最終話:宛先は、隣の君。
二〇二六年。
二月下旬の風はまだ冷たいが、私たちの住むマンションのリビングは、エアコンの風が部屋の隅々まで暖かな空気を循環させている。
あの日、昇降口のコンクリートから這い上がってきた暴力的な底冷えも、息の詰まるような教室の熱気も、今はもう遠い昔のことだ。
私、
テーブルの上で、スマートフォンが短い振動音を立てる。画面には、仕事先からのチャットツールの通知が表示されている。
画面越しの短い文字で、誰とでも即座に、軽薄に繋がれてしまう時代。
あの頃、金属の扉越しに手紙をやり取りしたヒリヒリとする不確かさは、このデジタルの海にはもうない。
社会は、絶え間ない通知音と愛想笑いに満ちていた。
私はルーズソックスと派手なメイクを脱ぎ捨て、代わりに「良識ある大人」という新しい擬態を身に纏って日々をやり過ごしている。息苦しさは形を変えただけで、完全に消え去ったわけではない。
それでも、私がこの世界で窒息せずに生き延びていられるのは、この部屋に帰れば、絶対に「それ」があるからだ。
私はソファから立ち上がり、リビングの棚へ向かった。
最新のスマートスピーカーの横に、ひどく場違いな、化石のような機械が鎮座している。
傷だらけのMDコンポ。
そのスロットには、ラベルすら貼られていない銀色のディスクが入ったままだ。
再生ボタンを押す。
ウィーン、カシャリ、という硬質な駆動音。
やがて、スピーカーから流れ出したのは、二十六年前とまったく変わらない、無機質で温度のないアンビエントの電子音だった。
「……相変わらず、可愛げのない音」
私は一人ごちて、その冷たい音を全身に浴びた。
この音が流れるこの部屋こそが、今の私と彼女にとっての「屋上」であり、絶対的な密室だ。
玄関の方で、ガチャリと鍵が開く音がした。
微かなヒールの足音とともに、リビングのドアが開く。
「ただいま。……外はまだ、少し冷えるわね」
きちんとした仕立てのコートを脱ぎながら、五十嵐 澪が静かな声で言った。
完璧な令嬢という呪いから自立し、大人の女性としての落ち着きを纏った彼女。しかし、私を見つめるその瞳の奥には、二十六年前から何も変わらない、泥濘のような暗闇と、私を求める微かな執着が揺らいでいる。
「おかえり。エアコン、温度上げる?」
「ううん、いいの。この音が流れているなら」
澪は、流れるアンビエントの音に目を細め、静かに私の隣のソファへと腰を下ろした。
ココナッツの香水と伽羅のお香は、もうしない。代わりに、柔軟剤と、冬の冷たい外気の匂いが、二人の間に混ざり合う。
肩と肩が触れ合う近さ。互いの体温が、言葉よりも先に「生存確認」のようにじんわりと伝わってくる。私たちは今でも、こうしてお互いの体温だけを命綱にしなければ生きられない、不器用な欠陥品のままだった。
ふと、テーブルの上のスマートフォンの横に置かれた、一枚の紙切れが目に入った。
それは今日の昼間、私が仕事の合間に、何の気なしに書き殴ったメモ用紙だった。
『今日はなんか、無駄に疲れた。息苦しい』
宛名も何もない、ただの独り言。タイムラインの波に流せば一瞬で消費されて消えてしまうような些末な言葉。
澪は、私の視線を追ってそのメモを見ると、テーブルの上のボールペンを手に取った。
そして、私の丸っこい文字の下に、端正で隙のないあの字で、さらさらとこう書き添えた。
『お疲れ様。私もよ。ここ以外では息が詰まっちゃうもの』
既読マークなんかいらない。
宛名なんか書かなくても、私の言葉は、絶対に隣にいる彼女の暗闇に届く。そして彼女もまた、その短い文字と確かな体温で、私の息苦しさを真っ直ぐに受け止めてくれるのだ。
パニックを起こして宛名のない手紙を誤配したあの日から、私たちはこの、言葉にならない温度の共有を、二十六年間、一日も欠かすことなく証明し続けてきたのだ。
「……語彙、丸くなったんじゃない?」
「あなたに合わせてあげてるのよ」
澪は、かつての教本通りではない、微かな熱を帯びた微笑みを浮かべた。
カシャリ、と。MDが次のトラックを読み込む音が、静かなリビングに響く。
私たちは、どちらからともなく、もう一度深く肩を寄せ合った。
――宛先は、隣の貴女に。
二十六年間、一日も欠かすことなく。
言葉と温もりを、今もこうして届け合っている。
宛先は、君の隣。 零縫(ほろぬい) @horonui
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