第6話 泡となる者
嵐が去った翌朝、久礼浜は不気味な静けさに包まれていた。空はまだ灰色で、波の音だけが低く響いている。瀬名浩一は、家の縁側に座ったまま一晩を過ごした。子供たちは夜明け前に親の元へ帰っていったが、少女の最後の言葉が耳に残っていた。「おじさん……目が、黒い」。鏡を見なくてもわかる。自分の瞳は、もう普通の色を失っている。
村の井戸が、異変の中心だった。
朝、拓也が息を切らして駆け込んできた。顔は青ざめ、服は潮でびしょ濡れだ。
「浩一……井戸から、泡が……」
二人は急いで村の中央にある古い共同井戸へ向かった。そこは、普段は子供たちの遊び場で、石の枠に古い鉄の蓋が乗っているだけだった。だが今、蓋は外され、井戸の縁から白い泡が溢れ出していた。まるで沸騰しているように、絶え間なく噴き上がり、地面を這うように広がっていく。泡は普通のものではない。触れると、ねばつく。指に絡みつき、すぐに消える代わりに、皮膚に微かな塩の膜を残す。
村人たちが集まり始めていた。誰も近づこうとしない。ただ、遠巻きに立って見つめている。泡は、井戸から溢れるだけでなく、地面の亀裂や石の隙間からも湧き出していた。やがて、泡は人々の足元に達し、ゆっくりと這い上がる。
最初に異変が起きたのは、井戸の近くに立っていた老女だった。彼女は突然、膝から崩れ落ちた。身体が、ゆっくりと前後に揺れ始める。まるで波に揺られているように。口を開けると、白い泡が喉の奥から溢れ出した。泡は口から、鼻から、耳から、次々と噴き出す。彼女の目は虚ろになり、瞬きを繰り返すうちに、白く濁っていった。
「眠い……眠いよ……」
老女は呟き、そのまま地面に横たわった。泡が身体を覆い、まるで繭のように包み込む。呼吸は浅くなり、やがて止まった。だが、死んだわけではない。胸はまだ微かに上下している。ただ、深い、異常な眠りについている。
次に、若い男が。子供が。次々と、同じように倒れていく。泡に触れた瞬間、身体が弛緩し、口から泡を吐きながら眠りに落ちる。村全体が、静かに眠り病に侵されていく。
瀬名は、拓也を支えながら井戸の縁に近づいた。泡の海が、足元まで迫っている。視界が、また水没する感覚に襲われた。井戸の底から、何かが上がってくる。白い泡の塊が、ゆっくりと形を成す。人の形。無数の人の形。
夢の中で、瀬名は見た。
自分が海底に立っている。頭上には、久礼浜の村が、水面越しに歪んで浮かんでいる。井戸は、海底の穴のようにぽっかりと開き、そこから泡が無限に噴き出している。泡の一つ一つが、記憶の欠片だ。村人たちの記憶。父の記憶。自分の記憶。
泡は、ただの泡ではない。潮が、人間の記憶を模倣して作ったもの。記憶を喰らい、形を借り、陸に這い上がろうとしている。泡の中には、笑う顔、泣く顔、怒る顔が浮かび、ゆっくりと回転している。すべてが、潮の一部になろうとしている。
そして、瀬名は自分の姿を見た。泡でできた、自分そっくりの人形。まだ完成していない。半分はまだ人間の形を保ち、半分は泡に溶けかけている。その人形が、こちらを見て微笑んだ。
「浩一……もう、喰われているよ」
声は、自分の声だった。だが、潮の響きを帯びている。
瀬名は目を開けた。現実の井戸の前。拓也が、すでに倒れていた。口から泡を吐き、深い眠りについている。瀬名は、自分の手を見た。指先が、白く泡立っている。皮膚が、薄い膜のように透け始め、内部に泡が浮かんでいる。
「俺も……」
言葉を吐いた瞬間、喉の奥から泡が溢れた。冷たい。塩辛い。肺に満ちていく。視界が白く染まる。身体が、重くなる。いや、軽くなる。まるで、水に浮かぶように。
瀬名は、井戸の縁に膝をついた。泡が、身体を這い上がる。足から、腰から、胸から。すべてが、ゆっくりと泡に変わっていく感覚。
夢の中で見たことが、現実になる。
潮は、記憶を模して陸に上がる。人間を、泡に変えて、海に還す。自分は、もう半分以上、海に喰われている。
最後に、瀬名は思った。
まだ、名前を憶えている。浩一。瀬名浩一。
だが、その名前さえ、泡のように儚く、消えかけている。
井戸の底から、無数の黒い眼がこちらを見上げていた。すべてが、笑っている。
村は、静かに眠りについた。泡だけが、絶え間なく溢れ続けている。
(つづく)
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