宛先は、君の隣。

零縫(ほろぬい)

第一話:冬の陽光と、剥がされた擬態

 二〇〇〇年、二月。


 コンクリートの床から這い上がってくる底冷えが、タイツを通さずに生足を出している肌を容赦なく刺す。

 私、成瀬なるせ 日向ひなは小さく身震いしながら、わざとらしく弛ませた重いルーズソックスを、デコラティブなネイルを施した指先で引き上げた。接着剤で固めた爪先が、ざらついた布地に引っかかる。この歩きにくい靴下の重みも、顔の造作を変えるほどの派手なメイクも、私がこの息苦しい学園生活を要領よくやり過ごすための、分厚く着心地の良い「擬態ファッション」だった。


 卒業まで、あと一ヶ月。

 三年生の教室には今、特有の空虚な時間が流れている。スポーツ推薦で早々に大学を決めた者、指定校推薦で進路を確保した者、そして私のように、自分の身の丈に合ったそこそこの私大を一般受験し、あとは結果を待つだけの者。

 必死に参考書にしがみつく一部の生徒のピリピリとした焦燥感をよそに、大半の生徒にとってこの二月という時期は、完全に「消化試合」だった。

 

 目標も重圧もなく、ただ無為に消費されていくモラトリアム。この中途半端で退屈な宙ぶらりんの時間が、私はひどく嫌いだった。教室を満たす無意味に高いデシベルの笑い声と熱気に、毎日静かに窒息しかけていた。


「おはよ、成瀬。こないだは相談乗ってくれてサンキュな」


 背後から声をかけてきたのは、サッカー部の久瀬くぜ まことだった。

 振り返ると、冬の白々しい斜光を背に受けた彼が立っていた。スポーツ推薦でとっくに有名私大への進学を決めている彼は、重圧など何一つ知らない晴れやかな顔をしている。マフラーの隙間から吐き出される彼の息は白く、この凍てつく昇降口の温度すらも少しだけ上げているように見えた。


「おはよ。……で? 手紙、入れたの?」


「ああ、昨日。成瀬の言う通り、いきなり呼び出すより手紙の方が穏便だと思ってさ」


 数日前、私は彼から「五十嵐さんに思いを伝えたい」と相談を受けていた。

 私と久瀬は、互いに異性としてのベクトルが完全に死滅している。だからこそ、彼も私には気安く恋の相談を持ちかけられたのだろう。


 五十嵐いがらし みおといえば、茶道の家元の令嬢であり、誰に対しても教本通りの慈悲深い微笑みを絶やさない、完璧なガラス細工のような少女だ。

 指定校推薦で早々に進学を決めており、浮き足立つ周囲の喧騒から完全に切り離されたような、触れがたい空気を纏っている。


『周りは受験前で死に物狂いだってのに、よくやるよ』と内心呆れつつも、私は彼に手紙という手段を勧めた。あの隙のないお嬢様に直接告白して波風を立てるより、手紙が一番穏便で安全なやり取りだと思ったからだ。


「あの子、すごく真面目でお嬢様って感じだろ? だから、俺みたいなのがいきなり声かけて驚かせたくなくてさ。手紙なら、不器用な俺なりに一生懸命考えて、ちゃんと誠意を言葉にして伝えられるかなって」


 久瀬は、少し照れくさそうに笑いながらそう言った。

 彼は、彼女のその「美しい表面」だけを見て、勝手に高潔だと信じ込んでいる。

 なんて浅はかで、残酷な善意だろう。彼の圧倒的な「光」は、影に潜む人間の暗闇を一切想像しようとしない。彼のような人間にとって、世界は明るく正しいのが当たり前なのだ。


「まだ返事は来てないんだけどさ。焦らず待つよ」


 無邪気に笑う久瀬を見ていると、呆れを通り越して微かな憐憫すら覚える。


「そ。果報は寝て待てってやつだね」


「だな。じゃ、また教室で」


 久瀬が軽い足取りで去っていく。その背中が昇降口の向こうへ消えるのを見送ってから、私は自分の一八番の前に立った。

 古い金属の扉に手をかける。指先に伝わる鉄の冷たさが、心地よかった。


 カタン、と乾いた音を立てて扉を開けた瞬間。

 私の靴の上に、一通の白い封筒が乗っているのが見えた。


「……ん?」


 拾い上げたそれは、ずしりとした重みがあった。

 まるで上質な懐紙のような、分厚くざらつきのある和紙の便箋が何枚も入っている感触。

 宛名を見て、私は息を呑んだ。

 端正で、恐ろしいほど隙のない筆跡で、こう書かれている。


『久瀬 誠様』


 隣の、一九番に入るべき手紙。

 それを一八番の私が入手してしまった理由は、すぐに察しがついた。

 差出人は、間違いなくあの完璧な令嬢、五十嵐 澪だ。彼女は誰の目も盗んで早朝に手紙を投函しようとし、焦りか何かで、一つ枠をずらして私の下駄箱に入れてしまったのだ。


「天然かよ、あのお嬢様……」


 私はため息をつき、それを隣の一九番へ放り込もうとした。

 

 ――けれど。

 

 指先に触れる和紙の異様なまでの重さと、そこから微かに漂う、凛とした伽羅きゃらのお香の匂いが、私の動きを止めた。


 ただの「ごめんなさい」という定型文の断り状なら、こんな重さになるはずがない。

 周囲を見回す。冷え切った昇降口には、まだ誰もいない。

 少し厚みのある和紙の封筒。他人の手紙の封を切るという最低のタブー。しかし、指先から伝わってくる確かな重みが、ルーズソックスの奥底に隠した私の「退屈への虚無感」をざわつかせる。中から滲み出す得体の知れない熱に、私は抗いがたく引き寄せられていた。


 私は、糊付けされた封を静かに破った。

 中から現れた三枚の便箋。そこに綴られていたのは、甘い恋の返事でも、奥ゆかしい断りの言葉でもなかった。


『久瀬様。


 貴方は私に宛てたお手紙の中で、私のことを「光のような人だ」と表現されました。けれど、それは貴方が勝手に投影した、貴方自身の善良さに過ぎません。


 貴方の無自覚な光は、私の輪郭を塗り潰し、私の中にある静かな暗闇を力任せに奪おうとしています。


 私の沈黙を「奥ゆかしさ」と呼び、私の無表情を「高潔さ」と定義するその傲慢さが、私をどれほど息苦しくさせているか、想像したことはあるでしょうか。』


「……っ」

 

 コンクリートの底冷えすら忘れて、私はその場に立ち尽くした。

 これは、手紙の形をした「刃」だ。

 相手の光を論理的に切り裂き、自分の実存(暗闇)を絶対に明け渡さないという、生存本能からの冷徹な拒絶。


 五十嵐 澪。あの、常に静かに微笑み、誰の期待も裏切らない完璧な令嬢が、その美しい顔の裏側に、これほどまでに鋭く冷たい「牙」を隠し持っていたなんて。

 息苦しい世界に完璧に適応したフリをしながら、その実、自分を縛り付ける空気に静かに絶望している。

 私と同じだ。

 この学園で、私と同じように息を潜めている「欠陥品」が、すぐ隣の二〇番にいたのだ。

 予鈴のチャイムが鳴り響く。私はその手紙を乱暴にスクールバッグの奥底に押し込み、足早に教室へと向かった。


 昼休みの教室は、暖房の淀んだ空気と、無遠慮な高笑いに支配されていた。


「ウケるー、マジそれな!」

 

 私はいつものように取り巻きの中心で甲高い声を上げながら、机の下でこっそりと、ショッキングピンクの付箋にペンを走らせた。

 頭の中は、あの和紙に綴られた冷たい牙のことで一杯だった。彼女の大切な「静かな暗闇」に土足で踏み込む行為。激しく怒り、無視されるかもしれない。それでも、私は彼女のその牙に、どうしても触れてみたかった。


 私は、丸っこい軽薄な「ギャル文字」で、けれど一切の容赦のない赤字を書き殴る。


『貴方のロジックは完璧。でも、一点だけ間違いがあるよ。

 

 久瀬 誠という男は、この比喩を理解できるほど、言葉の重みを知らない。

 このまま送ったら、彼は「自分が力不足だったから、彼女を悩ませてしまった」って、自分勝手な悲劇のヒーローに酔うだけ。

 

 もっと、彼に伝わる言葉で。でも、二度と立ち上がれないくらい正確に、急所を射抜かなきゃ意味がない。』


 放課後。西日が差し込み、埃が乱反射する昇降口。

 生徒たちの波が引いた静寂の中、私は再び下駄箱の前に立っていた。

 バッグからあの白い和紙の封筒を取り出し、書き上げたピンクの付箋を、その中央へ無造作に貼り付ける。そしてそれを、一九番ではなく、彼女自身の靴箱である二〇番の暗がりへと滑り込ませた。


 金属の扉を閉める「カタン」という音が、夕暮れの空気に異様に大きく響く。

 それは、決して交わるはずのなかった二人の世界を、私が強引に繋ぎ合わせた合図だった。


「楽しみにしてるよ、五十嵐さん。あんたの本当の牙」


 一人呟き、私は重いルーズソックスを引きずって昇降口を後にした。

 冷たい金属の扉と、分厚い和紙。たった一つの「間違い」がもたらした、ひどくアナログで暴力的な熱。ここから、私たちの密室の共犯関係が始まろうとしていた。

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