第六話:予報のない春、ほどけない指先
朝の昇降口は、相変わらず底冷えがしていた。
しかし、コンクリートから這い上がってくる冷気の中には、ほんの微かに、湿り気を帯びたぬるい風が混ざり始めている。それは、残酷なほど正確に時を刻む「春の足音」だった。
私は、日向さんと共に完成させた分厚い和紙の封筒を、一九番の靴箱へと滑り込ませた。
カタン、と金属扉が閉まる音。
これで、久瀬 誠という無自覚な光から、私は完全に解放されたはずだった。私の静かな暗闇は守られ、完璧な令嬢としての平穏な日々が戻ってくる。
……だというのに。
私の胸を占めていたのは、安堵ではなく、足元が崩れ落ちるような名状しがたい喪失感だった。
昼休みの教室。
窓から射し込む日差しは、二月上旬の白々しい斜光から、明らかな熱を持った春の光へと変わりつつあった。それは、久瀬さんの真っ直ぐな善意と同じくらいに暴力的で、私から「暗闇の密室」を容赦なく奪い去ろうとしている。
「ねえ澪、卒業式の後の謝恩会、何着てく?」
「そうですね……目立たない、落ち着いた色合いのワンピースにしようかと」
友人たちの他愛のない質問に、私は教本通りの微笑みで答える。しかし、私の内側は凄まじい焦燥感で焼け焦げそうだった。
――卒業式。
その単語が、今の私には死刑宣告のように響いた。
久瀬さんへの手紙を投函してしまった今、私と日向さんには「密会する名目」が何一つ残されていない。
あの手紙は、久瀬さんを拒絶するための刃であると同時に、私たちが屋上という密室でイヤフォンを分け合い、肩を寄せ合うための『唯一の免罪符』だったのだ。その免罪符を自らの手で破棄してしまった以上、彼女の冷たい体温に触れる正当な理由が、私にはもうない。
春が来て、卒業というタイムリミットを迎えれば。
彼女は、あのアンビエントのMDと共に、私の前から完全に姿を消してしまう。この息苦しい表の世界で、ようやく見つけた「唯一息ができる場所」を奪われてしまう。
暖房と春の日差しが混ざり合った教室の空気が、急に重く感じられた。
喉の奥がひゅっと鳴る。酸素が足りない。完璧な令嬢の仮面が、酸欠で剥がれ落ちそうになる。
私は逃げるように席を立ち、足早に廊下へ出た。
放課後の屋上。
重い鉄扉を押し開けると、冷たさを失いかけたぬるい風が吹いた。
灰色のコンクリートの片隅。そこには、いつものように重いルーズソックスを投げ出し、MDを聴きながら空を見上げている日向さんの姿があった。
その姿を見た瞬間、張り詰めていた糸がふつりと切れた。
私は、彼女の隣に座り込んだ。
いつもなら無言で差し出されるはずの片耳のイヤフォンを待つこともできず、私は自分の両手で、ギュッと膝を抱え込んだ。
私がいつものようにイヤフォンを受け取ろうとしないことに気づき、日向さんはゆっくりとこちらを向いた。彼女の耳からイヤフォンが外れ、シャカシャカという無機質な音漏れが微かに聞こえる。
「……出したわ」
震える声が、口を突いて出た。
「一九番に。あの手紙を」
「……そ。お疲れ」
日向さんの声は、いつも通りの気怠げなものだった。
その温度のなさが、今の私にはひどく恐ろしかった。目的を達成したから、もう用済みだと言われているような気がして。
「これで、もう……」
私は、膝を抱える腕に力を込めた。完璧な令嬢としての矜持も、冷徹な牙も、今はもうどうでもよかった。
「これで、もう……あの手紙を推敲する必要は、なくなったわね」
「うん」
「明日は、ここに来る理由がない。……明後日も、その次も」
言葉にするたびに、自分の首が絞まっていくのがわかる。春の陽気が、卒業が、彼女を私から引き剥がそうとしている。
「……嫌」
私は、震える冷たい指先を、コンクリートの床に強く押し付けた。
「息が、できない。あなたがいないと、私は……」
生存本能からの、無防備でみっともない吐露。
私の静かな暗闇は、もはや彼女の温度なしでは維持できないほどに、彼女に依存しきっていた。
――その時。
コンクリートに押し付けていた私の冷たい右手を、日向さんの手が、上から乱暴に覆い隠した。
「……っ」
驚いて顔を上げると、日向さんは至近距離で私を見据えていた。
派手なメイクの下にある、泥濘のように深い瞳。彼女の体温は決して熱くはなかったが、私をこの屋上に縫い留めるには十分すぎるほどの強い力で、私の指をきつく握りしめていた。
「バカじゃん、あんた」
日向さんは、鼻で笑うように息を吐いた。
「手紙がなくなったからって、何? あんたが息苦しい欠陥品で、私がその同類だって事実は、何も変わんないでしょ」
「成瀬さん……」
「理由なんかいらない。……明日も明後日も、ここで息継ぎすればいい。あんたの暗闇は、私が聴いててやるから」
握られた手から、微かな香水の匂いと、確かな『温度』が伝わってくる。
過呼吸のように乱れていた私の呼吸が、日向さんの冷たい脈動に同調し、ゆっくりと深く静まっていくのがわかった。
ロマンチックな慰めなどではない。「お前もこっち側だろ」と、泥濘の底から足を掴まれるような、切実で暴力的な接触。
私は、その彼女の指先を、すがるように強く握り返した。
ぬるい春の風が、私たちの髪を揺らす。
手紙という口実は、もういらない。予報のない春の恐怖の中で、私はただ、繋がり合ったこの冷たい指先だけを、二度と手放さないことだけを祈っていた。
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