第11話:署名してください(11/30)
20:00ちょうど。
居間の蛍光灯がやけに白く、テーブルの木目がくっきり見えた。
見えすぎる部屋は、逃げ場がない。
同意書は、僕の前に置かれている。
神社でもらった封筒に入っていたやつ。
紙の角が揃いすぎていて、触る前から“正しい向き”が分かる。
テーブルの向かい側に、二人座っていた。
一人は自治会の女性。
もう一人は――病院の担当医。
担当医は顔色が悪い。
目の下が濃い。
そして胸元に、透明の名札ケース。
昨日の面談室2から、完全に抜けられていない人の姿。
自治会の女性が、優しい声で言った。
「こんばんは」
「立会です」
「安心してください」
安心。
安心ほど信用できない言葉があるだろうか。
担当医は、小さく頭を下げた。
声が掠れている。
「……津田さん」
「お願いです」
「これは、病院の正式な書類じゃありません」
「署名しないでください」
“お願いです”。
弱いお願い。
でも、彼の目は必死だった。
必死な目だけが、ここで唯一“人間”っぽい。
自治会の女性は微笑んだまま、担当医を見た。
「先生」
「外部の言い方ですねぇ」
「ここは“町のやり方”です」
外部。
担当医はまだ外部を名乗りたい。
でももう協力者だ。
僕は同意書を見た。
署名欄に「津田 恒一」と書く。
たったそれだけで、父の記録が“整理”される。
整理=回収=消去。
家族写真が回収される。
写真の影が確定する。
影の名前が、紙になる。
自治会の女性が、ボールペンを差し出した。
新品のボールペン。
袋に入ったまま。
開封の音が小さく鳴る。
「これで」
「署名してください」
「20:00です」
「時間通り。良いことです」
時間通り=良い。
遅れる=増える。
この町の倫理は時計でできている。
僕はペンを受け取らなかった。
受け取ったら、書く手が動く。
受け取らなければ、まだ“自分の判断”が残る。
担当医が、急いで言った。
「津田さん、聞いてください」
「あなたのお父さんの状態は――」
その瞬間、担当医のスマホが鳴った。
通知音。
彼の顔が固まる。
画面に表示された文字が、僕にも見えた。
> 拾ってください
落とし物:言葉
提供者:担当医
役目:沈黙
落とし物:言葉。
提供者:担当医。
役目:沈黙。
担当医の口が、開いたまま閉じなくなった。
声が出ない。
いや、出せない。
“沈黙”が役目になった人間は、何も言えない。
自治会の女性が、穏やかに頷く。
「ありがとうございます」
「先生、協力してくださって」
担当医の目が潤んだ。
泣いているんじゃない。
言葉が出ないから、目が代わりに溢れる。
僕は喉の奥が熱くなった。
怒りか、恐怖か、分からない。
分からない感情は、一番扱いやすい。
町にとって。
自治会の女性が、机の上にタブレットを置いた。
いつの間にか持ってきていた。
画面が点灯する。
「署名:開始」
署名者:津田 恒一
同意対象:父(記録整理)
推奨:ためらわないでください
拒否:拾得物増加(家族)
家族が増える。
家族が拾得物になる。
父だけじゃない。母も僕も。
そして、タブレットの横に小さな封筒が置かれた。
表に僕の名前。
スタンプ。
拾得礼:5(先払い)
先払い。
署名の前に礼。
先に餌を置いて、手を動かす。
僕は封筒を見た。
開けるのが怖い。
でも、開けないと“手順を止める”。
止めると増える。
自治会の女性が、柔らかく言った。
「開けてください」
「必要なものです」
「あなたにとって」
僕は封筒を開けた。
中に入っていたのは、鍵だった。
小さな金属の鍵。
そして木札。
拾ってください
……最初の鍵。
あの日、坂の入口で拾った鍵と同じ形。
同じ木札。
同じ文字。
でも、違う。
木札の裏に、今度ははっきり刻まれていた。
「落とす側」
喉が鳴った。
鳴ると言うな。
でも鳴った。
自治会の女性が、静かに言った。
「それが、あなたのお礼です」
「あなたはもう、拾う側だけではありません」
「落とす側の準備が整いました」
準備。
準備が整うほど、戻れない。
タブレットの画面に、署名欄が大きく表示された。
指で書ける。
ペンすらいらない。
署名してください
僕が黙っていると、自治会の女性は、さらに穏やかに言った。
「津田さん」
「署名しないと」
「お父さんの“順番”が後ろになります」
「病院はね、順番で回るんです」
「町も、順番で回るんです」
順番。
回覧板みたいに回る。
父の順番が回る。
僕の名前も回る。
担当医は、必死に首を振った。
声は出ない。
でも“やめろ”を身体で叫んでいる。
その姿が痛い。
でも、助けられない。
助けようとすると、僕が拾う。
拾うと、沈黙が僕に移る。
僕のスマホが震えた。
短い通知。
> 署名してください
署名すると:父の状態が安定します
署名しないと:拾得礼が“家族”になります
安定。
安定化。
父の安定と、家族の回収。
天秤が、見える形になった。
僕は、手を伸ばした。
タブレットの署名欄に指を置いた。
指先が冷たい。
冷たい指で、名前を書く。
その瞬間、居間の空気が“進む”。
進むと言うな。
でも進む。
どこかで歯車が噛み合う音がした気がする。
家の中で音がしたのに、家の音じゃない。
僕は署名を書き始めた。
「つ」まで書いたところで――
玄関のチャイムが鳴った。
ピンポーン。
自治会の女性は微笑み、手を止めた。
「来ましたね」
「次の立会人です」
次の立会人。
誰が来る。
誰が増える。
担当医が、目を見開いた。
そして、口を動かした。
声は出ない。
でも唇の形で分かった。
“逃げろ”
僕は指を止めた。
止めたと言うな。
でも止めた。
署名は途中。
途中は一番危ない。
儀式は途中が一番怖い。
チャイムがもう一度鳴る。
律儀な間隔。
町の呼吸。
自治会の女性が、立ち上がった。
「出ましょう」
「拾ってください」
(第11話・終わり)
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