拾ってください
ぼくしっち
第1話:拾ってください(1/30)
帰省のたびに思う。
この町は、やけに人の顔を覚える。
駅前のコンビニに車を止めると、店員の若い子が会釈した。知らない顔のはずなのに、視線が妙に「知っている」寄りだ。
レジ横には回覧板の束。「自治会だより」「防犯パトロール当番表」「神社清掃のお願い」。紙の角が揃いすぎていて、息が詰まる。
――三年ぶり。たった三年。
東京で働いている僕、**津田 恒一(つだ こういち)**は、父が入院したと聞いて慌てて戻ってきた。
病院の面会は短時間で終わり、残ったのは、実家の空気と、夜の時間だけだった。
家に帰る道は暗い。街灯が少ないのは「星が綺麗だから」と言われるけど、星は僕の足元を照らしてくれない。
砂利の音だけが、やけに大きい。
曲がり角の先、神社へ続く細い坂の入口で、何かが光った。
反射。
小さな、金属の鈍い光。
僕は立ち止まった。
道の端に、鍵が落ちている。
家の鍵じゃない。車の鍵でもない。
小さなキーホルダーがついていた。よくある、神社の根付みたいな木札。
木札には、黒い文字が一行。
「拾ってください」
……そのままじゃないか。
一瞬、誰かのいたずらだと思った。
でも町の暗さの中で、その文字は妙に具体的で、妙に丁寧だった。木札の表面がやけに新しい。雨に濡れた形跡もない。
拾うべきだ。
拾わなければ。
そんな考えが、僕の中で勝手に「当然」になる。
僕はしゃがみ込み、鍵を拾った。
冷たかった。
ただの金属の冷たさじゃない。
皮膚の奥に残る冷たさ。
小さな罪悪感みたいな冷え。
帰宅してからも、鍵はポケットの中で存在感を主張し続けた。
夕食を済ませ、父のいない居間でテレビをつけても、鍵が気になる。
風呂に入っても、鍵が気になる。
“落とし物を拾った”という事実が、やけに重い。
普通、拾得物は交番へ。
明日届けよう。
それで終わる。
そう思いながら、僕は鍵をテーブルの上に置いた。
木札の文字が、部屋の蛍光灯の光で浮かび上がる。
拾ってください
まるで、まだお願いしているみたいだった。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
――こんな時間に?
時計は21:17。
田舎でこの時間の来客は、だいたい「用事」しかない。
僕は息を止め、そっと玄関へ近づいた。
覗き穴から見ると、外に立っているのは女性だった。
近所の人だろうか。年は四十代くらい。薄い上着。表情はやけに穏やかで、穏やかすぎる。
チャイムがもう一度鳴る。
長押しじゃない。律儀な間隔。
僕がドアを開けると、女性は深く頭を下げた。
「こんばんは。突然すみませんねぇ」
方言が柔らかい。
でも言葉の端が揃いすぎている。回覧板みたいに。
「自治会の者です。落とし物の件で」
……なぜ知ってる。
僕は何も言ってない。
鍵を拾ったことも、交番に届けるつもりだということも。
それなのに、彼女は「落とし物」と言った。
「え、いや、さっき拾ったばかりで……」
女性はにこりと笑った。目だけが笑っていない。
「ええ。そうですね。拾ってくださってありがとうございます」
拾ってくださって。
その言い方が、妙に決まっていた。
まるで、僕が拾うことが最初から決まっていたみたいに。
女性は手に持っていた紙袋を差し出した。中身は小さな菓子折り。
「お礼です。ほんの気持ち。町の決まりでして」
「拾った方には、まずお礼をお渡しすることになってるんです」
町の決まり。
そんな決まり、聞いたことがない。
僕は反射で受け取ってしまった。
受け取った瞬間、女性の表情がほんの少し緩む。
「それから……」
女性は玄関の靴箱の上に視線を落とした。
僕が何気なく置いていた鍵が、そこに見えている。
見えているだけで、彼女は確信している。
「その鍵、返す場所があるんですよ」
「交番じゃ、うまくいかないかもしれない」
「いえ、あなたが困るって意味じゃなくて」
「……町が困るんです」
町が困る。
どうしてそれが、僕の責任になる。
女性は優しい声のまま、言葉を足していく。
「明日の朝、神社に来てください」
「社務所の裏の、古い掲示板のところ」
「鍵を置く箱があります」
「そこに入れるだけで大丈夫です」
「簡単でしょう?」
簡単。
簡単という言葉ほど、罠の入口に似ている。
僕は咄嗟に言った。
「交番に届ければ……」
女性の笑顔が、消えた。
怒ったわけじゃない。
笑う必要がなくなった顔。
「……交番、ですか」
「都会のやり方ですねぇ」
その一言で、僕は自分が「外」になった気がした。
この町では、外のやり方は異物だ。
異物は、整えられる。
女性は、再び頭を下げた。
「お願いです」
「拾った以上、返してください」
「拾った方が返す。そうしないと、次が始まるんです」
次。
次って何だ。
僕が聞き返す前に、女性は踵を返した。
去り際に、ぽつりと落とす。
「拾ってください、って書いてあったでしょう」
「……あれ、お願いじゃないんです」
「役目なんですよ」
役目。
玄関の外は暗く、女性の背中はすぐに闇に溶けた。
気配だけが残る。
回覧板の紙の匂いみたいな気配。
ドアを閉めた瞬間、家の中が一段冷えた。
エアコンはついていない。
それなのに、冷える。
僕は靴箱の上の鍵を見た。
木札の文字が、さっきより濃く見える。
拾ってください
まるで、もう一度拾えと言っているみたいだった。
いや違う。
拾ったのは僕だ。
もう拾っている。
なのに、文字はまだ“現在形”だ。
僕のスマホが振動した。
知らない番号からのSMS。
> 拾ってくださってありがとうございます。
明日、神社で返してください。
返すほど、深くなります。
最後の一文で、指先が冷えた。
返すほど、深くなる。
返すのが正しいはずなのに、返すほど深くなる。
じゃあ何が正解なんだ。
机の上の菓子折りが、やけに綺麗に見えた。
包装紙の角が揃いすぎている。
回覧板みたいに。
僕は、鍵を握り直した。
金属の冷たさが、皮膚の奥まで残る。
明日の朝、神社へ来い。
来ないと、町が困る。
来ると、次が始まる。
……どっちに転んでも、もう僕の生活じゃない。
鍵の木札が、蛍光灯の下で静かに揺れた。
揺れているのに、音はしない。
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