第10話:消さないでください(10/30)
18:02。
神社前の掲示板は、夕方の斜め光を受けて妙に白く見えた。
昼の神社は観光みたいで、余計に気持ち悪い。
“普通”の顔をして、手順だけが生きている。
僕は車を少し離れた場所に停め、歩いた。
逃げるためじゃない。
逃げられないから、せめて遠回りして“自分で来た”気分を作る。
それが、同意の準備だ。
掲示板の前には、すでに人がいた。
自治会の女性。
佐伯さん。
拾いもの好きの男。
それから、見覚えのない町の人たち。
みんな手にスマホを持っている。
見ている。
見られている。
そして、記録している。
掲示板には紙が一枚、真ん中に貼られていた。
A4。真っ白。
でも文字がある。黒い文字。
「回覧板(あなたの名前)」
その下に、太い赤字。
津田 恒一
……僕の名前が、掲示板に貼られている。
回覧板じゃない。告示だ。
町が僕を掲示している。
自治会の女性が、いつもの穏やかな声で言った。
「時間通りですね」
「消さないでください」
「剥がさないでください」
「……拾ってください」
拾う。
掲示板から。
僕の名前を。
拾いもの好きの男が、口元だけ笑った。
「これ、消したくなるよね」
「でも消したら増える」
「増えると、次は“家族”になるよ」
家族。
父の指の爪。
家族写真。
“提供者:津田”。
全部が繋がっている。
僕は掲示板の紙を見た。
ただの紙だ。
でも指を近づけると、紙が“待っている”感じがする。
落とし物が人を選ぶ。
紙が僕を選んでいる。
スマホが震えた。
通知。
> 拾得:実行してください
対象:あなたの名前(回覧)
推奨:ためらわないでください
拒否すると:町の協力が減ります
町の協力。
協力が減ると、父の病院での扱いが変わる。
救急が遅れる。
薬が遅れる。
“外部”に相談できない。
見えない圧力が、見える脅しになる。
自治会の女性が、掲示板の横に置かれた回覧板を指さした。
透明カバー。
表紙が今日のために新しくなっている。
「拾得者(津田)回覧:名前の返却」
“返却”。
名前を返す。
どこへ?
誰へ?
町へ?
佐伯さんが、声を落とした。
「……津田くん」
「これ、剥がしたらダメ」
「剥がすとね」
「町があなたの“代わり”を作る」
代わり。
僕の代わりの津田。
それは、僕が消えるってことだ。
自治会の女性が、手順の声で言う。
「紙を、回覧板に挟んでください」
「挟んだら、あなたの名前は“回覧”になります」
「回覧になったら、家々があなたの名前を受け取り」
「お礼を返します」
「それで、あなたの名前は安定します」
安定。
安定化。
あの言葉は、いつも消える前に言われる。
僕は掲示板の紙に手を伸ばした。
触れた瞬間、紙がふわっと剥がれた。
画鋲は刺さっていない。
最初から“剥がれるため”の紙だ。
剥がれると、拾ったことになる。
紙を回覧板に挟む。
その行為だけで、僕の名前が町を回る。
町中の手に触れられる。
触れられる名前は、僕のものじゃなくなる。
でも手順は進む。
進まないと増える。
僕は紙を回覧板に挟んだ。
その瞬間、背後でスマホのシャッター音が一斉に鳴った。
パシャ、パシャ。
町が、僕の“同意”を記録する。
証拠を取る。
証拠があると、後戻りできない。
タブレットがどこからともなく点灯し、掲示板の横に置かれていた。
また白地に黒文字。
「返却:名前(回覧化)完了」
拾得礼:4 発生
拾得礼:4。
また増えた。
何も拾ってないつもりでも、拾っている。
名前を拾うだけで礼が増える。
自治会の女性が僕に封筒を差し出した。
表に僕の名前。
スタンプ。
拾得礼:4
封筒を開ける前から分かる。
“お礼”はもう千円札じゃない。
必要なものほど餌になる。
次は何だ。
家族か。
父か。
あるいは僕自身か。
僕は封筒を開けた。
中に入っていたのは――紙だった。
折りたたまれた、病院の検査結果用紙みたいな紙。
上部に印刷された病院名。
父が入院している病院の名前。
そして、太字の見出し。
「同意書」
同意書。
また同意。
内容を読んだ瞬間、視界が狭くなった。
> 「患者:津田(父)に関する処置について、家族として同意する」
「処置内容:安定化のための記録整理(家族写真の回収)」
「提供者:津田 恒一」
「署名欄:津田 恒一」
提供者:津田。
僕が提供する。
父の“記録”を。家族写真を。
回収される。
整理される。
整理は、消えることだ。
拾いもの好きの男が、楽しそうに言った。
「いいねえ」
「ここから“秘密”が本格的になる」
「署名、早い方がいいよ」
佐伯さんが、震える声で言った。
「……書いちゃダメ」
「書いたらね」
「父さん、戻らない」
父さん。
佐伯さんは僕の父をそう呼んだ。
昔からの付き合い。
だから知っている。
“戻らない”を。
自治会の女性が、優しく言った。
「書いてください」
「書かないと、町の協力が減ります」
「協力が減ると」
「病院の“順番”が変わります」
順番。
病院での順番。
救急の順番。
薬の順番。
父の順番。
この町は、インフラを人質にする。
善意の顔で。
僕のスマホが震えた。
短い通知。
時間指定。
> 本日 20:00 署名してください
場所:実家(居間)
立会:自治会/病院担当
推奨:ためらわないでください
立会。
居間で。
僕の家の居間が、町の面談室になる。
僕は同意書を握り潰しそうになった。
潰すと増える。
消すと代わりが作られる。
破ると、もっと強い紙が来る。
この町の紙は、破れない。
自治会の女性が、最後に言った。
「消さないでくださいね」
「……あなたの名前も、同意も」
「町が困りますから」
夕方の神社の前で、僕は初めて“町”そのものに触った気がした。
紙を通して。
名前を通して。
同意を通して。
そして、僕は分かった。
落とし物は人を選ぶんじゃない。
町が人を選ぶ。
(第10話・終わり)
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