第7話 潮返し
夜明け前の久礼浜は、泡に覆われていた。井戸から溢れた白い泡が、道を這い、家の軒を覆い、村全体を薄い膜のように包み込んでいる。静かすぎる。人の気配がない。誰も起きていない。誰も、声を上げていない。ただ、泡が微かに弾ける音だけが、潮の呼吸のように響く。
瀬名浩一は、井戸の縁に座ったままだった。身体の半分以上が、すでに泡に変わっている。足は地面に溶け込み、手は透けて内部に無数の小さな泡が浮遊している。息をするたび、肺から白い霧が漏れ出る。だが、まだ意識は残っている。まだ、自分の名前を、辛うじて思い出すことができる。
「浩一……浩一……」
声がした。自分の声ではない。サエの声だ。
彼女は、泡の海の中をゆっくりと歩いて近づいてきた。黒い着物は濡れ、裾から潮が滴っている。顔はいつも通り、静かで、底知れぬ深さがある。だが、今の彼女の目は違う。黒く、底なしの瞳。村人たちの眠る泡の繭を、一つ一つ見下ろしながら、近づいてくる。
「サエさん……あなたは……」
瀬名は声を絞り出した。喉から泡が溢れる。
サエは井戸の前に立ち、瀬名を見下ろした。
「私は、潮喰神の代弁者。代々、この村で受け継がれてきた。女守は、いつも一人。記憶を継承し、潮に捧げられる者を選び、儀式を執り行う」
彼女はゆっくりと手を差し出した。指先から、細い潮の糸が伸び、瀬名の頰に触れる。冷たい。だが、懐かしい。父の記憶が、潮の味とともに蘇る。
「あなたは、選ばれた。東京へ逃げたはずの人間が、戻ってきた。潮はそれを待っていた。あなたを通じて、村をすべて飲み込もうとしている」
瀬名は、泡の中で身体を震わせた。
「止める方法は……ないんですか?」
サエは静かに首を振った。
「止める方法は、ある。けれど、それは……潮を返すこと。潮返し」
彼女は井戸の底を指さした。そこから、無数の黒い眼がこちらを見上げている。すべてが、笑っている。
「潮を返すには、二つの道がある。一つは、あなたが自らを捧げること。あなたの記憶、身体、すべてを潮に与えれば、村は解放される。潮は満足し、引いていく」
瀬名は、自分の泡立つ手をみた。指が、すでに形を失い始めている。
「もう一つは……村を壊すこと。潮喰神の依り代であるこの井戸を、壊す。けれど、それには……代償が大きい。村のすべてが、潮に還る。記憶も、身体も、存在も。誰も残らない」
サエの声は、淡々としていた。だが、その瞳の奥に、微かな揺らぎがあった。長い年月、代々受け継がれてきた重み。彼女自身が、潮に喰われつつある証拠。
「私は、何代も前から知っている。潮は、怒っているのではない。ただ、寂しいだけだ。人間が海を忘れ、記憶を捨て、陸へ去っていく。それが、潮の孤独。だから、憶えようとする。呼び戻そうとする。喰おうとする」
瀬名は、ゆっくりと立ち上がろうとした。だが、足はもう地面に根を張ったように動かない。泡が、腰まで這い上がっている。
「あなたは……いつから、こうだったんですか?」
サエは微笑んだ。初めて見る、哀しい微笑み。
「私は、最初から潮の一部だったのかもしれない。女守になる時、すでに記憶の半分を失っていた。けれど、残った記憶で、村を守ってきた。あなたのように、戻ってくる者を待って」
彼女は瀬名の前に跪き、手を重ねた。冷たい潮が、二人の間で混じり合う。
「選べ、浩一。自分を捧げるか。村を壊すか」
瀬名は、目を閉じた。視界の奥に、水面下の村が浮かぶ。そこでは、父が立っている。笑っている。手を差し伸べている。子供たちの声が聞こえる。拓也の声。村人たちの声。すべてが、一つの波のように重なる。
「俺は……」
言葉を吐いた瞬間、泡が喉を塞いだ。だが、瀬名は決めた。
自分を捧げる。
それが、村を救う唯一の道だと。
サエは静かにうなずいた。
「ありがとう」
彼女は立ち上がり、井戸の縁に手を置いた。古い祝詞を、低く唱え始める。声は、潮の音と混じり、村全体に響く。
瀬名の身体が、ゆっくりと泡に溶け始めた。足から、腰から、胸から。視界が白く染まる。最後に、名前を思い浮かべた。
瀬名浩一。
それが、最後の記憶だった。
泡が、すべてを飲み込んだ。
サエは、一人残った。井戸の底で、潮がゆっくりと引いていく。黒い眼が、静かに閉じていく。
だが、彼女の頰に、一筋の潮が伝った。それは、涙だったのか。それとも、ただの海水だったのか。
夜明けが、近づいていた。
(つづく)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます