第8話 静かな渚

夜明けが来た。


久礼浜の浜は、潮が完全に引いた後の静寂に満ちていた。空はまだ薄く青みがかり、水平線に細い光の帯が浮かんでいる。波の音は遠く、小さく、まるで息を潜めているようだった。泡は、すべて消えていた。井戸の縁も、道も、家々の軒も、昨夜までの白い膜は跡形もなく剥がれ落ち、ただ湿った砂と塩の結晶だけが残っている。


瀬名浩一は、浜の中央に立っていた。


いや、立っている、という感覚だけが残っていた。身体はもう、ほとんど形を保っていない。足元から腰までが砂に溶け込み、潮の跡のように薄く広がっている。胸から上は、まだぼんやりと人間の輪郭を残しているが、皮膚は透け、内部に無数の小さな泡がゆっくり浮遊している。顔は、半分が崩れかけ、目だけが黒く濁ったまま、遠くの海を見つめていた。


彼は、自分の名前を忘れていた。


何かを、必死に思い出そうとしている。東京の街並み。父の声。村の子供たちの笑い声。すべてが、潮の泡のように浮かんでは消える。掴もうとすると、指の間からこぼれ落ちる。


浜の端に、サエが立っていた。


彼女は一人、黒い着物をまとったまま、静かに海を眺めている。頰に伝った一筋の潮は、乾いて白い塩の跡になっていた。彼女は瀬名の方を見なかった。ただ、ゆっくりと呟いた。


「潮は、引いた。あなたが捧げてくれたから」


声は、風に溶けるように小さかった。


瀬名は、返事をしようとした。だが、口から出たのは泡だけ。白く、細かく、朝の光に透けて消えていく。


彼は、ゆっくりと海の方へ歩き始めた。足は、もう地面を踏んでいない。砂の上を、滑るように進む。身体が、潮に還るように軽くなる。視界の端に、水面が重なる。現実の浜と、水面下の村が、もう完全に混じり合っている。


水面の下では、村人たちが立っていた。拓也も、子供たちも、老女も、皆が静かにこちらを見上げている。黒い眼は、もう笑っていない。ただ、穏やかに、じっと見つめている。父の姿も、そこにあった。手を差し伸べ、微笑んでいる。


瀬名は、海辺に膝をついた。いや、膝など、もうない。身体が、泡となって広がっていく。最後に残ったのは、顔だけ。泡立つ顔が、ゆっくりと海面に沈み始めた。


その瞬間、彼は自分の名を思い出した。


瀬名浩一。


だが、次の瞬間には、もう消えていた。


海面に、泡が一つ浮かんだ。丸く、白く、静かに。泡の表面に、瀬名の顔が映る。笑っている。穏やかに、満足げに。


サエは、浜にしゃがみ込み、その泡をそっと指で触れた。泡は、彼女の指に絡みつき、すぐに消えた。


「ありがとう」


彼女は呟き、立ち上がった。潮が、ゆっくりと戻り始める。波が、足元を洗う。浜に残るのは、記憶の欠片だけ。貝殻のように散らばった、誰かの名前、誰かの笑顔、誰かの涙。


瀬名浩一は、もういなかった。


彼は、新しい調査地へ向かう列車の中にいた。窓の外に広がる海を、ぼんやりと眺めている。鞄には、調査資料。ノートには、何も書かれていない。名前を書こうとした瞬間、手が止まる。


自分の名前を、思い出せない。


列車が動き出す。海が、遠ざかる。だが、背後の窓に映る自分の顔が、一瞬だけ泡立った。笑っていた。


海は、静かに微笑んでいる。


潮は、引いた。


けれど、決して忘れはしない。


(シーズン1 完)




エピローグ

潮は、決して忘れない。


それから三年が経った。


新しい調査員が、久礼浜にやってきた。

若い女性で、名を「水野遥」という。

環境省の委託で、沿岸の生態系変化を追うための単身赴任。

彼女は、古い駅舎に降り立ち、潮の匂いに少しだけ眉を寄せた。

「ここ、なんか……懐かしい匂いがする」


村は、静かだった。

家々の数は減り、漁船も半分以下。

それでも、残った人々は穏やかだった。

誰も、大量漂着の夜のことを口にしない。

誰も、あの嵐の夜のことを語らない。

ただ、干潮の朝になると、浜の端に立つ老女が一人、じっと海を見つめている。


老女の名は、サエ。

今も女守を務めている。

髪はすっかり白くなり、背中は少し曲がったが、目は変わらず深い。

彼女は、毎朝同じ場所に立ち、同じように呟く。


「まだ、憶えているかい?」


海は、答えない。

ただ、静かに波を寄せては返すだけ。


ある日、水野遥は浜の奥で、古い祠を見つけた。

干潮時にしか姿を現さない、あの黒ずんだ石の台座。

中央に置かれた濁ったガラス板に、彼女は近づいた。

覗き込むと、そこに自分の顔が映っていた。


普通の反射。

疲れた目。

少し焼けた頰。

三十歳を過ぎたばかりの、ありふれた顔。


けれど、一瞬だけ、波が寄せた。

ガラス板の底から、何かが浮かび上がる。

青白い、笑うような顔。

見覚えのない男の顔だった。

三十代半ばくらい。

目が、黒く濁っている。


「浩一……」


遥は、思わず後ずさった。

心臓が、強く鳴った。

自分の名前ではない。

なのに、なぜか胸の奥が疼く。


その夜、彼女は宿の窓から海を見た。

月明かりのない闇の中、波が白く泡立つ。

泡の一つが、ゆっくりと浮かび上がり、形を成す。

丸く、白く、静かに。

表面に、誰かの顔が映っている。

遥は、息を呑んだ。


それは、笑っていた。

穏やかに、満足げに。

そして、泡はゆっくりと海面に沈んでいった。


翌朝、遥はサエに会いに行った。

社の前で、老女は静かに座っていた。


「あなたは……誰かの名前を、聞いたことがあるかい?」


遥は首を振った。

でも、なぜか涙がこぼれそうになった。


サエは、ゆっくりと立ち上がり、海の方を指さした。


「潮は、決して忘れない。

誰かの記憶を、泡に変えて、陸に浮かべる。

そして、時が来たら、また呼ぶんだよ」


遥は、浜へ戻った。

潮が満ち始め、波が足元を洗う。

彼女は、しゃがみ込んで、海面に自分の顔を映した。


そこに、もう一つの顔が重なった。

一瞬だけ。

黒い瞳の、穏やかな笑顔。


遥は、そっと呟いた。


「……浩一?」


海は、答えない。

ただ、静かに微笑んでいる。


潮は、引いては満ちる。

記憶は、泡となって浮かび、沈む。

そして、いつか、新しい誰かがここへ来る。


その時、また、名前を呼ぶ声がするだろう。


海は、決して忘れない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

潮喰の村 ソコニ @mi33x

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ