第二話:懐紙の上の激情、冷たい指先
私が
乱れ一つないセーラー服。肩まで切り揃えられた黒髪。教本通りの角度で口角を上げる微笑み。それらすべては、茶道の家元という由緒ある家に生まれた私が、周囲からの無遠慮な視線と過剰な期待をやり過ごすための、完璧で強固な「
指定校推薦で早々に有名私立大学への進学が決まった二月の教室は、私にとって完全に意味をなさない空間だ。焦燥感に駆られて参考書に嚙り付く生徒も、推薦組で固まって無意味な甲高い声を上げる生徒も、私にはただの背景でしかない。
この学園生活は、早く終わらせてしまいたい消化試合。
ただ波風を立てず、誰にも本当の私を触れさせないまま、静かに卒業という結末を迎えるはずだった。
――あんな「間違い」を、私が犯すまでは。
朝の昇降口。
私は、自分の靴箱である二〇番の金属扉を開け、そこで息を呑んだ。
冬の冷え切ったコンクリートの匂いに混ざって、微かに伽羅の香りが漂った。私の靴の上に、見覚えのある白い和紙の封筒が、無造作に放り込まれていたのだ。
それは昨日、私が一九番……
彼からの無自覚で傲慢な「光」のような告白に対し、私の中にある冷たい暗闇を絶対に明け渡さないという、生存本能からの冷徹な拒絶を綴った絶縁状。
なぜ、それが私の二〇番に入っているのだろうか。
彼が読んで、無言で突き返してきたのか。いや、あの鈍感で前向きな彼が、わざわざこんな陰湿な意趣返しをするとは思えない。まさか、投函口に引っかかって落ちていたのを、誰かが親切心で入れ直したのだろうか。
思考を巡らせながら、震える指先で手紙を拾い上げる。
しかし、次の瞬間。私の思考は完全に凍りついた。
白い和紙の封筒の中央に、ひどく場違いな「ショッキングピンクの付箋」が貼り付けられていたのだ。
そこに書かれていたのは、丸っこく、知性を欠いたような軽薄な文字。
『貴方のロジックは完璧。でも、一点だけ間違いがあるよ。
久瀬 誠という男は、この比喩を理解できるほど、言葉の重みを知らない。
このまま送ったら、彼は「自分が力不足だったから、彼女を悩ませてしまった」って、自分勝手な悲劇のヒーローに酔うだけ。
もっと、彼に伝わる言葉で。でも、二度と立ち上がれないくらい正確に、急所を射抜かなきゃ意味がない。』
「……っ」
頭の奥で、何かが冷たく弾ける音がした。
久瀬さんの字ではない。
その事実が意味することは、たった一つしかなかった。
私は昨日、誰の目も盗んで早朝に投函しようと焦るあまり、あろうことか一九番の隣の靴箱へ、手紙を滑り込ませてしまったのだ。
完璧な令嬢という分厚い仮面を被り、誰にも見せないよう深海の底に沈めていた私の「牙」を、関係のない第三者が完全に読み、あろうことか『添削』までして私の靴箱へ戻してきた。
一九番の隣。一八番。
そこに貼られたネームプレートの文字を見て、私は眩暈を覚えた。
重いルーズソックスを引きずり、派手なメイクで教室の中心を陣取る、騒音の塊のようなギャル。私から最も遠い対極の存在であり、私が普段なら決して視界にすら入れない「表の世界」の象徴。
彼女が、私の暗闇を読んだ。そして、こんなふざけた付箋で私の領域に土足で踏み込んできた。
知的なプライドをへし折られた強烈な怒りと、自分の輪郭が他者に侵犯された恐怖で、冷え切った指先が微かに震えた。私はその手紙を乱暴にスクールバッグの底へ押し込み、足早に昇降口を後にした。
昼休みの廊下。
私は、すれ違う生徒たちに完璧な微笑みを振りまきながら、遠くに成瀬さんの姿を捉えた。
彼女は取り巻きと一緒に、耳障りな笑い声を上げている。その姿は、やはり私を窒息させる騒音でしかなかった。
彼女の目に、私はどう映っているのだろうか。「すました顔して、裏ではあんな底意地の悪い手紙を書く薄気味の悪い女」とでも嘲笑っているのだろうか。
それとも――。
私は、彼女に声をかけることも、視線を合わせることもせず、ただ静かに横を通り過ぎた。
直接触れ合ってしまえば、私が必死に保っている「完璧な令嬢」の仮面が音を立てて崩れ落ちてしまう気がしたからだ。
その夜。
五十嵐家の、底冷えする茶室。
私は一人、冷たい畳の上に正座し、和紙の便箋とピンクの付箋を前にしていた。
暖房などない、静かで冷たい空間。ここは、私が唯一「完璧な令嬢」の仮面を外し、本来の深海のような暗闇に沈むことができる場所だ。
付箋の丸っこく品のない文字を、何度も目でなぞる。
『二度と立ち上がれないくらい正確に、急所を射抜かなきゃ意味がない』
……腹立たしいほど、的確だ。
私は久瀬さんを論破した気になっていたが、彼のあの「無自覚な善意」は、私が想像する以上に深く、そして鈍感だ。私の言葉は、彼にとっては難解なポエムにしか聞こえず、結局は「傷ついたお姫様を救えなかった自分」という陶酔を彼に与えるだけになるだろう。
成瀬さんは、その私の致命的なミスを、一瞬で見抜いていた。
あの、やかましくて軽薄なギャルが。
私とは対極の世界で生きているはずの彼女が、なぜ、私の冷たい暗闇をここまで正確に理解できたのだろう。
恐怖と怒りの底から、名状しがたい別の感情がじわじわと湧き上がってくるのを感じた。
それは、私の実存を初めて誰かに「正しく肯定された」という、震えるような期待。
私は今まで、誰にもこの暗闇を見せないことで自分を守ってきた。けれど、もし、この世界に私と同じように息を潜め、この不自由な空気に絶望している「同類」がいるとしたら。
私は、静かに万年筆を手に取った。
新しい懐紙を広げ、冷たい筆先を滑らせる。
久瀬さんへの手紙ではない。
成瀬さんへの、返信だ。
私の牙を嘲笑うのではなく、もっと鋭く研ぎ澄ませと挑発してきた彼女へ。
完璧な令嬢という立場を捨てて、あえてその挑発に乗り、泥濘へと踏み込む。
万年筆が和紙を擦る「カリカリ」という静かな音が、冷え切った茶室に響く。それは、私が初めて他者との共犯関係を渇望し始めた、静かな狂気の音だった。
翌朝。
まだ誰もいない、白々と冷え切った昇降口。
私は、昨日書き直した手紙を握りしめ、一八番の靴箱の前に立っていた。
古い金属の扉の冷たさが、指先に伝わる。
この扉を開ければ、私はもう「完璧で無害な五十嵐 澪」には戻れない。
それでも。
私は、凍えるような冷たい指先で、カタン、と一八番の扉を開けた。
そして、分厚い和紙の封筒を、その暗がりの中へそっと滑り込ませた。
交わるはずのなかった二人の境界線は、もう完全に溶け落ちていた。
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