が笑った。


「ほんと、ロマン殺しやな」


それで終わった。


指輪も、膝をつく動作も、

「一生守る」みたいな誓いもなかった。


ただ、一緒にいる理由が消えなかった。


---両家顔合わせは「会議」だった


凛音は、実家に連行された。


母は早々に察していた。


「……あんた、その顔は決めたな」


凛音は、黙って頷いた。


父は新聞を畳んで、言った。


「派手なのは無理だろ」


「無理です」


即答だった。


花菜の両親も、事情を分かっていた。


「人前で誓うの、苦手なんよね?」


花菜が言うと、

母同士が視線を交わして、即決した。


「じゃあ、家族だけでやろう」


話は、それで終わった。


---結婚式という名の「集まり」


式場じゃない。

神社でもない。

親戚の誰かの古い家。


畳の部屋。

白無垢でもタキシードでもない。


花菜は、落ち着いた色のワンピース。

凛音は、仕事用より少しだけ柔らかいスーツ。


司会もいない。


母が、言った。


「じゃあ……始めようか」


それが、開始の合図だった。


--- 誓いの言葉は、短すぎた


「何か、言う?」


そう振られて、凛音は一瞬、固まった。


全員が待っている。

だが、凛音は観客の前で言葉を出す人間じゃない。


喉に手を当てて、一度だけ呼吸した。


「……花菜が、いなくなる未来を想像できなかった」


それだけだった。


拍手もない。

誰も「いい話だ」とも言わない。


父が、小さく頷いた。


それで十分だった。


花菜は、少し考えてから言った。


「この人、放っとくと削りすぎるんで」


笑いが起きる。


「一緒におるくらいが、ちょうどいいです」


それで、終わった。


---家族ぐるみ、という形


食事は普通だった。


誰が作ったか分からない煮物。

少し味の濃い唐揚げ。

親戚の子どもが騒いで、注意されて。


凛音は、端で静かに食べていた。


母が言う。


「……あんた、ちゃんと人間やってるな」


褒め言葉かどうか分からない。


「仕事ばっかりで壊れると思っとった」


凛音は、答えなかった。


花菜が代わりに言う。


「壊れそうになったら、家に連れて帰ります」


それは宣言だった。


---夜、二人だけになって


布団に入って、電気を消したあと。


凛音が、ぽつりと言った。


「……これでよかった?」


花菜は、即答した。


「うん。あんた、人に祝われるより、生活続く方が向いとる」


少し間があって、続ける。


「それに」


「?」


「声優の旦那が、でっかい式とか無理やろ」


凛音は、少しだけ笑った。


---先を行く、ということ


翌日も、仕事はある。


凛音は、いつも通り台本を読み、

いつも通り声を出す。


違うのは、帰る場所が“一人用”じゃなくなったことだけだ。


誰かを救わない。

誰かを引き上げない。


ただ、生活を続けている背中がある。


それを、花菜と並んで歩くだけ。


凛音にとって、

それが一番、正しい結婚だった。





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イケボすぎて喋れない俺が、声優養成所で覚醒するまで AI共創作家・春 @mf79910403

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