第七話:一九番の誠意、沈黙の境界線
三月が目前に迫った教室には、もはや消化試合という言葉すら生ぬるい、完全な終わりの空気が漂っていた。
黒板の隅にチョークで書かれた「卒業まであと三日」という数字が、埃っぽい日差しの中で白く浮き上がっている。
「成瀬。ちょっといいか」
昼休みの騒ぎの中、声をかけてきたのは久瀬 誠だった。
彼の顔を見て、私は息を呑んだ。いつもなら、彼の周りには無自覚で眩しい「光」が満ちているはずだった。しかし今の彼は、その光を無理やり押し殺したような、静かで陰りのある表情をしていた。
「……どしたの」
私は、なるべくいつも通りの気安いトーンを取り繕った。
「手紙の返事、来たんだ」
久瀬は、廊下の窓から射し込む春の光に目を細めながら、短くそう言った。
来たんじゃない。私と澪が、あの屋上の密室で作り上げ、昨日の朝に投函したのだ。
彼の無自覚な善意を完膚なきまでに叩き斬る、冷徹な絶縁状を。
私は、彼が逆上するか、あるいは「彼女を傷つけてしまった」と悲劇のヒーローに酔いしれるかのどちらかだと思っていた。
「俺、何も分かってなかった。五十嵐さんのこと、勝手に綺麗な作り物みたいに思い込んで、自分の気持ちを押し付けてただけだった」
久瀬の声は、静かだった。怒りも、自己陶酔もない。ただ、自分の無知と傲慢さを真正面から受け止めた、深い痛みの色だけがあった。
「あの手紙を読んで、初めて気付いたよ。俺の勝手な好意が、彼女にとっては息苦しい暴力だったんだって。……だから、もう彼女には近づかない。それが、俺にできる唯一の誠意だから」
彼は、無理に口角を上げて笑ってみせた。
その歪な笑顔が、私の胸の奥に、鋭い針を深々と突き立てた。
彼は滑稽なピエロなんかじゃなかった。彼の中にある本物の「善性」が、彼の光が、私の卑怯な罪悪感を容赦なく抉り出していく。
「……そっか。あんたがそれでいいなら、いいんじゃない」
私は、震えそうになる声を必死に押し殺し、背中を向けて歩き出した。
これで、彼という「接着剤」は完全に消滅した。私たちの密室は守られた。そう自分に言い聞かせても、足取りはひどく重かった。
放課後。
私はいつものように、屋上のコンクリートの床に座り込んでいた。
冷たい風が吹き抜ける中、隣には澪が座っている。私たちの間を繋ぐ、短いイヤフォンのコード。そこから流れる無機質なアンビエントの音は、いつもと同じはずだった。
しかし、今日の屋上の空気は、決定的に何かが違っていた。
これまでは、「久瀬への手紙を推敲する」という明確な『作業』があった。ピンクの付箋と分厚い和紙が、二人の間に交差していた。
だが今、手元にはもう推敲すべき手紙はない。
共通の敵であった「光」を排除した結果、この密室には、私と彼女だけが取り残されてしまったのだ。
久瀬のあの歪な笑顔が、脳裏にこびりついて離れない。
澪はただ、自分の暗闇を守るために彼の光を拒絶しただけだ。しかし、私は違う。表の世界では彼の「良き相談相手」として善意を受け止めるふりをしながら、裏ではその想いを切り裂くための刃を二人で研ぎ澄ませていた。
純粋な誠実さを、二重の裏切りで嘲笑っていたのは私なのだ。その拭いようのない引け目が、鉛のように私の腕を重くしている。
「……」
澪は、膝を抱えたまま、一言も発さない。
コンクリートの床に投げ出された彼女の白い指先が、私の手からほんの数センチの場所にある。昨日、あんなにも切実に私を求めて強く握り返してくれたはずのその手に、今日はどうやって触れればいいのか分からない。「手紙の推敲」という絶対的な口実を失った途端、この数センチの距離が、見えない境界線に阻まれているように遠く感じられた。
いつもなら、匂いが混ざり合う距離で肩を寄せ合っていたはずのイヤフォンのコードが、今日はなんだかひどく短く、そして窮屈に感じられた。
少しでも動けば、ピンと張ったコードが抜け落ちてしまいそうな、張り詰めた緊張感。
もし今、彼女が立ち上がってこのイヤフォンを外してしまったら。それが、私たちの関係の「完全な終わり」になる。怖くて、息をするのすら躊躇われた。
私たちは、お互いを求めている。昨日、あんなにも強く手を握り合ったのだから。
なのに、友達でもない、恋人でもない。ただの共犯者という都合の良い隠れ蓑すら失った今、この不確かな輪郭をどうやって繋ぎ止めればいいのか。言葉を持たない私たちには、その術が分からなかった。
アンビエントの電子音が、今はただ、二人の間にある冷たい沈黙を際立たせるだけのノイズに成り下がっていた。
私は、ルーズソックスを無意味に引き上げながら、じっと空を見上げた。
春のぬるい風が、私たちの間を冷酷にすり抜けていく。
卒業まで、あと三日。
このまま名前を持たない関係を放置すれば、私たちは春の光の中に溶けて、二度と交わらなくなる。その終わりの予感が、コンクリートの冷たさよりも深く、私の骨の髄まで凍りつかせようとしていた。
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