第八話:卒業、宛先なき想い
三月の夜の冷気は、二月の底冷えとは違う、どこか輪郭のぼやけた湿り気を帯びていた。
暖房のない茶室の畳の上に正座し、私は一本の万年筆を握りしめたまま、微かに震えていた。目の前には、何枚も書き損じて丸められた和紙の残骸が散らばっている。
明日は、卒業式だ。
この息苦しいモラトリアムが終わり、私たちは別々の世界へと放り出される。久瀬誠という「光」を排除して以来、私と日向さんは、あの屋上で言葉を失ったまますれ違い続けていた。
接着剤を失った私たちの関係には、名前がない。
だから、繋ぎ止めるための正当な理由もない。明日、春の光の中であの騒がしいギャルの群れに紛れてしまえば、彼女は二度と私の暗闇には触れてくれないかもしれない。
私は、震える指先で新しい懐紙を広げ、万年筆のペン先を押し当てた。
彼女を繋ぎ止めるための言葉を、書かなければならない。しかし、「友達でいてほしい」などという陳腐な言葉では、私たちの泥濘のような共鳴は表現できない。
では、「好き」なのか。それも違う。そんな甘ったるい熱を持った恋愛感情の枠組みに落とし込んでしまえば、私たちがイヤフォン越しに共有した、あの絶対的な暗闇の「無機質な冷たさ」は、ひどく矮小化されてしまう気がした。
何度もインクを重ね、塗りつぶし、また書き直す。和紙がインクの水分を吸い込み、ずしりとした物理的な重さと湿り気を帯びていく。
そこに綴られたのは、論理も語彙も放棄した、ただの剥き出しの執着だった。
『あなたなしでは、私はこの世界で息ができません。私の暗闇には、あなたのあの冷たい音が必要なのです』
宛名はない。彼女の名前を書くことすら、何かの呪いになってしまいそうで恐ろしかった。
私はその重く湿った便箋を封筒に入れ、自分の胸に強く抱きしめた。
翌朝。卒業式の当日の昇降口は、春のぬるい大気と、冷たいコンクリートの匂いが混ざり合い、ひどく息苦しかった。
私のセーラー服の胸元には、卒業生であることを示す造花のコサージュが留められている。そのピンク色の作り物めいた美しさが、完璧な令嬢という私の「表の顔」を嘲笑っているかのようだった。
まだ誰もいない薄暗い空間で、私は一八番の靴箱の前に立った。
右手に握りしめた、宛名のない和紙の封筒。これを投函すれば、私は彼女に決定的な「答え」を委ねることになる。
一八番の金属扉に、冷え切った指先をかけた。
――その瞬間だった。
「……っ」
急速に呼吸が浅くなり、耳の奥で、自分の激しい心音だけが暴力的な耳鳴りのように響き始めた。
凄まじい恐怖が、足元から這い上がってきたのだ。
この手紙を入れてしまえば、私たちの関係には明確な「名前」がついてしまう。
形を持たない共犯関係だったからこそ、私たちは絶対的な暗闇を共有できた。しかし、もしこれに「恋」や「依存」といった名前をつけてしまったら。
名前を持つものは、消費され、いつか必ず終わる。
もし彼女が、この手紙を読んで重荷に感じたら?
あるいは、一時の気まぐれとして受け入れられ、いつか飽きられて捨てられたら?
その時、私は本当に、永遠に息ができなくなる。
「やめ、て……」
誰に向けたものかもわからない掠れた声が漏れた。
恐怖で一八番の扉にかけていた指先から力が抜け、私はふらりと半歩後ずさった。全身の震えが止まらない。造花のコサージュが、私の胸を不自然な重さで圧迫する。
ダメだ。関係を固定してはいけない。このまま名前のない共犯者でいれば、傷つくことはない。終わることはない。
逃げ出したい衝動と、それでも彼女を繋ぎ止めなければという執着が、頭の中でショートする。
私は目を伏せ、逃げ出そうとする自分を無理やり抑え込むようにして、無我夢中で手を伸ばした。
震える手で、目の前にあった冷たい取っ手を乱暴に引き開け、和紙の封筒を奥へと押し込む。
カタン、と無機質な金属音が響く。
ハッとして我に返り、自分が今閉めたばかりの扉の番号へと視線を向けた。
「あ……」
半歩よろけた体勢のまま、盲目的に手を伸ばしてしまったせいで。
宛名のないその分厚い手紙は、一八番ではなく――私がかつて絶縁状を叩きつけた、すぐ隣の一九番の靴箱へと、誤って投函されてしまっていた。
最悪の誤配。
取り戻さなければ。そう頭では分かっているのに、恐怖で足がすくみ、一歩も動くことができない。
その時、昇降口の入り口付近で、誰かの話し声と足音が聞こえた。他の生徒が登校してきたのだ。
完璧な令嬢の仮面が、音を立てて砕け散るのを感じた。
私は顔を覆い、自分の犯した取り返しのつかない過ちから逃れるように、セーラー服の裾を翻して、昇降口から走り去った。
残されたのは、一九番の暗がりに落ちた、私の一番切実で、誰よりも見られたくなかった無防備な暗闇だけだった。
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