第2話:返してください(2/30)



朝、目が覚めた瞬間から、身体のどこかが「遅れるな」と言っていた。

時計は6:12。普段なら二度寝する時間だ。なのに目が冴えている。

眠気じゃなく、義務が起きている。


台所に行くと、昨夜受け取った菓子折りがテーブルの上に置かれていた。包装紙の角がきっちり揃っていて、まるで誰かが寝ている間に整えたみたいだった。


鍵は、靴箱の上にあった。

置いたはずの場所。

でも――向きが違う。

木札の文字が、玄関に入る人に読める角度に合わせてある。


拾ってください


いや、もう拾ってる。

なのに、まだ命令形のまま。


僕は鍵をポケットに入れ、車に乗った。

病院へ行く前に、神社へ寄る。

寄るだけ。返すだけ。

それで終わる。終わらせる。


そう自分に言い聞かせながら坂道を上がると、神社の鳥居の前に人が集まっていた。

朝七時前なのに、妙に賑やかだ。

お年寄り、主婦、制服の高校生。

そして、昨日の“自治会の女性”もいた。


僕の車が境内の砂利を踏む音がすると、視線が一斉に向く。

見られている、じゃない。

数えられている。


女性が近づいてきて、深く頭を下げた。


「おはようございます。早いですねぇ」

「ええ、ええ。正しいです」

「返すのは、早い方がいい」


正しい。

正しいという言葉は、ここでは褒め言葉じゃない。

判定だ。


「箱はあちらです」


女性が指さしたのは、社務所の裏――古い掲示板の横だった。

確かに小さな木箱が置かれている。

賽銭箱を小さくしたような、蓋付きの箱。


箱の前には、すでに列ができていた。

――返しに来ている? こんな朝から?


列の先頭にいたおじいさんが、何かを箱に入れて、手を合わせた。

パン、パン。

拍手。

神社への参拝の拍手じゃない。

“入れる行為”への拍手。


次に主婦が小さな布袋を入れた。

次に高校生が、スマホケースのストラップみたいなものを入れた。

拾得物?

いや、落とし物って、こんなに毎朝あるものじゃない。


僕の番が来た。

女性が僕の横に立つ。監督みたいに。


「では」

「返してください」

「……拾った方が、返す」


僕は木札付きの鍵を取り出した。

箱の蓋は、なぜか軽い。

開けるのが“許可”みたいに簡単だ。


中を覗くと、箱の中には――何もない。

空っぽ。

さっきおじいさんも主婦も高校生も入れたはずなのに、空っぽ。


「……え?」


口から出た声が、僕自身を驚かせた。

女性は驚かない。


「入れたら、消えます」

「そういう箱です」

「町が困らないように」


町が困らないように。

昨日と同じ言い方。

同じ言い方は、逃げ道を減らす。


僕は鍵を箱の中に入れた。

カタン、と小さく音がした。

そして――鍵は、本当に消えた。

落ちたはずの鍵が、箱の底にない。


息が止まる。

止まると言うな。

でも止まった。


女性が穏やかに言った。


「終わりましたね」

「これで、あなたの役目は終わりです」


役目が終わり。

その言葉に、ほっとするはずだった。

なのに胸の奥が冷えたままなのは、なぜだ。


そして、女性は続けた。

声が、昨日より少しだけ柔らかい。


「……では、お礼です」


またお礼。

昨日ももらった。

今日も?


女性が渡してきたのは、小さな封筒だった。

封筒の表には、僕の名前。


津田 恒一 様


手書き。

僕は名乗っていない。

名札もつけていない。

なのに、名前がある。


封筒を開けると、中には千円札が一枚入っていた。

“拾得のお礼”としては妙に生々しい。

菓子折りより、ずっと重い。


「……いや、これ、受け取れません」


僕が言った瞬間、周りの視線がわずかに尖った。

鋭い、じゃない。

揃う。


女性が、笑った。


「受け取ってください」

「受け取らないと、返したことになりません」


返したことにならない。

返したのに。

箱に入れたのに。

消えたのに。


「そんな……」


女性は、声を落とした。

優しさじゃなく、圧で。


「返すっていうのはね」

「物を戻すことじゃないんです」

「役目を、閉じることなんです」

「役目を閉じるには、“お礼”が必要なんです」


役目を閉じる。

儀式だ。

儀式は、途中で止めると一番怖い。


僕は封筒を受け取ってしまった。

受け取った瞬間、空気がまた“整う”。

周りの人の肩がほんの少し下がる。

まるで僕が正しい手順を踏んだのを見届けて安心したみたいに。


女性が言った。


「よかった」

「これで、次が始まります」


――次?


僕は思わず聞き返した。


「役目、終わりって……」


女性は、僕の目を見た。

目が、優しい。

優しいほど怖い。


「あなたの“拾った役目”は終わりました」

「でも」

「あなたにはもう一つ、役目ができたんです」

「……落とし物の縁が、つきました」


縁。

縁がつく。

祝福みたいに言う。

呪いを祝福の形で言う。


そのとき、僕のポケットの中でスマホが震えた。

通知。知らない番号。昨日と同じ。


> 返却完了。ありがとうございます。

次は、あなたが見つけます。

本日 18:10 拾ってください。




本日18:10。

指定。

“拾う”のが予定に組み込まれている。


僕の口の中が乾いた。

乾くと言うな。

でも乾く。


女性が、最後に一言だけ残した。


「探さないでくださいね」

「……見つかっちゃうから」


見つかっちゃう。

まるで落とし物が意思を持っているみたいな言い方。


僕は神社を出た。

鳥居の外に出た瞬間、朝の空気が少しだけ重くなった気がした。

町が、僕の背中を押している。


車に乗り込み、エンジンをかけた。

メーターの下に、小さなメモ紙が挟まっているのに気づく。

いつ入った?


紙には、同じ字。


拾ってください


そして、その下に小さく。


落とす場所:病院

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