第20話:笑わないでください(20/30)
21:00。
玄関の前で、僕は息を止めた。
止めたと言うな。
でも止めた。
笑わないように、という通知が頭に刺さっている。
> 回覧(顔)を受け取ってください
推奨:笑わないでください
笑うな。
笑うと何が起きるのか、もう想像がつく。
固定される。
代替父の笑顔。
“予備(顔)”の封筒。
全部が、笑顔という部品の方向へ集まっている。
玄関の新聞受けに、封筒が差し込まれていた。
昨日と同じ位置。
昨日と同じ白さ。
でも、封筒の角が少しだけ濡れている。
唾液みたいに。
触りたくない湿り気。
表に黒い文字。
回覧:顔(脱)
確認してください
笑わないでください
封筒を引き抜くと、指先が妙に温かった。
温いと言うな。
でも温い。
紙が体温を持っているみたいだ。
僕は玄関で封筒を開けた。
居間に入れたくない。
入れたら生活に根を張る。
母の回覧板で学んだ。
中から出てきたのは、回覧板。
透明カバー。
表紙。
「町内回覧:顔(脱)」
責任者:脱(だつ)
責任者。
責任という言葉が、こんなに軽い紙に載っているのが怖い。
カバーの内側、最初のページに写真が挟まっていた。
僕の顔。
免許証の写真みたいなやつ。
でも今日は、口元が少しだけ上がっている。
僕はその写真で笑っていないはずだ。
なのに、笑いかけている。
写真の端に、小さな印。
「確認:12/全戸」
もう町を回っている。
母と同じ。
最初は神社。
町の内側を一周して、最後に責任者の家へ戻る。
その戻りが、いつも最悪だ。
回覧事項の紙が続く。
本記録は「安定化」のため回覧します
受領者は「笑っていないこと」を確認してください
確認後、封筒で返礼してください
笑わないでください(固定が進みます)
鏡を見ないでください(確定が進みます)
笑っていないことを確認。
笑っていないことの証明。
そんな証明を家々がする。
町が“笑い”を管理する。
狂っている。
その時、ドアの外で足音。
二人。三人。
また来る。
回覧板は“配達”を伴う。
チャイムが鳴った。
ピンポーン。
一定の間隔。
町の呼吸。
僕はドアを開けた。
隣の奥さんが封筒を持って立っていた。
自治会の男。
そして、見知らぬ若い女性。
スマホのカメラをこちらへ向けている。
撮影。
記録の証拠。
隣の奥さんが、にこりと笑う。
優しい笑い。
でも、その笑いに“揃い”がある。
全員の笑い方が似ている。
角度が同じ。
歯の見え方が同じ。
「こんばんは」
「回覧、届きました?」
「……笑ってませんよね?」
笑ってませんよね?
質問の形をした強制。
「はい」と言えば証明になる。
「いいえ」と言えば異常者になる。
どっちも町の勝ち。
自治会の男が低い声で言う。
「確認係です」
「顔の状態を確認します」
「口角、上がっていないですね」
口角。
口角という部品を、他人が確認する。
もう人間じゃない。
規格品だ。
若い女性がスマホを構えたまま言った。
「証拠、撮りますね」
「責任者さんが笑ってないって」
証拠。
笑わない証拠。
笑うなという命令に従っている証拠。
従っている証拠を撮らせたら、次は命令が増える。
僕の喉の奥がくすぐったくなった。
笑いそうになる。
こんな状況が、皮肉すぎて。
皮肉で笑う。
笑ったら固定。
固定された笑顔の僕が増える。
僕は口を引き結んだ。
笑わない。
笑わないと言うな。
でも笑わない。
隣の奥さんが封筒を差し出す。
「返礼です」
「確認したので」
「……笑わないでくださいね」
まただ。
挨拶が呪いになっている。
僕は封筒を受け取った。
スタンプ。
拾得礼:11(返礼)
増えた。
拾得礼が10を超えた。
もう“戻れない”の段階だと感じる。
数字が自分の深さを教えてくる。
若い女性が、回覧板の写真を覗き込んで言った。
「かわいい笑顔ですね」
その一言で、背筋が凍った。
凍ると言うな。
でも凍った。
“かわいい”という評価。
評価される。
笑顔が肯定される。
肯定されると固定が進む。
僕のスマホが震えた。
通知。
> 警告:笑顔が増加しています
推奨:無表情を維持してください
副作用:代替(顔・笑)
代替(顔・笑)。
笑顔の代替。
笑っている僕が増える。
玄関の鏡(靴箱の上の小さな鏡)に、ふと視線が行きそうになった。
見たら確定する。
鏡を見るな。
でも鏡が目に入る。
町は鏡を置く場所を知っている。
隣の奥さんが、僕の視線を追って鏡を見た。
「あ、鏡」
「見ない方がいいですよ」
「……写っちゃうから」
写っちゃう。
写ると確定。
確定すると処理が早くなる。
町は処理を急ぐ時だけ優しくなる。
自治会の男が、ふっと笑った。
その笑い方が、代替父の固定笑顔に似ていた。
口角の角度。
歯の見え方。
同じだ。
僕は怖くなって、封筒を開けずに握りしめた。
でも握ると、中身が動く感触がした。
紙じゃない。
薄いプラスチックみたいなもの。
あるいは——写真。
僕は玄関のドアを閉めた。
来客を追い払うみたいに。
でも追い払えない。
町はもう家の中だ。
居間に戻ると、テーブルの上に“予備(顔)”の封筒が置かれていた。
朝、ポケットに入れたはずの封筒。
いつの間にか、テーブルに移動している。
勝手に。
僕が触っていないのに。
落とした?
落としたことになっている?
封筒の封が、半分だけ開いていた。
嫌な汗が出た。
汗と言うな。
でも出た。
封筒の中から、写真が半分見えている。
笑っている口元が見える。
歯。
口角。
固定された笑顔。
僕は封筒を閉じようとして、手を止めた。
止めたと言うな。
でも止めた。
閉じたら“区別”になる。
区別は確定。
確定したら、代替が本物になる。
逆だ。
曖昧なままの方が危険な時もある。
分からない。
スマホが震えた。
時間指定。
> 本日 23:30 笑顔を落としてください
場所:洗面所(鏡の前)
推奨:笑わないでください
笑顔を落とす。
顔を落とした次は、笑顔を落とす。
部品が分解されていく。
僕がパーツになる。
僕は洗面所のドアを見た。
中には大きな鏡。
鏡を見るなと言われている場所。
そこへ行けと言われている。
矛盾で責任を作る。
いつものやり方。
居間のテレビが、勝手に点いた。
音はない。字幕だけ。
「回覧:顔(脱)」
「次:笑(脱)」
「固定を防ぐには、先に落とせ」
先に落とせ。
落とす側の役目。
僕が落とさないと、町が勝手に落とす。
落とされると、僕の責任になる。
23:30まで、あと3時間半。
でも時間はもう意味がない。
通知が来た瞬間に、未来は始まっている。
(第20話・終わり)
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