第五話:久瀬 誠の誠実、光の中の影
二月中旬。
卒業という名のタイムリミットが刻一刻と近づく中、教室の空気はますます弛緩し、意味のない嬌声と熱気が淀んでいた。
私は相変わらず、重いルーズソックスを引きずり、机の上に腰掛けて甲高い笑い声を上げている。しかし、その笑い声の裏側で、私の意識は常に、ブレザーのポケットに入っている「あるもの」の重みに引かれていた。
幾度となく言葉を削り、赤字で真っ赤に染まった書きかけの和紙の便箋。放課後の屋上という密室で、五十嵐 澪と二人で推敲を重ねた「久瀬 誠への絶縁状」の、まだ未完成の残骸だ。
「なぁ、成瀬。ちょっといいか?」
昼休みの廊下。
自販機で買ったばかりの甘ったるいミルクティーの缶を握りしめていると、背後から声をかけられた。
振り返ると、冬の陽光を背に受けた久瀬誠が立っていた。スポーツ推薦で進路を決め、春からの新生活に胸を躍らせている、本来なら曇り一つないはずの真っ直ぐな瞳。
その無自覚な眩しさに、私は内心で舌打ちをしたくなる衝動を抑える。だが、今日の彼には微かな戸惑いの影が落ちていた。
「どしたの、久瀬。なんか浮かない顔してんじゃん」
「いや、その……五十嵐さんのことなんだけどさ」
久瀬は、少しだけ眉尻を下げて、申し訳なさそうに頭を掻いた。
「手紙を入れてから結構経つけど、まだ返事がなくて。……いや、急かすつもりは全然ないんだ。ただ、あの子すごく真面目だから、俺の勝手な想いが、逆に彼女の負担になってるんじゃないかって、心配でさ」
ミルクティーの缶を持つ手に、じわりと嫌な汗が滲んだ。
彼は本気で、澪のことを「高潔で傷つきやすいお姫様」だと信じている。彼女の沈黙を、奥ゆかしさと優しさゆえの戸惑いだと解釈し、どこまでも真っ直ぐな善意で心配しているのだ。
その純粋さが、澪の首をどれほどきつく絞め上げているかも知らずに。
「あんたさ、ホントいい奴だよね」
私の口から、乾いた声が出た。
「あんたのそういう真っ直ぐなとこ、嫌いじゃないよ。でもさ、五十嵐さんみたいな子は、あんたみたいに眩しすぎる光を前にすると、どう返事していいか分かんなくなって、逃げ出したくなることもあるんじゃない?」
私は、嘘は言っていない。
ただ、その「逃げ出したくなる理由」が、彼が想像するような可憐なものではなく、彼女の暗闇を侵犯されることへの『冷徹な拒絶』であるという事実を、残酷なまでに隠蔽しているだけだ。
「眩しすぎる、か……」
久瀬は真剣な顔で呟き、そして、ふっと柔らかく笑った。
「もし俺のせいであの子が苦しんでるなら、ちゃんと身を引くよ。あの子には、ずっとあの綺麗な微笑みでいてほしいからさ」
チクリ、と。
この無自覚で暴力的なまでに純粋な光を、私は背後から冷酷に切り裂こうとしている。
しかし、それ以上に。
あの完璧な令嬢の、誰にも見せない『冷たい牙』と『静かな暗闇』を、今この世界で私だけが独占しているという事実。その歪で背徳的な優越感が、私の胸の奥で甘い熱を持っていた。
「……そ。あんたのその誠実さ、五十嵐さんにもちゃんと伝わってるといいね」
私はミルクティーのプルタブを開け、甘ったるい液体で口の中の乾きを誤魔化した。
その日の放課後。
冷たい冬の風が吹き抜ける屋上。
私がコンクリートの床に座り込んでいると、重い鉄扉が開く音がした。完璧な令嬢の擬態を解いた澪が、冷たい風に黒髪を遊ばせながら隣に腰を下ろす。
言葉を交わすまでもない。私はいつものように左耳のイヤフォンを外し、無言で彼女に差し出した。彼女もまた、当然のようにそれを受け取り、自身の右耳へと押し込む。
出会った頃のヒリヒリとした緊張感はもうない。短いイヤフォンのコードが強制するこの密着した距離だけが、今の私たちにとっての「正解」になっていた。
頬を撫でる風はまだ冷たい。けれど、その奥に微かに混じり始めた生温かい春の匂いが、卒業というタイムリミットを容赦なく突きつけてくるようで、私は無意識に澪の肩へと自分の肩を強く押し付けていた。
「これで、最後にするわ」
澪が、冷え切った指先で一枚の真新しい和紙を差し出した。
私のポケットに入っている赤字まみれの残骸ではない。一切の修正の余地がないほど美しく清書された、完璧な最終形態。
そこに綴られていたのは、久瀬 誠の無自覚な光を完全に遮断し、二度と立ち上がれないほど正確に急所を射抜くための、残酷で美しい刃。
『久瀬様。貴方の無垢な善意は、私という輪郭を塗り潰す光です。私は貴方の思い描くような高潔な人間ではありませんし、貴方の光に救われたいとも思いません。私の静かな暗闇を、これ以上侵犯しないでください。』
私はその文面を目でなぞり、ゆっくりと頷いた。
もはや、私がピンクの付箋で赤字を入れる隙はどこにもなかった。
これは、単なる失恋の手紙ではない。久瀬誠という「表の世界」の象徴を排除し、私たちがこの屋上という密室の暗闇で完全に結びつくための、歪で神聖な儀式だった。
「完璧だよ、五十嵐さん」
私は和紙から顔を上げ、澪の冷ややかな、けれどどこか熱を帯びた瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「これで、あいつはもう二度と、あんたの暗闇には踏み込んでこない。……これで、全部終わりだ」
澪は何も言わず、ただ静かに目を伏せた。
歓喜の言葉はない。アンビエントの無機質な音だけが、私たちの間を冷たく満たしていく。
ふと、視線が交差した。彼女の瞳の奥にも、私と同じ色の揺らぎが見えた気がした。
明日の朝、この手紙が一九番の靴箱に投函されれば、久瀬誠は身を引く。澪の静かな暗闇は守られる。
――けれど、それは同時に。
明日から私たちが、この冷たい屋上でイヤフォンを分け合うための「たった一つの口実」が、永遠に失われてしまうということでもあった。
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