第四話:屋上のパルランド、不確かな共犯

 二月の朝は、世界が薄氷に覆われているかのように冷たく、静かだ。

 私はいつも通り、他の生徒たちが登校してくるよりもずっと早い時間に昇降口へ向かい、二〇番の金属扉を開けた。


 カタン、という硬質な音が冷気に吸い込まれる。


 そこには、いつもより不自然に分厚く膨らんだ和紙の封筒が置かれていた。不審に思いながら糊付けされていない口を開けると、私が昨日一八番へ投函した便箋と共に、見慣れない四角いプラスチックのカートリッジが出てきた。

 透明なケースに入った、銀色のミニディスク。曲名を示すラベルすら貼られていない、ひどく無機質な物体だ。ケースの表面には、あのショッキングピンクの付箋が貼り付けられ、乱暴な丸っこい文字でたった一言だけ、こう書き殴られていた。


『語彙なんか捨てろ。これを聴け』


 その暴力的なまでの潔さに、私は思わず小さく息を吐いた。

 言葉の応酬で私を打ち負かすのではなく、彼女は自らの持つ『虚無の温度』を、音という形で直接私に叩きつけようとしてきたのだ。

 私はそのMDを、誰にも見られないようにセーラー服のスカートのポケットへと滑り込ませた。教室で他愛のない会話に微笑みながら頷いている間も、硬質なプラスチックの感触が太ももに冷たく触れ、私の中にひそやかな焦燥を燻らせ続けていた。


 その夜。

 暖房のない、底冷えのする五十嵐家の茶室。私は一人、冷たい畳の上に正座し、部屋の隅にある無骨なMDコンポの前にいた。

 静寂の中、スロットに銀色のディスクを押し込む。ウィーン、カシャリ、と機械がディスクを読み込む音が響き、やがて再生時間だけがデジタル表示に浮かび上がった。

 私は、息を潜めるようにして再生ボタンを押した。


 ――流れ出したのは、まったく温度のない音だった。


 メロディも、歌詞もない。ただ深い海の底を漂うような、静かで、冷徹なアンビエントの電子音。

 誰かを励ますような熱もなければ、悲しみを押し付けるような湿り気もない。ただ「そこにある暗闇」を、光で塗り潰すことなく、そのままの形で肯定してくれる絶対的な無機質。

 久瀬さんの押し付けてきた無自覚な「光」とは対極にある、完全な静寂がそこにあった。


「……ああ」


 私の口から、無意識のうちに震えるような吐息が漏れていた。

 完璧な令嬢としての仮面を被り、誰にも触れさせまいと守り抜いてきた私の中の「静かな暗闇」。それが今、この音によって初めて、傷つけられることなく許容されている。

 成瀬さんは、この音を命綱にして、あのデシベルの高すぎる教室を生き延びていたのだ。私と同じように、世界に窒息しかけながら。


 彼女の抱える虚無の深さが、鼓膜を通して私の内側へと侵食してくる。

 あんな軽薄な付箋を貼る彼女の、本当の輪郭。私と同じ絶望を抱えた欠陥品。

 警戒心など、とうの昔に溶け落ちていた。代わりに腹の底から湧き上がってきたのは、自分を正しく理解する同類に出会えたという、狂おしいほどの共犯への渇望だった。


 翌日の放課後。

 私は、人気のない西階段を一人で上っていた。

 向かう先は、誰も立ち入らない冬の屋上。直感的に、彼女がそこにいると確信していた。

 重い鉄扉を両手で押し開ける。冷たい冬の突風が、私の切り揃えられた黒髪を乱暴に煽った。


 灰色のコンクリートの床。その片隅に、彼女はいた。

 重いルーズソックスを無造作に投げ出し、派手なメイクの顔を、白く濁った冬の空に向けている。その耳からは、ポータブルプレイヤーに繋がった有線のイヤフォンが伸びていた。


 私は、躊躇うことなく彼女のもとへ歩み寄った。

 私の足音に気づいた彼女が、ゆっくりとこちらを振り向く。

 私たちが、顔を合わせて明確に視線を交わすのは、これが初めてだった。

 しかし、そこに陳腐な挨拶など必要なかった。「ありがとう」というような浅薄な言葉で、この切実な共鳴を汚す気は毛頭ない。


 彼女は何も言わず、片耳のイヤフォンを外し、私に向かって無言で差し出した。

 私はセーラー服のプリーツがコンクリートの汚れに触れることも厭わず、彼女のすぐ隣に腰を下ろした。そして、差し出されたイヤフォンを受け取り、自分の右耳に押し込む。


 短いコードが、否応なく私たちの物理的な距離をゼロに近づける。少しでも首を傾ければイヤフォンが外れてしまうほどの不自由さ。けれど、その強引な繋がりが、今の私には酷く心地よかった。

 彼女のルーズソックスやブレザーからは、ココナッツのような甘い香水が漂ってくる。普段の私なら顔をしかめるようなひどく人工的な匂いのはずなのに、不思議と不快ではなかった。


 イヤフォンからは、昨夜私が冷たい畳の上で聴いた、あのアンビエントが流れている。

 視線を交わすことなく、白く濁った冬の空をただ見上げる。時折、風の音の合間に、彼女の静かな呼気が白く立ち上るのが見えた。無意識のうちに、私の呼吸の深さもそれに合わさっていく。


 パルランド――音楽用語で「語るように」。


 言葉は、一つも交わさなかった。ただ同じ冷たい音を共有し、匂いが混ざり合う距離で、互いの輪郭を確かめ合うように寄り添うだけ。それが、私たちにとっての最も雄弁な対話だった。


 完璧な令嬢としての擬態を脱ぎ捨て、泥濘のような共犯関係へと足を踏み入れた瞬間。

 冷たい風が吹き抜ける密室で、私たちは確かに、一つの暗闇を共有していた。

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