私の後悔
北葉
「 」
その日は起きた瞬間から、嫌な予感が肌を纏っていた。
いつも通りの時間、アラームの音で目覚める。ゆっくりと身体を起こし、顔を洗って服を着替え、化粧を施す。身なりを整え終わったらコーヒーを淹れて、朝食用のトーストと一緒にローテーブルに並べる。 そうしてすべての準備が整ったらテレビをつける。
その瞬間だった。
幼なじみの名前と顔が小さな画面に映る。「死亡」という見慣れない文字と共に。
最後に
家の前に誰かいる。一瞬身構えたけれど、すぐに見知った人物だと気づき、私は慌てて駆け寄った。
「大樹?」
中学校を卒業してから3年間、ずっと音沙汰がなかった幼なじみ。大樹はぐっと背が伸びて、たくましい体つきになっていた。すっかり大人びたのにすぐに大樹とわかったのは、これまで彼と過ごしてきた私の直感がすぐに働いたからだった。
大樹はうちの表札に寄りかからせていた背中を起こし、そのまま目だけを私に向けた。暗く、淀んだ瞳だった。
「どうしたの?こんな寒いのに1人で……。とりあえず中入ってよ。お母さんもお父さんもいないから」
突然の再会に思っていたよりも動揺しているらしい。私の舌は忙しなく動く。けれど大樹は私の声が耳に入らないのか、何も言わなかった。
喋るたびに白い息が視界を染める。私はマフラーをしているけれど、大樹の首元は寒そうだった。
大樹は見慣れないスーツを着ている。私と同じ18歳のはずなのに、妙に貫禄がある。
大樹は高校に行かなかったから制服を持っていないのだろうけれど、それでも、スーツというのは違和感があった。 もう3年目になる制服を着ている私と大樹じゃ、どう見ても釣り合わない。
「大樹……?」
私はそっと、大樹に手を伸ばす。 瞬間、大樹の大きな手のひらが私の手を拒絶した。 パン、と乾いた音がする。
「……どうしたの」
大樹が私を拒絶したなんて初めてだった。
気の弱い私を、大樹はいつも守ってくれた。クラスの男の子に意地悪をされたとき、近所の中学生に目をつけられたとき、いつも私の前に立ってくれた。お父さんとお母さんが喧嘩をして、不安で眠れない夜は、同じ布団にくるまって隣にいてくれた。
そんな大樹が、私の手を払った。 怒りも悲しみも湧いてこなかった。そのかわり、「どうして」ともう一度呟く。
「別れを言いに来た」
低い声だった。本当に大樹の声なのか、私は一瞬自分の耳を疑った。 けれど確かに大樹の唇がそう動いていた。私はぼんやりとした頭のまま、言葉の続きを待つ。
「もうお前に会うことはない」
「……なんで」
「……」
「大樹が悪いことしてるって、私知ってるよ」
大樹が小さく顔を上げる。猫みたいな目からは光が失われていた。それでも私は、真っすぐに彼の目を見つめ返す。
「大樹のことならなんでもわかるよ」
大樹の家はもともとあまりいい環境ではなかった。父親はその筋の人で、大樹や大樹のお母さんに暴力を振るっていたことを知っている。 そして大樹が、大きくなるにつれて、父親の後を追うようにどんどん道を外れていっているのもわかっていた。
大樹に関する悪い噂はすぐに校内に広まった。万引きなんて可愛らしいものだ。薬物、強盗、殺人―――どれが嘘でどれが本当かわからない。
私が大樹に声をかけようとすると、周囲の人間は真剣な顔で止めた。あなたとは世界の違う人なのだと言われた。
世界が違うって何だろう。私は大樹の好きな食べ物もよく聞いている音楽も、本当は一人の夜が怖いことも、なんだって知っているのに。私と同じ人間なのに。
だけど私は臆病だった。小さな人間だった。大樹よりも自分を取った。
どんどん遠くに行ってしまう大樹を引き留めなかった。
堕ちていくのを、止められなかった。
「大樹が悪いことしてても、何しても、私は大樹が大切だよ」
大樹は答えない。
「大樹に会えて嬉しいよ」
薄情な私に会いに来てくれた。 それは間違いなくSOSだって、ちゃんとわかるよ。
大樹、ともう一度呼ぼうとした瞬間、大樹はそれを取り出した。 真っ黒な銃口が真っすぐ私の額に向かう。
初めて見るそれに、私の足は震える。
「何もわかってない、お前は」
銃口は向いているのに、大樹の目は私を映していなかった。
「俺はもう、お前とは世界が違う」
助けて、と泣いているように聞こえた。
「だから……だからもう、」
「大樹」
私は自分から大樹に一歩、近づいた。驚いて後ずさる大樹を無視して、銃をひったくる。そのまま銃口を自分の額にぴたりとくっつけた。ひんやりとした感触に眩暈がする。自分の行動が信じられなかった。
「私、大樹と一緒なら怖くないよ」
小さな子に言い聞かせるように言葉を紡ぐ。大樹は大きく動揺していた。どうしたらいいかわからない、そんな迷子の子どもみたいな顔だった。
それからまた、何を言おうとしたのか。自然と開いた唇は、大樹がどこからか取り出した布によって塞がれた。ハンカチか何かが強く口と鼻を塞ぐ。驚いている間に、どんどん意識が遠のいていく。
「ごめん、
薄れゆく意識の中、確かに大樹の声が聞こえた。
頬に涙が落ちてきた気がした。
「由架?どしたの、顔色悪いよ?大丈夫?」
同僚の気遣いに曖昧に笑みを返す。今朝見たニュースが頭の中を離れなかった。
今朝は朝食を口にできなかった。何を含んでも戻してしまう気がした。足はおぼつかなく、ところどころ意識が飛んでいる。それでも会社にはたどり着けてしまうのだから不思議なものだ。これが私の当たり前なんだとぼんやり思う。
「そういえばさ、今日怖いニュースやってたよね。見た?」
何気ない言葉に指が震えた。なあに、と返したつもりだ。実際声に出ていたかはわからない。
「ほら、ヤクザの人が海で死んでたってやつ。ウチらとタメの!全然知らない人だけどさ、怖いよねー」
声が出ない。頭が熱い。足が震える。
「でもま、自業自得だよねー。ヤクザってことは悪いこといっぱいしてたんだよね?じゃーいつ死んでもおかしくないっていうかー。死んで当たり前っていうか……由架?由架、どしたの?」
呼吸ができない。
あの夜が明け、私は早朝に目が覚めた。ぼんやりした視界は見慣れた天井を映した。昨晩のことは夢だったのだろうと結論付けた。そうしてそれからの日々を、ただ普通に、当たり前のように過ごした。
それでもどこか心に穴が開いていた。夢の中で大切な人のSOSを見逃した罪悪感が、いつまでも胸の内に広がっていた。
夢じゃない。夢なわけがない。だって私の中の大樹はスーツなんて着ない。銃なんて持ってない。あれが夢なら、中学のときの幼い大樹が目の前に現れたはずなのに。
どうして手を伸ばせなかったのだろう。大丈夫だよと抱きしめてあげられなかったのだろう。大樹はきっと、たくさん「助けて」って言っていた。
「由架!先輩っ、由架が!」
ごめんは私の台詞だ。だけどどれだけ後悔してももう遅い。大樹はもう、本当に私の手の届かない場所に行ってしまった。
崩れ落ち、涙を流す私の背を、同僚が必死に撫でてくれている。こんな風に私も、泣いているあなたに寄り添いたかった。それが私の、これから死ぬまでずっと抱え続ける、たった一つの後悔だった。
私の後悔 北葉 @kitababba
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