第6話:免許証を拾ってください(6/30)


玄関のたたきに落ちた免許証は、濡れていないのに湿って見えた。

紙じゃない。プラスチックのはずなのに、手汗みたいな湿り気がある。


表には僕の顔。

裏には僕の住所。

その上に、薄いスタンプが押されていた。


拾得礼:2


……増えている。

佐伯さんちで受け取ったのは「1」だった。

まだ二件目に入る前なのに、もう「2」。

拾う前から数えられている。


自治会の男が、僕の横で口を結んだ。

さっきまで軽口を叩いていたのに、急に黙った。

黙ると言うな。

でも黙った。

彼は“これ”を知っている。


中年の男――表札のない家の男は、玄関の柱に寄りかかって僕を見ている。

目が笑っている。

笑ってるのは楽しさじゃない。確認だ。

僕が拾うかどうかの確認。


僕は免許証を拾わなかった。

拾いたくない。

拾った瞬間、役目が増える。

でも拾わないと、次が増える。

どちらにせよ増える。

増えるのなら、せめて自分のタイミングで……そんな考えが頭をよぎる。

それが“手順に従う準備”だと、分かっているのに。


男が、ゆっくり言った。


「拾わないの?」

「落ちてるよ」

「……落とした人、困るでしょ」


落とした人。

僕だ。

でも、僕が落とした覚えはない。

この町では、“覚えがない”は無効だ。

現物がある方が事実になる。


自治会の男が小さく咳払いした。


「津田さん」

「拾って……ください」


言い方が変だ。

自治会の男が、僕に“お願い”をする。

でもこの町のお願いは命令だ。

お願いの形で責任を渡す。


僕は免許証を拾った。

拾った瞬間、スマホが震えた。

昨日と同じ番号からの通知。


> 拾得完了。ありがとうございます。

落とし物:身分証

役目:返却(即時)

推奨:謝らないでください




謝るな。

ここで謝ったら、僕が本当に落としたことになる。

謝ると“自白”になる。

自白は、深くなる。


男が笑った。


「よし」

「ちゃんと拾えたね」


彼は免許証を指でトントンと叩いた。

叩く音が、やけに軽い。

軽いのに重い。

頭の奥まで響く。


「じゃあ、返して」


返す。

返すほど深くなる。

でも“即時返却”。

逃げる余白がない。


僕は免許証を男に差し出した。

差し出した瞬間、男は受け取らなかった。

受け取らない。

その動きが、意地悪じゃなく“手順”だと分かるのが最悪だ。


男は、顎で回覧板を示した。


「回覧板、見て」


僕は回覧板を開いた。

透明カバーの内側に、また紙が増えている。


「拾得物:個人情報(処理対象)」


免許証(住所)


保険証(番号)


家族(同意)


父(保護)



……免許証が“個人情報”として処理対象に入っている。

返すだけじゃ終わらない。処理する。

処理ってなんだ。シュレッダーか?

情報を消すのか?

それとも、別の形に変えるのか?


男が、のんびり言った。


「返すってさ」

「そのまま戻すことじゃないんだよ」

「返すってのは、ちゃんと片付けるってこと」


片付ける。

家の中の物を片付けるみたいな口ぶりで、人の身分を片付ける。


男は玄関の奥に引っ込み、何かを持って戻ってきた。

小さな封筒。

また封筒。

表に僕の名前がある。

用意されている。


「お礼」

「受け取って」


僕は拒否しようとした。

でも、拒否が“成立しない”のはもう学んだ。


封筒を受け取ると、中身は千円札……ではなかった。

中に入っていたのは、小さな透明な袋。

病院の処方薬みたいな袋。

そして、その中には――黒い爪が一本。


爪。

人間の爪。

切った爪じゃない。

根元が赤い。

剥がしたみたいに。


袋のラベルに、印刷。


「拾得礼:2」

「返却処理:開始」


吐き気が込み上げた。

込み上げると言うな。

でも込み上げた。


男は、僕の反応を見て満足そうに言った。


「うん」

「それが“片付け”の最初」

「拾ったら、返す」

「返すには、お礼」

「お礼は、町が選ぶ」


自治会の男が青い顔で言った。


「……もう、次行きましょう」

「津田さん、ここは、これ以上……」


これ以上。

つまり、この家は“拾いもの好き”で、深さが違う。


男は笑って、最後に言った。


「免許証は返したよね?」

「じゃあ、次は――」

「落とす番だよ」


落とす番。

骨格にある“役割交代”が、もう匂ってくる。


僕は自分の財布を確認した。

免許証がない。

当然だ。

でも――代わりに、知らないカードが入っていた。


白いプラスチックカード。

表に印刷。


「拾得者証」

津田 恒一

ランク:2

役割:回収・処理


拾得者証。

ランク。

役割が更新される。


スマホが震えた。

新しい通知。


> 本日 22:30 処理してください

場所:神社(社務所裏)

対象:拾得礼:2(爪)

推奨:捨てないでください




捨てるな。

捨てたい。

捨てれば終わる気がする。

でも捨てると増える。

町はそういう作りだ。


自治会の男が、やっと本音みたいな声で言った。


「津田さん……」

「これ、町の中だけで終わらせてください」

「外に出すと……」


彼は言いかけて、口を閉じた。

閉じたと言うな。

でも閉じた。

言えない。言うと拾うから。


僕の手の中の袋が、やけに軽い。

軽いのに、指先が痺れる。


今夜22:30。

神社で“処理”。

爪を、どうする。

返却処理とは、何だ。


空が、だんだん暗くなっていく。

暗くなるほど、町の手順は見えやすくなる。


(第6話・終わり)

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