第3話:病院で拾ってください(3/30)



父の病室は、病院のいちばん奥にあった。

廊下の蛍光灯は白く、消毒液の匂いが鼻の奥に残る。

この匂いは“清潔”のはずなのに、今日はやけに薄気味悪い。

白すぎるものは、隠す場所が多い。


面会時間は短い。

父は点滴をつけたまま眠っていて、起きても会話は途切れがちだった。

疲れているのか、痛みなのか、薬のせいなのか。

僕には分からない。

分からないことが増えると、人は“手順”にすがる。


僕は、父の枕元の小さな棚に、例の封筒を置いていった。

拾得のお礼の千円。

「なんだこれ」と言われるのが怖くて、何も言わずに置いた。

無言の行為は、町のやり方に似ている。

気づいた瞬間、胃が冷えた。


病室を出て、廊下に出た。

時計は17:49。

あの通知には、こうあった。


> 本日 18:10 拾ってください。




拾う時間まで、あと21分。


“病院で拾ってください”

そう書かれたメモ紙を、車のメーターで見つけた。

落とす場所:病院。


……つまり、ここで何かが落ちる。

落ちるものは、僕のために落ちる。

僕が拾うために落ちる。


そんな馬鹿な、と言いたい。

でも、神社の箱で“消えた鍵”を見た後では、否定が弱い。

否定は、現実に負ける。


僕は売店の前のベンチに座り、意味もなく自販機の飲み物を買った。

喉が乾いていた。

乾きは、怖さの症状だ。


病院のロビーは人が多い。

見舞い帰りの家族、看護師、業者。

誰も僕を知らない。

なのに、妙に視線が引っかかる。


――田舎の病院だ。

ここも“町”の中だ。


18:05。

僕のスマホが震えた。


> まもなく拾ってください。

拾った方が返します。




「拾った方が返す」

その文だけが、頭の中で反芻される。

返すほど深くなるのに、返さないと終わらない。

完璧な矛盾の罠。


18:09。

ロビーの入り口がざわついた。

救急のストレッチャーが通る、あの硬い音がした。

担架の車輪の音。

それが、僕の心拍に合ってくる。

合ってくると言うな。

でも合ってくる。


僕は、なぜか立ち上がっていた。

逃げるでもなく、近づくでもなく、ただ“その場で”待つ。

待ってしまう。

それが、役目の始まり方だ。


18:10。

ぴったり。


ストレッチャーがロビーを横切った瞬間――

床に、何かが落ちた。


カラン、と音がした。

小さな音。

でもロビーの雑音の中で、その音だけがやけに澄んで聞こえた。

僕だけに聞こえたみたいに。


落ちたのは、名札だった。

透明のケースに入った病院の名札。

落としたのは、ストレッチャーを押していた看護師の一人……のはずだ。

でも看護師たちは止まらない。

落としたことに気づかない。

気づかないのが、不自然すぎる。


名札は僕の足元に滑ってきて、ぴたりと止まった。

ぴたり。

止まったと言うな。

でも止まった。

まるで“ここで拾え”と指定されたみたいに。


僕は息を呑んだ。

周りを見回す。

誰も気にしていない。

いや、気にしていないふりをしている。

見ないことで、手順を守っている。


名札には、写真と名前。

名前が見えた瞬間、頭が冷えた。


津田 恒一


……僕の名前だ。


写真も、僕だ。

免許証の写真みたいに不機嫌で、現実味がない。

でも確かに僕。


名札の下に、小さな印刷。


病棟:3階 精神科

役割:家族対応


精神科?

家族対応?

僕は患者じゃない。

僕は見舞いに来ただけだ。


手が震えた。

震えると言うな。

でも震えた。

そして、僕は名札を拾ってしまった。


拾った瞬間、スマホが震える。

画面には短い通知。


> 拾得完了。ありがとうございます。

役目:開始。

返してください。




返せ。

また返せ。


“拾った瞬間から、その人の役目が始まる”

骨格に書いた通りの現象が、僕の現実で起きている。


僕は名札を握りしめたまま、ストレッチャーが消えた廊下の方へ足を向けていた。

止まれ、と頭では思う。

でも身体は動く。

身体が動くのは、町がもう僕の足首を掴んでいるからだ。


廊下に出ると、救急の喧騒は少し遠くなる。

その代わり、病院の静けさが濃くなる。

静けさは、悪い考えを増幅する。


壁の案内板に「精神科外来」の文字が見えた。

矢印が、3階へ。

エレベーターの方向へ。


名札の裏には、手書きのメモが挟まっていた。

誰が書いた?

いつ?


「3階 面談室2」

「家族には、説明が必要です」

「拾った方が、説明します」


説明。

家族対応。

面談室2。


僕は嫌な想像をした。

父の病室は3階じゃない。

でも“家族説明”という言葉は、父に直結する。

入院。説明。家族。

それは、病院で一番怖い組み合わせだ。


エレベーターの前に立つと、扉が勝手に開いた。

中に、誰もいない。

なのに開く。

人を待っているみたいに。


僕は一歩、乗り込んだ。


扉が閉まる直前、背後から声がした。


「……津田さん?」


振り返ると、看護師が立っていた。

さっきストレッチャーを押していた看護師だ。

彼女は僕の胸元の名札を見て、ほっとした顔をした。


「よかった」

「名札、拾ってくださったんですね」

「……じゃあ、お願いします」


お願いします。

その言い方が、昨日の自治会の女性と同じだ。

“お願いします”はお願いじゃない。

役目の確認だ。


僕は、声が出なかった。

出ない声の代わりに、エレベーターの扉が閉まった。


行き先のボタンは、勝手に3階が点灯している。


(第3話・終わり)

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