第16話:面談室2へ回してください(16/30)
病院に回覧板を持っていく、という発想がまず狂っている。
でもこの町では、狂っている方が手順として“正しい”。
玄関で一晩、回覧板を抱えたまま眠れなかった。
眠れないと言うな。
でも眠れない。
透明カバーの内側で、紙が勝手に擦れる音がする。
誰も触っていないのに、回覧が“進む”。
朝になって、確認欄が増えていた。
「確認:7/全戸」
増えてる。
家から出していないのに。
家の外で回っている。
僕の家にあるのは“最後の皮”で、記録は町の中を先に走っている。
回覧板が二つある。
本物と、影。
スマホが震える。
> 回覧を回してください
次:病院(面談室2)
推奨:父に見せないでください
違反すると:父(記録)が発生します
父(記録)。
来る。
自治会の男が言った通りに、来る。
僕は回覧板を袋に入れ、病院へ向かった。
途中、交差点の信号がやけに長い。
長いと言うな。
でも長い。
待たされる時間が増えると、思考が増える。
増えた思考は、町の餌になる。
病院に着くと、受付が僕を見て一瞬だけ止まった。
止まると言うな。
でも止まった。
「……津田さん」
「面談室2へ」
言い終える前に、彼女の目が“揃う”。
揃ったら、もう個人じゃない。
面談室2の前には、誰もいなかった。
なのに、ドアは少しだけ開いていた。
歓迎じゃない。待機。
中へ入ると、タブレットが机の上に置かれていた。
いつも通りの白地に黒文字。
今日は、さらに“回覧板用の台”まである。
設備が整うほど、逃げ道が消える。
画面にはこう出ていた。
「回覧:母(記録)」
受領者:病院(面談室2)
確認者:担当医(協力者)
推奨:父へ提示しない
次工程:父(記録)準備
準備。
もう始まっている。
その時、ドアが閉まった。
カチャン。
鍵がかかる音はしない。
でも閉まるだけで十分だ。
ここでは、閉まったら終わりだ。
背後に気配。
振り向くと、担当医が立っていた。
白衣。
でも白衣が、昨日より“重い”。
清潔な白じゃなく、紙の白に近い。
担当医の目は人間の目だった。
でも、まぶたの裏に“町”がいる。
「……津田さん」
「それ、持ってきたんですね」
「……持ってくるなって言ったのに」
声は出る。
沈黙は解けた。
でも、声が弱い。
彼は戦えていない。
戦えない形にされている。
僕は言った。
「回せって、通知が」
担当医は唇を噛んだ。
噛むと言うな。
でも噛んだ。
「通知は……正しい形をしてるだけです」
「正しい形は、正しい内容じゃない」
「それ、回覧板じゃない」
「……“処置の同意書”です」
同意書。
また同意。
紙の形が変わっても、中身は同じ鎖。
机の上のタブレットが勝手に切り替わった。
「確認:完了」
拾得礼:9 発生
処理対象:母(記録)→病院保管
拾得礼:9。
もう数字が怖い。
10になったら何かが変わる気がする。
区切り。節目。
町は節目が好きだ。
担当医が急いで言った。
「津田さん、聞いてください」
「いま、あなたのお父さんに」
「“記録整理の説明”が行く」
「あなたが署名したことで——」
言い終える前に、担当医のポケットでスマホが震えた。
彼の顔が変わる。
あの表情。
通知を読んだ瞬間に、役目が書き換わる顔。
彼は画面を見せない。
でも、呟いた。
「……“落としました”」
落としました。
この町の合言葉。
床に、紙が落ちた。
病院の床に、白い紙。
拾ってください。
書いてあるのが見える。
でも拾うかどうかは、僕に委ねられたふりをされる。
タブレットが、追い打ちみたいに表示する。
「拾得:選別してください」
対象:担当医の“説明”
推奨:拾ってください
拒否:父(記録)前倒し
説明を拾う。
言葉を拾う。
拾った瞬間、担当医の言葉は僕の責任になる。
つまり、担当医は解放される。
代わりに僕が沈黙になる。
僕は、紙を見た。
紙には確かにこう印刷されていた。
「説明(担当医) 拾得物」
提供者:担当医
拾得者:脱(責任者)
役目:代弁
代弁。
僕が担当医の言葉を代わりに言う。
つまり、僕の口が病院になる。
町が僕の口を使う。
担当医が、かすれた声で言った。
「拾わないでください」
「……拾ったら、あなたの口が」
「あなたの口が、町の受付になります」
受付。
回覧板を回す窓口。
“脱”は落とす側。
落とす側は、町の受付になる。
僕は紙を拾わなかった。
床の紙は、紙のまま置いた。
置いたら増える。
でも拾ったら僕が壊れる。
壊れるのも増えるのも、どっちも地獄だ。
担当医は、安堵したように見えた。
その瞬間だけ。
部屋のスピーカーが鳴った。
院内放送じゃない。
なのに、院内放送の音質。
> 「津田様、面談室2へ」
「津田様、面談室2へ」
僕はもうここにいるのに。
呼ばれている。
“津田”が呼ばれている。
でも僕は“脱”。
名前が分裂していく。
そして——ドアが開いた。
父が入ってきた。
車椅子。
看護師に押されて。
父は僕を見た。
焦点が合っている。
合っているのに、目が“薄い”。
記録になりかけの目だ。
看護師が明るく言った。
「津田さん、面談ですよ〜」
「説明、受けましょうね」
説明。
また説明。
父は座らされ、僕の隣に置かれた。
父と僕の間に、机。
机の上には、回覧板。
母の写真。
推奨:父へ提示しない。
なのに、机の上に出されている。
推奨はいつも囮だ。
父の視線が、母の写真に落ちた。
落ちた瞬間、父の喉が鳴った。
鳴ると言うな。
でも鳴った。
獣みたいな音。
人間の音じゃない。
父が、低い声で言った。
「……回したのか」
僕は答えられない。
答えたら成立する。
成立したら父が“父(記録)”になる。
タブレットが光った。
白地に黒文字。
「父(記録) 発生条件」
母(記録)の提示:完了
父の反応:確認待ち
責任者(脱)の同意:未
同意。
僕が“はい”と言えば、父は記録になる。
“はい”と言わなければ、増える。
父が母の写真から目を離せない。
目が離れないと言うな。
でも離れない。
まるで、写真の中の母が父を引っ張っているみたいに。
看護師が、にこりと笑った。
「ご家族ですもんね」
「記録、整理しましょうね」
担当医が、かすれる声で叫んだ。
「やめろ……!」
「それは——」
その声は途中で詰まった。
詰まると言うな。
でも詰まった。
彼の口に、見えない手が入っている。
父が、僕を見た。
一瞬だけ、昔の父の目に戻った。
そして、言った。
「……お前」
「落とすな」
落とすな。
僕が母を落とした。
次は父を落とす。
落とす側の責任者として。
スマホが震えた。
短い通知。冷たい確定。
> 20:15 同意してください
対象:父(記録)
推奨:ためらわないでください
拒否すると:代替父が増えます
代替父。
母じゃない母が増えたみたいに、父じゃない父が増える。
増えるくらいなら——と、人は同意してしまう。
タブレットの画面に、大きなボタンが表示された。
「同意する」
僕の指先が、勝手に動きそうになった。
動きそうになると言うな。
でも動く。
“町の安定”という言葉が、喉の奥で腐った蜜みたいに甘く響く。
父が助かる。
順番が戻る。
病院が回る。
その代わりに、父が記録になる。
僕は、ボタンの上で指を止めた。
止めたと言うな。
でも止めた。
父の目が、母の写真の中の“影”に吸い込まれていく。
影が濃い。
濃くなった影は、もう誰かじゃなく“役割”だ。
そして、父が小さく笑った。
笑ったと言うな。
でも笑った。
「……先代」
言ってしまった。
影の名前。
僕が言わなかった言葉を、父が言った。
タブレットが即座に確定する。
「父の反応:確認」
「影:先代 確定」
「父(記録)準備:完了」
僕が押していないのに、世界が進む。
僕の指じゃなく、父の口で。
面談室2の空気が、ひゅっと軽くなった。
軽くなると言うな。
でも軽い。
儀式が通った合図。
看護師が笑って言った。
「じゃあ、次ですね」
「“父”を、返しましょう」
(第16話・終わり)
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