第17話:返しましょう(17/30)
「返しましょう」
看護師の声は、朝の挨拶みたいに軽かった。
父を返す。
人を返す。
そんな言葉が日常語になっている病院なんて、もう病院じゃない。
面談室2の机の上で、タブレットが白く光っている。
父の反応:確認。
影:先代 確定。
準備:完了。
手順が揃った。
父は車椅子の上で、母の写真を見つめたまま笑っている。
笑っているのに、目が薄い。
薄い目は、記録の目だ。
人の目じゃなく、“保存”の目。
担当医が震える声を出した。
「やめろ……」
「それは医療じゃない」
看護師が振り向いて、にこりと笑う。
「先生」
「医療ですよ」
「安定化です」
安定化。
もう何度も聞いた。
この言葉が出るたび、誰かが消える。
僕のスマホが震えた。
通知はもう、命令じゃなく“完了報告”に近い。
> 父(記録):回収準備完了
20:30 返却(奉納)へ移行します
場所:病院(裏口)
推奨:抵抗しないでください
抵抗しないでください。
抵抗が予測されている。
予測されている抵抗は、もう抵抗じゃない。
手順の一部だ。
看護師が車椅子を押し始めた。
父が運ばれていく。
病室じゃない方向。
裏口の方。
外部へ出る出口。
病院の外へ。
でもこれは退院じゃない。
担当医が僕の腕を掴んだ。
掴むと言うな。
でも掴んだ。
必死の掴み方だった。
「津田さん」
「あなた、まだ戻れる」
「……署名が途中なら、止められた」
「でも今は……」
今は、何だ。
“脱”として責任者になった。
回覧を回した。
影が確定した。
父が先代と言った。
もう戻れないのか。
担当医の目が潤む。
声がかすれる。
「……今は、あなたが止めないと」
「誰も止められない」
止める。
どうやって。
この町では、止めると増える。
でも増えるよりマシな地獄があるのか?
僕は担当医の手をそっと外した。
外すと言うな。
でも外した。
彼の手は震えていた。
人間の震え。
その震えだけが、ここで唯一の救いに見えた。
廊下を歩く。
看護師が父を押している。
その後ろに僕。
担当医もついてくる。
“立会”の一種みたいに。
病院の裏口に着くと、空気が変わった。
消毒液の匂いが薄れ、湿った土と落ち葉の匂いがする。
神社の匂いに近い。
病院の裏口は、神社の裏に繋がっているみたいだ。
裏口の外に、ワゴン車が停まっていた。
白い車体。
病院の送迎車みたいな顔。
でも車体の横に、小さく印刷された文字がある。
「回収」
回収車。
ゴミ収集じゃない。
人間の回収。
車の横に、自治会の女性が立っていた。
いつの間に。
時間通り。
町はいつも先にいる。
高橋もいる。
そして拾いもの好きの男。
町の人が三人ほど。
スマホを構えている。
記録する準備。
自治会の女性が、穏やかに言った。
「こんばんは」
「返却の時間です」
「お父さまを、町へ返します」
返す先は町。
病院は外部じゃない。
町の臓器だ。
看護師が父の車椅子を車の横まで押し、止めた。
父は笑っている。
笑っているのに、どこを見ているのか分からない。
目の焦点が、遠い。
遠いと言うな。
でも遠い。
自治会の女性がタブレットを持ってきた。
病院の裏口にタブレット。
もう違和感すら薄い。
慣れたくないのに、慣れてしまう。
画面が表示される。
「返却(奉納):父(記録)」
提供者:脱
対象:津田(父)
形式:搬送→奉納
推奨:泣かないでください
副作用:役割の継承
役割の継承。
ついに堂々と書かれた。
父を奉納する=先代を返す=継承。
僕が後継。
高橋が僕の肩に手を置く。
友達のふりの手。
「津田」
「いや、脱」
「今日で楽になる」
楽になる。
楽になると言うやつは信用できない。
楽になった人は、たぶん人じゃなくなる。
担当医が叫んだ。
「やめろ!!」
「その人は患者だ!」
「人だ!」
自治会の女性が、困ったように眉を下げた。
「先生」
「口外は困ります」
困ります。
この町の最強の呪文。
困ると言えば、倫理が消える。
拾いもの好きの男が、軽く笑った。
「先生、拾って」
「落ちてるよ」
足元に、白衣のボタンがもう一つ落ちていた。
コトン。
裏に、黒い文字。
拾ってください
担当医の顔が青ざめる。
拾ったら役目が進む。
拾わなければ、増える。
彼はもう逃げられない。
自治会の女性が僕を見る。
「責任者さん」
「確認の同意を」
「タップしてください」
同意。
僕の指で確定させたい。
証拠を作りたい。
僕が“選んだ”ことにしたい。
タブレットに大きなボタン。
「奉納に同意する」
僕は指を動かさない。
動かしたら終わる。
終わると言うな。
でも終わる。
父が、ふっと僕の方を向いた。
一瞬だけ目の焦点が合った。
昔の父の目だった。
そして、口が動く。
「……拾うな」
またその言葉。
父は最後の最後で、僕を止めようとしているのか。
それとも手順の一部として言っているのか。
分からない。
分からないものは、町の餌。
僕は父に近づいた。
車椅子の前にしゃがみ、低い声で言った。
「父さん」
「……俺、どうしたらいい」
父は僕の顔を見た。
見たと言うな。
でも見た。
そして、唇だけで言った。
「燃やせ」
燃やせ。
第15話で出てきた禁句。
燃やしたら代替が増える、という警告。
燃やす=手順破壊。
でも燃やすと“母じゃない母”が増えた。
父じゃない父も増える。
それでも燃やせ?
父の目は真剣だった。
初めて“手順”じゃない目。
人間の目。
自治会の女性が、少し声を強めた。
「時間です」
「同意してください」
高橋が囁く。
「脱」
「父さん、安定するよ」
「抵抗しないで」
僕のスマホが震えた。
通知。
> 20:32 同意が遅れています
遅延すると:代替父(記録)が発生します
推奨:速やかに
代替父。
父じゃない父。
そんなものが増えたら、父はもう二度と戻らない。
戻るという概念が壊れる。
僕はタブレットを見た。
ボタンの上で指が揺れる。
揺れると言うな。
でも揺れる。
その時、担当医が突然、タブレットに手を伸ばした。
伸ばしたと言うな。
でも伸ばした。
彼は叫んだ。
「俺が押す!!」
「お前じゃない!!」
担当医の指がボタンに触れる――直前。
自治会の女性が、静かに彼の手首を掴んだ。
掴む力は弱いのに、担当医は動けなくなる。
動けない。
役目が縛る。
自治会の女性が、微笑んだまま言う。
「先生」
「拾得者ではありません」
「押せるのは、責任者だけ」
責任者。
脱。
僕しか押せない。
父が、もう一度、唇だけで言った。
「燃やせ」
僕は決めた。
決めたと言うな。
でも決めた。
僕はタブレットのボタンを押さなかった。
代わりに、回収車の後部ドアに近づき、そこに貼られた“回収票”を引き剥がした。
紙が剥がれる音。
その紙には、父の名前と「回収」の文字。
僕はそれを握り潰し――
ライターを取り出した。
昨日の夜、父の言葉を予感して買っていた。
予感に従うのが手順なら、予感を裏切るのも手順破壊だ。
火をつけた。
紙の端が燃える。
燃えると、匂いが出る。
紙の匂いじゃない。
古い写真の匂い。
母の回覧板の匂い。
記録の匂い。
自治会の女性の笑顔が、初めて崩れた。
「……燃やさないでください!」
遅い。
もう燃えている。
高橋が叫ぶ。
「脱!!やめろ!!」
父が、静かに息を吐いた。
吐いたと言うな。
でも吐いた。
少しだけ、楽そうに見えた。
燃えた紙は灰になって落ちた。
灰が風で散る。
散った灰が、病院の裏口の地面に落ちる。
土に混ざる。
記録が、土に帰る。
その瞬間、僕のスマホが震えた。
通知が、いつもと違う赤い表示。
> 警告:代替が発生します
対象:父(代替記録)
発生場所:あなたの家
推奨:帰宅してください
来た。
代替父。
父じゃない父。
僕が燃やした結果、増える。
でも——
僕は初めて、町の表情が“困った”のを見た。
困る、じゃない。
本当に困っている顔。
それだけで、燃やした意味があった気がした。
気がしただけかもしれない。
でも、今はそれでいい。
(第17話・終わり)
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