第21話:笑顔を落としてください(21/30)
23:24。
洗面所のドアの前で、僕は立ち尽くしていた。
立ち尽くすと言うな。
でも立ち尽くした。
ドアの向こうには鏡がある。
鏡を見るな。
でも鏡の前で落とせ。
矛盾が、命令の形をしている。
命令の形は、正しさの形に似ている。
だから人は従ってしまう。
スマホが震える。
> 23:30 笑顔を落としてください
場所:洗面所(鏡の前)
推奨:笑わないでください
拒否すると:笑顔が固定されます
固定。
代替父の笑顔。
回覧(顔)。
予備(顔)。
全部が笑顔へ収束している。
笑顔が固定された“僕”が増える未来が、もう見えている。
僕はゆっくりドアを開けた。
洗面所の蛍光灯は点いていた。
点けた覚えはない。
でも、この家では“覚え”は弱い。
手順の方が強い。
鏡の前に、何かが置かれていた。
小さな白い皿。
その上に——透明の袋。
ラベル。
笑(脱)
拾得礼:12(予備)
燃やさないでください
笑(わらい)。
笑顔じゃない。笑そのもの。
感情が部品になっている。
袋の横に、例の手鏡が置かれていた。
神社前で伏せた手鏡。
どうやって家に戻った。
戻ると言うな。
でも戻った。
鏡面は、布で覆われている。
白い布。
まるで“見ない”ための配慮みたいに。
でも配慮は罠だ。
布の下で、鏡は待っている。
洗面台の端に、タブレットが置かれていた。
画面は既に点灯している。
「落下セッション:笑(脱)」
推奨:鏡を見ないでください
推奨:笑わないでください
手順:布を外す → 口角を下げる → 手を離す
副作用:顔の再配置
口角を下げる。
“笑わない”じゃ足りない。
積極的に下げろ。
表情筋まで命令される。
時計を見た。23:29。
カウントダウンが始まっている。
その時、廊下から足音がした。
スリッパの音。
この家には僕しかいないはずなのに。
足音がある。
足音が洗面所のドアの前で止まった。
ノックはない。
代わりに、声。
「……脱」
父の声だった。
でも、本物の父の声じゃない。
代替父の声でもない。
もっと薄い。
紙が擦れる声。
「……落とせ」
「……先に、落とせ」
先に落とせ。
テレビの字幕と同じ言葉。
僕の背中が冷えた。
冷えると言うな。
でも冷えた。
ドアの向こうにいるのは、代替父だ。
いや、代替父の“役割”だ。
父の形に入った手順が、僕を押している。
スマホが震えた。
23:30。ぴったり。
> 開始してください
推奨:ためらわないでください
ためらうな。
ためらうと、人間が残る。
人間が残ると、町は困る。
僕は鏡の布に手を伸ばした。
伸ばす指が震える。
震えると言うな。
でも震える。
布を外す=鏡を見る可能性。
見る=確定。
確定=固定。
固定=代替増殖。
それでも、やらないと進む。
進むと増える。
増えると、僕の周りが“僕”で埋まる。
布を外した。
鏡面が現れた瞬間、僕は目を閉じた。
閉じれば見ない。
見ないで済む。
……はずだった。
鏡から、声がした。
「笑ってる」
僕の声じゃない。
でも僕の声に似ている。
「いい顔だね」
薄い声。
嬉しそうな声。
でも嬉しさが“模造”だと分かる。
喜びの形だけを真似ている。
僕は目を開けそうになった。
確かめたくなる。
確かめた瞬間に終わるのに、確かめたくなる。
人間の弱さを、町はよく知っている。
タブレットが音もなく表示を変える。
「確認:笑顔が発生しています」
推奨:口角を下げてください
拒否:笑(脱)が固定されます
僕は、口角を下げようとした。
でも顔が動かない。
動かないと言うな。
でも動かない。
表情筋が僕のものじゃない。
笑う筋肉が、勝手に“上”へ引っ張る。
鏡の中の声が、もう一度言った。
「ほら」
「笑ってる」
そして、洗面所の棚の中で何かが揺れた。
カタカタ。
音は小さいのに、意味が大きい音。
僕は棚を開けた。
中に、写真立てがあった。
いつ買った。
いつ置いた。
分からない。
分からないと言うな。
でも分からない。
写真立ての中には、僕の写真。
でも笑っている。
笑っているのに、目が黒い。
レンズの目。
固定された笑顔。
写真の下に、印刷。
予備(笑)
提供者:脱
拾得礼:12
予備が増えている。
僕がまだ落としていないのに、予備が完成している。
ドアの向こうの代替父が、低く笑った。
笑い声じゃない。
紙が擦れる音に近い。
「……笑うな」
「……笑ってる」
「……落とせ」
矛盾で追い込む。
笑うな。笑ってる。落とせ。
どれも正しい形で、どれも救わない。
僕は、洗面台の皿を見た。
透明袋「笑(脱)」。
これを落とせばいいのか。
笑そのものを落とす。
落としたら、僕は笑えなくなるのか。
笑えなくなったら、僕は人間でいられるのか。
逆か。笑えなくなったら、町にとって都合がいいのか。
僕の喉が勝手に鳴った。
鳴ると言うな。
でも鳴った。
笑いが漏れそうになる。
笑いたいわけじゃない。
恐怖で顔が引きつると、人は笑って見える。
町はそれを“笑顔”として回収する。
タブレットが、最後の一文を表示した。
「笑顔を落とすには、笑ってください」
……最悪だ。
笑ってください。
笑わないでください、の次に来る命令がこれ。
矛盾の完成。
笑って落とし、落としたら笑うな。
僕は、歯を食いしばった。
そして、喉の奥から、無理やり音を出した。
「……はは」
笑い声にならない笑い。
それでも“笑った”という事実だけが必要だ。
町は事実を取る。気持ちは要らない。
その瞬間、洗面台の皿の上の透明袋が、ふっと軽くなった。
軽くなると言うな。
でも軽い。
中身が抜けたみたいに。
鏡の中の声が囁く。
「落ちた」
僕は目を閉じたまま、袋を持ち上げて、手を離した。
コトン。
落ちた音。
その瞬間、頬の筋肉から力が抜けた。
口角が落ちる。
笑う筋肉が外れるみたいに。
タブレットが即座に確定した。
「落下:笑(脱)完了」
拾得者:洗面所(鏡)
提供者:脱
推奨:鏡を見ないでください
次工程:回覧(笑)
回覧。
笑まで回覧になる。
町中が僕の笑いを共有する。
僕の笑いが、僕じゃなくなる。
その時、ドアがゆっくり開いた。
そこに立っていたのは、僕だった。
いや、僕の顔だった。
笑顔の僕。
写真の笑顔と同じ口角。
レンズみたいな黒い目。
“僕”が言った。
「似合うよ」
「笑わない顔」
笑わない顔が似合う。
それは褒め言葉じゃない。
人間から何かが抜けた証拠だ。
僕のスマホが震えた。
新しい通知。
時間指定。
> 明日 08:00 回覧(笑)を受け取ってください
場所:あなたの家(玄関)
推奨:泣かないでください
泣くな。
笑うな。
顔を見るな。
人間の出口を全部塞いでいく。
洗面台の鏡面に、布をかけようとして、僕は手を止めた。
止めたと言うな。
でも止めた。
布をかけたら、“見ない”が確定する。
確定は進行だ。
進行は回収だ。
ドアの向こうの笑顔の僕が、ゆっくり近づいてきた。
「次はね」
「“声”だよ」
(第21話・終わり)
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