第5話 白い波、黒い眼

嵐が来たのは、干潮祭の翌日だった。空は鉛色に低く垂れ込み、風が海を叩きつけるように唸りを上げている。久礼浜の家々は、窓を板で塞ぎ、軒下に吊るされた漁網が激しく揺れていた。瀬名浩一は、実家の縁側に座り、膝を抱えていた。昨夜の儀式の記憶が、まだ身体に残っている。村人たちの口から漏れた自分の名前。皮膚の隙間から噴き出した潮の糸。そして、太鼓の音が止んだ後も、胸の奥で響き続けている波のリズム。


外へ出る気力はなかったが、子供たちの声が聞こえた。悲鳴に近い、甲高い叫び。瀬名は立ち上がり、雨戸を開けた。浜へ続く道を、数人の子供たちが駆け下りてくる。顔は真っ青で、互いに手を握りしめ、転びそうになりながら逃げてくる。


「海が……海が見てる!」


一人の少女が、息を切らして叫んだ。瀬名は外へ飛び出し、子供たちを家の中に引き入れた。濡れた服から潮の匂いが立ち上る。少女は震えながら、瀬名の袖を掴んだ。


「おじさん、海に……黒い目がいっぱいあった。みんなで見てたら、急に目がこっち向いて……」


他の子供たちも頷く。口々に言う言葉は同じだった。


「海が見ている」


瀬名は子供たちを座らせ、毛布をかけた。外の風が、雨戸を叩く音が激しい。嵐の音に混じって、海鳴りが聞こえる。いつもより近く、いつもより深い。


「どこで見たんだ?」


「浜の端……白い波が来て、みんなで立ってたら……」


瀬名は、子供たちを家に残し、自分は外へ出た。雨が横殴りに顔を叩く。浜へ向かう道は、水たまりだらけで、足元が滑る。視界が白く霞む。波が、普段の倍以上の高さで打ち寄せ、引くたびに白い泡が大量に残る。その泡が、奇妙に形を保っている。丸く、連なって、まるで……眼球のように。


瀬名は足を止めた。


波打ち際で、子供たちが言っていた場所に立った。嵐の海は荒れ狂い、白い波頭が次々と崩れ落ちる。だが、その一瞬の泡の塊の中に、何かが浮かんでいる。黒い、丸いもの。無数に。


眼。


潮の泡が、黒い瞳を宿している。数百、数千の黒い眼が、波の表面で一斉に瀬名の方を向いた。瞬きはない。ただ、じっと見つめている。視線が、重い。皮膚を貫くように。


瀬名は後ずさった。だが、視界が歪んだ。目の前の海が、二重に重なる。現実の荒れた海と、その下に沈む、もう一つの海。もう一つの久礼浜。


水面の下の村は、静かだった。家々は水に浸かり、屋根だけがわずかに見える。道は海藻に覆われ、街灯の代わりに、青白い光が揺れている。そこで動いているのは、人影。村人たちだ。だが、歩き方がおかしい。皆、同じリズムで、ゆっくりと前後に揺れている。波のように。口を開け、泡を吐きながら、こちらを見上げている。黒い眼で。


瀬名は、自分の足元を見た。現実の浜の砂が、ゆっくりと水没し始めている。いや、違う。自分の視界が、水面の下に移っている。自分が、海底にいるような感覚。頭上には、現実の嵐の空。そして、波の向こうに、自分の姿が立っている。こちらを見下ろしている。泡立つ顔で。


「浩一……」


声がした。無数の声が、重なる。子供たちの声、村人たちの声、父の声。そして、自分の声。


「こっちに来い……こっちが、本当の村だ……」


瀬名は叫んだ。だが、声は水の中でくぐもる。泡になって、浮かび上がるだけ。現実の自分が、浜で膝をついている。雨に打たれながら、じっと海を見つめている。その目も、黒く濁り始めていた。


嵐がピークを迎えた瞬間、白い波が一斉に押し寄せた。泡が、瀬名の身体に絡みつく。冷たい。無数の小さな手のように。耳元で、囁きが響く。


「見ているよ……ずっと、見ている……」


瀬名は、必死に浜から逃げた。家に戻る道すがら、視界に何度も水面が重なる。歩いているのに、足が沈む。息をするたび、肺に潮が入る。家に辿り着いた時、子供たちはまだ震えていた。


少女が、瀬名を見て言った。


「おじさん……目が、黒い」


瀬名は鏡を見た。自分の瞳が、黒く広がっている。虹彩が消え、ただの深い闇。そこに、無数の小さな泡が浮かんでいた。


外では、嵐がまだ続いている。白い波が、浜を覆い尽くす。黒い眼が、すべてを見下ろしている。


そして、瀬名は気づいた。


境界が、崩れ始めている。


現実と、水面下の村が、ゆっくりと混じり合おうとしている。


(つづく)

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