第12話ㅤ湯気の向こう側

昼を少し過ぎたアトラボ一階のカフェには、ひと息ついたあとの静けさが残っていた。


三階で行っていた『音のない街』の検証共有が終わり、林悠真はノートPCを閉じたまま、まだ席を立てずにいた。


会議室では、高澤と白石が次の承認範囲を確認している。


相沢と凪は、追加の素材を見に三階へ戻った。


残ったのは、林と桧山だった。


「少し、下で話しませんか」


先に言ったのは林だった。


桧山は一瞬だけ意外そうな顔をしたあと、頷く。


「いいよ」


それで二人は、一階のカフェへ降りた。


食器の触れ合う音も遠く、店内には昼の忙しさが少しだけ残っている。


窓際の席に、やわらかな冬の光が落ちていた。


木目の梁。


少し低い天井。


壁際には古い棚。


新しいビルの中にあるのに、ここだけ時間の流れが少し違う。


林はコーヒーカップを両手で包んでいた。


この建物がまだ別の名前だった頃から、システム開発にいた。肩書きはずっとリーダーのまま。変わらないまま、現場の中心にいた人間だった。


向かいには桧山がいる。


外からアトリへ入ってきて、いつの間にか三階と外部の間を走り回るようになった男。


今は、アトラボの外側へ出る言葉を引き受けている。


紅茶のカップに手を添え、砂糖は入れていない。


ガラス越しに中庭が見えた。


冬の光を受けた植栽が、少しだけ白く光っている。


その上階で、三階はいつも通り動いているはずだった。


ここからは見えない。


けれど、見えないまま繋がっている。


桧山が店内を見回す。


「ここ、何回来ても落ち着くな」


林が少し笑う。


「元々、古民家カフェだったんです。昼休みになると、アトリの人間が普通に流れてきてました」


桧山が目を上げる。


「へえ」


林は窓際の木枠へ視線を向けた。


「この辺、昔は小さい店が並んでいて。カフェだけじゃなくて、弁当屋とか、古い喫茶店とか」


木枠を見たまま続ける。


「建て替える時、菜々美さんの店の雰囲気だけは残したいって話になったんです」


桧山もつられて天井を見上げた。


梁。


照明。


木の色。


「……なるほどな」


紅茶をひと口飲む。


「妙に浮いてると思った」


林が肩を揺らす。


「褒めてます?」


「褒めてる」


会話が一度途切れる。


店の奥で、カップが重なる音がした。


エスプレッソマシンの低い作動音が続く。


林が先に口を開いた。


「昨日のログ、まとめました」


桧山は頷く。


「見た。きれいだったな」


林が少しだけ笑う。


「整ってないと落ち着かなくて」


「分かる」


あっさりした返事だった。


林は少し意外そうに目を上げる。


「否定されると思ってました」


「なんで」


「桧山さん、外の圧ばっか見てるイメージあるので」


桧山は紅茶を置いた。


「外を見るには、中が崩れてない方がいいだろ」


林は小さく頷く。


「それはそうですね」


窓の外で雲が流れ、光の角度が少し変わる。


林が続ける。


「正直、最初は様子見てました」


「俺を?」


「はい」


林は淡々としている。


「外から来た人って、言うだけ言って現場知らない人も多いので」


桧山は笑う。


「厳しいな」


「長いので」


それだけで足りた。


林はコーヒーをひと口飲む。


「でも桧山さん、ちゃんと中を見てる」


視線を上げる。


「そこは、信用してます」


桧山の表情が少しだけ変わった。


軽口では流さなかった。


「……ありがとな」


短い声だった。


林は続ける。


「僕は触る側でいたいんです」


「知ってる」


「管理だけになると、温度が薄くなる気がして」


桧山はすぐに頷く。


「現場の温度は、数字より先に下がるからな」


林の口元がゆるむ。


「分かります?」


「しばらく一緒にやってりゃ分かる」


その言い方で、距離が少し縮まった。


桧山が言った。


「じゃあ俺が外を見る」


林が顔を上げる。


「外圧、来ますよね」


「来る。絶対来る」


落ち着いた声だった。


「あれを単体で切り出さない件、広報と企画は黙ってない」


林は息を吐く。


「ですよね」


「その時は俺が前に出る」


林は少し黙り、それから真っ直ぐ返した。


「助かります。中は回しておきます」


桧山は紅茶のカップを置く。


「頼む」


林は頷く。


「深くします」


「置くんだろ」


林が少し照れたように笑う。


「はい。置きます」


その時、エスプレッソマシンの蒸気が上がった。


白い湯気が高く立ちのぼる。


林がふと思い出したように言う。


「もう若手って年でもないので、今さら肩書きだけ増えても困るんです」


桧山は鼻で笑った。


「肩書きなんて記号だろ」


林は肩をすくめる。


「そう言ってもらえると安心します」


桧山は少しだけ真顔になる。


「減ってない」


林が首を傾げる。


「何がですか」


「人。現場の人数も、熱も」


林はその言葉をゆっくり受け取る。


それから静かに笑った。


「……ですね」


天井の向こうで、三階はいつも通り動いている。


社歴は林の方が長い。


この場所の昔を知っているのも、林の方だった。


外を見る力は、桧山が強い。


役割は違う。


立つ場所も違う。


それでも、同じ建物の中で、同じ方向を向いていた。


湯気はもう薄い。


けれど、カップの底にはまだ温度が残っていた。


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