第九話:宛先、間違えてるぞ

 三月、卒業式当日の朝。

 学園の空気は、下級生たちが飾り付けた装飾や、別れを惜しむ無意味に高いデシベルの騒音で、ひどく浮き足立っていた。

 私はいつも通り、重いルーズソックスを引きずり、顔面に分厚いメイクという「無敵のギャル」の擬態ファッションを貼り付けて昇降口へと向かっていた。


 今日で、すべてが終わる。

 

 この息苦しいモラトリアムも。そして、五十嵐 澪との「名前のない関係」も。

 接着剤であった久瀬 誠を失って以来、私たちは屋上の密室でどう触れ合えばいいのか分からなくなり、ただ無機質なアンビエントの音を間に挟んで、冷たい沈黙を重ねるだけになっていた。

 このまま卒業式が終わり、彼女が教本通りの微笑みを浮かべながら門をくぐれば、私たちはもう二度と交わることはない。その現実が、鉛のように重く胃の腑にのしかかっていた。


「成瀬」


 一八番の靴箱の前で、不意に名前を呼ばれた。

 振り返ると、そこには卒業式用の制服をきちんと着込んだ久瀬が立っていた。

 

 彼は戸惑ったように、私の目の前に一通の分厚い和紙の封筒を差し出した。

 見覚えのある、上質な懐紙。しかし、それはいつも澪が書いていたような端正で冷たい手紙ではなく、インクが何度も滲み、乱暴に書き殴られ、湿り気で歪んだ異様な物体だった。


「なあ、これ……俺の一九番に入ってたんだ。宛名もないし、封もされてない。中を見たら、『冷たい音が必要だ』とか、すごく切羽詰まったことが書いてあって。俺、どうしたらいいか分からなくて」


 久瀬の声が、遠くで聞こえた。

 私は弾かれたように彼の手から封筒をひったくり、震える手で便箋を引き抜いた。そこに書かれた文字を目でなぞる。


『あなたなしでは、私はこの世界で息ができません。私の暗闇には、あなたのあの冷たい音が必要なのです』


 論理も、教本通りの語彙もない。

 そこにあったのは、完璧な令嬢という仮面をかなぐり捨てた、五十嵐 澪の剥き出しの執着と、酸素を求める悲痛な叫びだった。

 きっと彼女は、関係に名前をつけてしまう恐怖に耐えきれず、パニックを起こして、またしても一九番に「誤配」してしまったのだ。


「……っ」


 私の喉から、声にならない短い悲鳴が漏れた。

 指先が小刻みに震え、呼吸が浅くなる。無敵のギャルとしての重い擬態が、音を立てて崩れ落ちていくのがわかった。


 その私の無防備で必死な姿を見て、久瀬は小さく息を呑んだ。

 そして、少しだけ目を見開いた後――静かに、すべてを繋ぎ合わせたように目を伏せた。


「……そっか。宛先、間違えてたんだな」


「え……」


「これ、俺宛てじゃない。……お前宛てだろ」


 久瀬は、深く、静かに息を吐き出した。


「そういうことだったんだな。……俺の知らないところで、ずっと、二人だけで」


 彼の曇りのない真っ直ぐな瞳が、私を射抜く。

 怒られると思った。軽蔑されると思った。あの冷徹な絶縁状の背後にいたのが私であり、ずっと応援するふりをしながら、彼を口実にして澪を繋ぎ止めていたのだから。


 しかし、久瀬は微かに痛みを堪えるように眉を寄せながらも、ふっと柔らかく笑った。


「俺には、五十嵐さんをあんなに必死にさせることはできなかったよ」


「……久瀬」


「早く行ってやれよ。あの子、きっと今、すごく怯えてるから」


 彼は、一切の非難を含まない、ただの純粋な善意と誠実さで、私たちの泥濘のような暗闇を『肯定』して背中を押したのだ。

 ずっと胸の奥に刺さっていた卑怯な罪悪感から、私が本当の意味で救われた瞬間だった。


「……っ、ありがと!」


 私は彼に背を向け、昇降口の床を強く蹴り出し、走り出した。


 向かう先は、一つしかない。

 足に絡みつく重たい布地の不快感も、階段を駆け上がるたびに肺が焼けるような息苦しさも、今の私にはどうでもよかった。

 分厚いメイクも、だらしないルーズソックスも、今すぐ全部脱ぎ捨てたかった。

 屋上へと続く最後の階段。重い鉄扉を、体当たりするようにして両手で押し開ける。


 冬の終わりを告げる、ぬるい春の風が吹き抜けた。

 灰色のコンクリートの片隅。

 そこには、胸に造花のコサージュをつけたまま、寒さと絶望でひどく小さくうずくまっている澪の姿があった。

 完璧な令嬢の仮面は完全にひび割れ、ただの迷子のように震えている。


「……澪!」


 私の声に、彼女がビクッと肩を震わせ、ゆっくりとこちらを振り向いた。

 涙で赤く腫れた目。その視線が私を捉えた瞬間、彼女の顔がくしゃりと歪んだ。


「ひな、……さ……っ」


 私は、駆け寄る勢いそのままに、冷え切った彼女の身体を力強く抱きしめた。

 コンクリートに膝をつき、彼女の背中に腕を回す。

 私の走って熱を持った体温と、彼女の冷え切った体温が、容赦なくぶつかり合う。甘いココナッツの香水と、伽羅のお香の匂いが完全に混ざり合い、一つの強烈な湿度となって私たちを包み込んだ。


「届いたよ、あんたの手紙」


 私は彼女の耳元で、荒い息のまま囁いた。


「……あんたが息ができなくなるなら、私がずっと、隣にいる。あんたの暗闇は、私が全部引き受ける」


 澪は、私のブレザーの背中を、悲鳴を上げるような強さで掴み返した。

 

 ただの共犯という都合の良い隠れ蓑は、もういらない。

 

 私たちは泥濘の底で、お互いの体温だけを命綱にして、もう二度と離すまいと必死にしがみついていた。

 予報のない春の空の下、私たちの密室は、言葉も名前も必要としない、たった一つの確かな居場所になっていた。

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