3話

第三話:均衡訓練(整稿版)


 朝の鐘が鳴る前に、七二一は目を覚ました。

 眠りが浅いまま、意識だけが浮上したのだ。


 天井は灰色。昨日と同じ、ひびの位置。

 しばらく瞬きもせずに見つめ、それからゆっくりとまぶたを閉じる。


 眠い。

 体が重い。


 訓練の疲労というより、奥に残った「熱」の名残が、体温を奪っている感覚だった。


 ――トク。


 鼓動は、昨日より静かだ。


「……起きるか」


 小さく呟き、上体を起こす。

 足を床につけた瞬間、石の冷たさが伝わる。その感触だけが、今の現実を保証していた。


 洗面台で顔を洗う。

 鏡に映る自分は、いつもの七二一だ。目の下に薄い影はあるが、異常はない。


(見えない)


 壁にも、自分にも、線は走っていない。

 安堵ではない。ただの確認。


 制服に袖を通す。布の擦れる音が、やけに大きく響いた。


 廊下に出る。

 同じ足音が並ぶ。誰も喋らない。眠気を押し殺した顔が、番号順に歩いている。


 整列。


「七二一」


「……はい」


 声は平坦。喉の奥に違和感はない。


 武器庫で量産型の刃を受け取る。

 冷たい鉄の重み。


 握りをわずかに変える。

 昨日より、ほんの少し軽く感じた。


 模擬訓練開始。


 標的が展開し、床を滑る。訓練用の疑似異形。


 踏み込む。振る。反動が腕に返る。


 四撃目、五撃目。呼吸は一定。


 六撃目――。


 視界の端に、細い白線が走った。


 標的ではない。

 空間の、わずかな継ぎ目。


 そこに刃を通せば、標的も、その向こうの空気も、まとめて終わる。


 七二一は、規定通りの軌道で刃を止めた。


 木製標的が、定められた通りに崩れる。


 隊長が頷く。


「良い。無駄がない」


 七二一は一歩下がる。


 眠気は消えていた。

 代わりに、不自然な全能感の残滓が胸を焼く。


 訓練終了。


 武器を返却し、廊下へ出たときだった。


「おはよ」


 振り向く。


 胸元の番号は、一二七。


 黒髪を後ろで束ねた少女。

 目は眠そうに細められている。


「朝、弱いんだよね。あなたは平気そう」


「……いつも通りです」


「へえ」


 彼女は並んで歩き出す。

 足取りは軽い。だが歩幅は正確で、無駄がない。


「さっきの六撃目」


 何気ない口調。


「斬れたよね?」


 七二一は足を止めず、黙秘する。


「空間、ちょっと歪んでた」


 心臓が、一度だけ強く打つ。


「見えてた?」


 冗談めいた声音。

 だがそこには、獲物の喉元を撫でる刃の冷たさがあった。


「……何がですか」


「そっか。まだ眠いだけかもね」


 一二七は笑う。

 だが、その目は笑っていない。


 一瞬だけ。


 七二一は彼女の視線の奥に、自分と同じ「揺れ」を見た気がした。


 彼女の指先が、さりげなく手首に触れる。


 冷たい。


 その奥に、壊れかけの時計のような細かい振動があった。


 彼の「熱」とは違う、凍てつく震え。


「無理しないでね、七二一」


 番号ではなく、名前のように呼ぶ。


 一二七は角を曲がる。

 その背中には、この歪な環境を楽しんでいるような、奇妙な余裕があった。


 七二一は立ち止まらない。


 歩き続ける。


 眠気は消えた。

 胸の奥で、小さな熱が再び灯り始めている。


 遠く、監視レンズが淡く光る。


 どこかで記録が更新される。


 均衡は保たれている。


 まだ、人間の動作の範囲で。

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