第5話:回覧板を回してください(5/30)



病院を出た時、空がまだ明るいのが気持ち悪かった。

夕方の光が、何も知らない顔で町を照らしている。

僕だけが汚れているみたいに見える。


車に乗り込むと、助手席に紙の束が置かれていた。

置いた覚えはない。

病院からここまで、誰も車内に入っていない。

でもそこにある。


回覧板。

透明のカバーに挟まれた、自治会の回覧板。

表紙に太い文字で書かれている。


「拾得者 回覧」


そして、いちばん下に小さく。


津田 恒一


……僕の名前。


指が冷たくなった。

紙に触れる前から、紙のほうが僕を触っている。


スマホが震える。

通知。


> 返却手続き:次工程

回覧板を回してください

期限:明日 08:00

遅れると、拾得物が増えます




遅れると増える。

やれば深くなる。

やらなければ増える。

町の選択肢は、いつもこの二つだ。


実家に戻ると、玄関の前に誰かが立っていた。

昨日の自治会の女性――じゃない。

今度は、若い男。二十代後半くらい。

作業着っぽい服で、腕章をつけている。


自治会 連絡員


名札がよく見える位置にある。

見せるための名札。


彼は僕を見るなり、にこりと笑った。


「津田さんですよね」

「回覧、届きました?」


届きました?

まるで宅配便の確認みたいな口ぶり。

でも僕が今持っている回覧板は、僕の車に“勝手に”置かれていた。


「……誰がこれを」


僕が言い終える前に、男は指を立てた。


「細かいことはいいんです」

「手順ですから」

「今日中に一件目、回してほしいんです」


今日中。

期限は明日8時。

でも“今日中に一件目”。

手順は常に前倒しで、逃げる余白を奪う。


男は、玄関の横のポストを指さした。

ポストの中に、白い封筒が増えている。

いつ入った?


封筒の表に、同じ文字。


拾ってください


封筒を開けると、紙が一枚。


「回覧板を回す際は、お礼を受け取ってください」

「受け取らないと、返却が成立しません」


またお礼。

返すたびにお礼。

お礼が増えるほど、抜けられなくなる。


自治会の男が、明るく言った。


「じゃ、最初の家はここです」

「津田さん、覚えてます? 子どもの頃、よく遊んだ」

「佐伯さんち」


佐伯。

名前を聞いた瞬間、胸が少し痛んだ。

昔、よく面倒を見てくれた近所のおばさんの家だ。

あの人に、こんな回覧板を持っていくのか。


僕は回覧板を抱え、男の後について歩いた。

夕方の住宅街。

車が少ない。

人が少ない。

なのに、窓のカーテンの隙間から視線が刺さる。

見ている。

見ていないふりで、見ている。


佐伯さんちの門の前に立つと、男が小声で言った。


「……いいですか」

「ここ、失敗すると増えるんで」


失敗。

回覧板で失敗って何だ。

回覧板は、回すだけだろ。


男はインターホンを押した。

押す指が迷いない。

慣れている。


すぐに玄関が開いた。

佐伯さんが出てきた。

昔と同じ顔。

でも目が違う。

目が“手順”の目になっている。

優しさの中に、監視が混じっている。


「まあ、津田くん」

「帰ってきたんだねぇ」


嬉しそうに言う声と、腕の動きがズレている。

声は歓迎。腕は“回覧板を受け取る準備”。

もう決まっている。


僕が回覧板を差し出すと、佐伯さんは当たり前のように受け取った。

そして、表紙の「拾得者 回覧」を見て、ほんの少しだけ表情が硬くなる。


「……そう」

「拾ったんだね」


拾った。

落とし物を。

僕の役目を。


佐伯さんは玄関の中に一度戻り、すぐに戻ってきた。

手に、小さな封筒を持っている。

昨日もらった封筒と同じサイズ。

同じ手触り。


封筒の表に、僕の名前が書いてあった。

手書き。


「お礼」

「町の決まりだから」

「受け取ってね」


受け取れ。

受け取らないと成立しない。

紙に書かれていた通りだ。


僕は受け取った。

受け取った瞬間、佐伯さんの肩がほんの少し落ちた。

“良かった”の動き。

手順が通った合図。


佐伯さんが、低い声で言った。


「……津田くん」

「これ、誰にも言わない方がいい」

「外の人に」


外の人。

つまり、病院の“担当医”みたいな人。

外部は飲まれる。

飲まれたら、救いが消える。


僕が口を開こうとすると、佐伯さんは笑顔に戻った。

笑顔という膜。


「じゃ、次ね」

「回覧板、ちゃんと回して」

「……遅れると、増えるから」


佐伯さんも同じことを言った。

遅れると増える。

町全体が同じ口を持っている。


自治会の男が僕を促した。


「次、行きましょう」

「あと、四件」


四件。

今日中に一件目と言ったのに、今日中に五件回す気だ。

前倒し。

余白を削る。

追い込んで、習慣にする。


歩きながら、封筒を開けてしまった。

中身は千円札。

昨日と同じ。

同じ額。

同じ重さ。


でも、札の裏にスタンプが押されていた。


「拾得礼:1」


1。

カウント。

お礼が数えられている。

数えられると、貯まる。

貯まると、返したくなる。

返すと深くなる。


回覧板の透明カバーの内側に、もう一枚紙が増えているのに気づいた。

さっきはなかった。


「回覧板チェック」


1件目:完了


2件目:未


3件目:未


4件目:未


5件目:未



チェックリストが、自動で増える。

町が管理している。


そして、いちばん下に小さな追記。


「拾得物:あなたの名前(進行中)」

「拾得物は、回覧板で回収します」


……僕の名前を回収する?

回覧板で?


自治会の男が、何気なく言った。


「そういえば」

「津田さん、名字の“津田”って」

「この町だと、もう少ないんですよ」

「残ってる家、片手くらい」


片手。

少ない。

残ってる。


――消えた家がある。

“残ってる”の反対は、何だ。

出ていった?

それとも、別の形で“消えた”?


二件目の家の前に立った。

門柱の表札が見える。

知らない家じゃない。

でも、思い出せない。

思い出せないのが怖い。

町が、記憶の穴を作っているみたいで。


自治会の男が、インターホンに指を伸ばす。


「ここ、気をつけてください」

「この家は……」

「拾いもの、好きなんで」


好き。

拾いものが好き。

そんな言い方があるか。


チャイムが鳴った。

中で足音がする。

ドアが開く。


出てきたのは、見覚えのない中年の男。

でも目だけは、さっきから見てきた“手順の目”。


男は回覧板を見る前に、僕の封筒を見た。

「拾得礼:1」のスタンプを。


そして、にやりと笑った。


「……いいね」

「ちゃんと拾ってる」

「じゃあ次は――落としてもらおうか」


僕は息を呑んだ。

呑むと言うな。

でも呑んだ。


男は玄関の床に、何かを落とした。

わざと。

コトン、と軽い音。


それは――僕の免許証だった。


ありえない。

僕の免許証は財布に入っている。

財布はポケットにある。

触って確認した。

ちゃんとある。


なのに、床に落ちているのは、僕の免許証。

僕の顔。僕の名前。

住所。


男が、ゆっくり言った。


「拾ってください」

「……拾った方が、返すんだろ?」


(第5話・終わり)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る