第三話:放課後のデシベル、MDの秘密
凍てつくような二月の朝。吐く息は白く濁り、昇降口のコンクリートから這い上がる底冷えが、ルーズソックスの隙間の生肌を容赦なく刺してくる。
私は、周囲に誰もいないことを確認してから、カタン、と冷たい金属音を響かせて一八番の扉を開けた。
瞬間、息が止まりそうになった。
私のスニーカーの上に、昨日私が二〇番へねじ込んだはずの、あの分厚い和紙の封筒が置かれていたのだ。
私が貼り付けた軽薄なショッキングピンクの付箋は、すでに剥がされている。代わりに、糊付けもされていない封筒の口から、新しい和紙の便箋が顔を覗かせていた。
冷え切った指先でそれを引き抜く。
端正で、恐ろしいほど隙のない万年筆の筆跡。それは、私の無遠慮な侵犯に対する、
『見ず知らずの他人の手紙を盗み見し、あろうことか赤字を入れるなど、貴方の無作法には軽蔑を禁じ得ません。
ですが、貴方の指摘が的確であったこともまた事実です。
あの無自覚な光を、彼自身が悲劇の主人公に酔うことなく完全に遮断し、私の暗闇を守り抜くには、どのような刃を突きつければよいというのでしょう。
私の実存を暴き、言葉の重みを説くほどの慧眼が貴方にあるのなら、どうせなら最後まで添削してみなさい。』
「……っは」
昇降口の静寂の中、思わず私の口から乾いた笑い声が漏れた。
怒りで私を無視するでもなく、怯えて後ずさりするでもなく。あの完璧な令嬢は、自らの『冷たい牙』をむき出しにして、私の挑発に真っ向から乗ってきたのだ。
和紙に沈んだ万年筆のインクの濃淡、筆圧の強さ。そこから、彼女の静かなる激情と、私への確かな警戒、そしてほんのわずかな『共犯』への期待が滲み出しているのがわかる。
私と同じ、世界に息苦しさを抱えた欠陥品。
心臓の奥で、得体の知れない高揚感が熱を持って脈打つのを感じた。私はその手紙を丁寧に折りたたみ、ブレザーの内ポケットへ深くしまい込んだ。
昼休みの教室は、暖房の淀んだ空気と、生徒たちの放つ熱気で満ちていた。
「マジウケる! それ超ヤバくない?」
私は机の上に腰掛け、いつものように取り巻きの中心で甲高い声を張り上げていた。しかし、頭の奥はひどく冷めきっている。
バン、バンと誰かがふざけて机を叩く音。無意味に高いデシベルの笑い声。教室中に飛び交う、中身のすっぽり抜け落ちた記号のような会話。
進路も決まり、ただ無為に消費されていくだけのモラトリアム。この表の空間に満ちるノイズは、容赦なく私の酸素を奪っていく。笑顔の仮面を顔面に貼り付けたまま、私は静かに窒息しかけていた。
ふと、廊下側に視線を向ける。
開け放たれたドアの向こうを、五十嵐が数人の女子生徒を連れて歩いていくのが見えた。
乱れ一つないセーラー服。教本通りの慈悲深い微笑み。彼女を取り囲む生徒たちは、誰も彼女の奥底にある『冷たい牙』に気づいていない。彼女もまた、この騒音の中で完璧な擬態を強いられ、息を潜めているのだ。
――あんたの本当の言葉を知っているのは、私だけだ。
そんな歪な優越感が、ひどく息苦しいこの教室で、私を辛うじて立たせていた。
放課後。
逃げるように帰宅した私は、自室のベッドに倒れ込んだ。
誰の目もない、ひんやりとした静寂。ようやく深く息を吸い込むことができる。
私はブレザーのポケットから五十嵐の手紙を取り出し、机に向かった。ピンクの付箋を取り出し、あのお嬢様の挑発に応えるための言葉を紡ごうとする。
『彼の善意を否定するんじゃなく、彼には届かない場所があることを思い知らせればいい――』
ペンを走らせては、手を止める。
違う。これじゃない。
言葉を尽くせば尽くすほど、何かが指先からこぼれ落ちていく感覚があった。
五十嵐 澪は、鋭利な論理と美しい語彙を持っている。文字の応酬だけなら、彼女の方がずっと洗練されている。
私が彼女に伝えたいのは、そんな上澄みの言葉じゃない。
なぜ、私たちがこんなにもこの世界に絶望し、窒息しかけているのか。その「虚無の温度」を伝えなければ、私は本当の意味で彼女の暗闇に寄り添うことなどできない。
言葉には、限界がある。
理路整然とした文字だけでは、私が抱える泥臭くて虚ろな熱は、彼女の分厚い壁を越えられない。
私はペンを置き、床に放り出していた自分のスクールバッグへ手を伸ばした。
派手なメイクポーチや分厚いプリクラ帳。そういう「無敵のギャル」を構成するアイテムをかき分けた、バッグの最も深い底。そこから、愛用のMDプレイヤー本体と、一枚のミニディスクを取り出す。
透明な四角いプラスチックのカートリッジ。金属のシャッターの奥には銀色のディスクが透けて見えるが、曲名を書くラベルすら貼られていない。徹底的に無機質な物体だ。
これが、私がこの騒がしい世界で正気を保つための、唯一の命綱だった。
プレイヤーのスロットにカートリッジを押し込むと、カシャリ、と硬質な機械音が鳴る。有線のイヤフォンを挿し込み、片耳に押し当ててから、再生ボタンを押した。
――静かで、温度のない、深い海の底のようなアンビエントが流れ出した。
メロディも、歌詞もない。ただ空間を漂うだけの、徹底的に無機質な電子音。誰かに共感を求めるでもなく、何かを励ますわけでもない。ただ「そこにある暗闇」を、そのまま肯定してくれる音。
しばらくその虚無の温度に浸ってから、私は停止ボタンを押し、本体のイジェクトレバーを引いた。
再びカシャリと音を立てて、四角いカートリッジが顔を出す。
これを、あのお嬢様に渡す。
優しいプレゼントなんかじゃない。これは、魂の等価交換であり、共鳴の強要だ。
五十嵐はまだ、自分の暗闇を『美しい言葉』で論理的に武装しようとしている。だから、あの鈍感な男の心にはかすりもしないのだ。
あの暴力的なまでの「
彼に突きつけるべき本当の刃を創り出すためには――まずは彼女自身が、綺麗に飾られた言葉を捨てて、私と同じこの「言葉にならない虚無の温度」の底まで沈んでこなければならない。
私は新しいピンクの付箋に、たった一言だけ殴り書きをした。
『語彙なんか捨てろ。これを聴け』
その付箋を、ラベルのないMDのケースに無造作に貼り付ける。そして、和紙の便箋とともに、一つの封筒に押し込んだ。
翌朝。
昇降口には、まだ誰も登校してきていなかった。
冷え切ったコンクリートの底冷えが、足元から這い上がってくる。私は迷うことなく、二〇番の靴箱の前へ進み出た。
冷たい金属の扉を開ける。
そして、私の最も深い暗闇を象徴するその物体を、彼女の領域へと滑り込ませた。
カタン。
扉が閉まる音が、冬の静寂に吸い込まれていく。
もはや、ただの手紙のやり取りではない。私たちは、言葉を超えた「音」という感覚の共有へと、決定的な一歩を踏み出してしまったのだ。
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