第19話:鏡を見ないでください(19/30)
06:52。
神社前の掲示板までの道が、やけに短く感じた。
短いと言うな。
でも短い。
距離が縮むのは、僕が慣れたからじゃない。
町が近づいてくるからだ。
通知は昨夜のまま。
> 07:00 落としてください
場所:町の掲示板(神社前)
落とし物:あなたの“顔”
推奨:鏡を見ないでください
顔を落とす。
落とし物が抽象になってきた。
名前、記録、写真、爪、言葉。
そして顔。
顔は“僕”の代表だ。
落としたら、僕は誰になる?
家を出る前、洗面所に行かなかった。
鏡を見ないため。
でも、見ないこと自体が手順だ。
見ないと増えるかもしれない。
見れば確定するかもしれない。
どっちも地獄。
だから僕は“見ない”を選んだ。
選んだと言うな。
でも選んだ。
玄関を出ると、靴箱の上に小さな封筒が置いてあった。
いつの間に。
表に、黒い文字。
予備(顔)
燃やさないでください
予備。
顔に予備がある。
人間に予備がある。
この町の発想は、最初から人を部品扱いしている。
僕は封筒を開けなかった。
開けたら、顔が増える気がした。
でも封筒を置いていくと“停滞”。
停滞は増える。
だから、封筒をポケットに入れた。
入れた時点で、もう拾得だ。
07:00。
掲示板の前には、すでに人がいた。
自治会の女性。
高橋。
拾いもの好きの男。
そして、見知らぬ町の人が数人。
スマホを構えている。
朝の散歩みたいな顔で、儀式の撮影。
掲示板には、真っ白い紙が貼られていた。
紙の真ん中に、太字。
「顔(あなた)」
その下に、赤字で。
脱
……まただ。
僕の名前が消え、役割が貼られている。
顔まで役割になる。
自治会の女性が、穏やかに言った。
「時間通りです」
「落としてください」
「そして、拾ってください」
落とす→拾う。
循環。
自作自演の罪を背負わせる手順。
高橋が、昔の友達みたいに笑った。
「鏡、見てないよね?」
「いい子」
「見たら確定するから」
確定させないために見ない。
でも確定させないまま進むと、代替が増える。
第18話で学んだ。
燃やすと増える。
区別すると確定する。
見ても確定する。
見なくても増える。
逃げ道は常に“別の罠”。
拾いもの好きの男が、掲示板の横の小さな台を指さした。
そこに、手鏡が置かれている。
丸い、小さな手鏡。
誰かの化粧用みたいな安っぽさ。
でも鏡面が異様に綺麗だ。
新品の鏡。
映すために来た鏡。
自治会の女性が言った。
「ここに顔を落とします」
「落とし方は、簡単です」
「鏡を伏せてください」
「そして、手を離してください」
鏡を伏せる。
伏せると、顔が落ちる。
落ちた顔は、拾得物になる。
拾得物になった顔は、回覧板になる。
想像が勝手に繋がる。
繋がると言うな。
でも繋がる。
僕のスマホが震えた。
通知が短い。
> 推奨:鏡に触れてください
拒否すると:予備(顔)が開封されます
予備が開封される。
予備の顔が出てくる。
予備の顔。
僕じゃない僕。
代替父と同じ構造。
顔の代替が生まれる。
僕は鏡を手に取った。
手鏡は冷たかった。
冷たいものは、命がない。
命がないのに、僕を映す。
鏡面は伏せられている。
映らない。
映らない方が怖い。
映らないことが、“映る瞬間”を際立たせるから。
自治会の女性が、淡々と指示した。
「伏せて」
「手を離して」
「落としてください」
僕は鏡を地面に伏せた。
手を離そうとした瞬間、背後から声がした。
「やめろ!!」
担当医だった。
白衣のまま走ってきて、息を切らしている。
目は人間の目。
でも顔色が悪い。
彼ももう限界だ。
「津田さん!」
「鏡を落としたら、あなたの顔が“町のもの”になります!」
「……顔を取られたら」
「あなた、もう“誰”でもなくなる!」
誰でもなくなる。
それが一番怖い。
名前が消え、役割が残り、顔が消えたら——
残るのは、手順だけ。
自治会の女性が、困った顔でため息をついた。
「先生」
「口外は困ります」
困ります。
またそれ。
倫理の消しゴム。
拾いもの好きの男が、足元に何かを落とした。
コトン。
まただ。
落とし物で沈黙を作る。
落ちたのは、担当医の名札ケース。
透明のケース。
中の名前が擦れて読めない。
裏に、黒い文字。
拾ってください
担当医が止まった。
足が止まる。
止まると言うな。
でも止まる。
拾うか拾わないかで、彼の役目が変わる。
町は彼の口を縛る準備をしている。
僕は鏡から手を離せなかった。
離したら落ちる。
落ちたら顔が落ちる。
顔が落ちたら、僕はもう戻れない。
でも通知が言う。
拒否すると予備が開封される。
予備の顔が増える。
増えた顔は、きっと僕の家に現れる。
代替父みたいに。
笑顔が固定された“僕”が、居間に座るのを想像してしまった。
想像したと言うな。
でも想像した。
高橋が僕の耳元で囁いた。
「脱」
「やるしかない」
「顔はね」
「落とした方が軽い」
軽い。
軽い=手順が進む。
重い=泣く。増える。深い。
軽い=楽。
この町の軽さは、人間を薄くする。
僕は、鏡を伏せたまま――手を離した。
カタン。
鏡が地面に当たる音。
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
走ると言うな。
でも走った。
まるで皮膚の外側が一枚剥がれるような感覚。
自治会の女性が、タブレットを掲示板の横に置いた。
画面が点灯する。
「落下:顔(あなた)完了」
拾得者:町(掲示板)
提供者:脱
推奨:鏡を見ないでください
次工程:回収(顔)
鏡を見ないでください。
落とした後も見せない。
見たら確定する。
確定すると、処理が早くなる。
だから見せない。
でも、足元の鏡が、少しだけ傾いていた。
鏡面が、ほんの少しだけ僕の方を向いている。
見たくないのに、目が吸い込まれる。
吸い込まれると言うな。
でも吸い込まれる。
僕は視線を逸らした。
逸らしたと言うな。
でも逸らした。
見ない。
見ないことで、まだ“僕の顔”を僕が持っているつもりでいたい。
その時、掲示板の紙が風でめくれた。
一瞬、下の紙が見えた。
そこに印刷されていたのは——僕の顔写真。
免許証の写真みたいな、無表情の顔。
でも、目が違う。
目が黒すぎる。
レンズみたいだ。
そして、その写真の下に、太字。
「回覧:顔(脱)」
回覧。
母が回覧になった。
次は顔が回覧になる。
町中の手に触れられる。
触れられるほど、顔は変わる。
僕じゃない僕が増える。
担当医が、嗚咽みたいな声を漏らした。
でも声にならない。
名札ケースを拾おうとして、手が震える。
拾ったら沈黙。
拾わなければ増える。
彼はどっちも地獄だ。
僕のポケットが震えた。
予備封筒が、中で勝手に動いた気がする。
封筒が“開きたがっている”。
スマホが震えた。
新しい通知。
時間指定。
> 本日 21:00 回覧(顔)を受け取ってください
場所:あなたの家(玄関)
推奨:笑わないでください
笑わないでください。
笑うな。
笑うと何が確定する?
笑顔が固定される。
代替父の笑顔みたいに。
つまり、次は——
笑顔の僕が来る。
(第19話・終わり)
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