第13話 黒字の温度

アトラボ四階の会議室は、夜になると少しだけ冷たく見えた。


窓の外にはビルの灯りが並び、机の上には薄い資料が三部置かれている。


厚くはない。


けれど、そこに並ぶ数字は軽くなかった。


加藤瑠衣はタブレットを操作し、モニターへグラフを映した。


滞在時間。


再訪率。


視聴維持率。


それぞれの線が、静かに画面の上を伸びている。


「現状から共有します」


声は落ち着いていた。


「統合後三ヶ月。開発費は前年比一・四倍。売上は横ばいです」


凪が腕を組む。


「増えてねえのか」


「まだです」


加藤は表情を変えない。


「ただし、接触深度は上がっています」


画面が切り替わる。


青い線が、ゆるやかに右肩へ伸びていた。


「ゲーム内滞在時間は平均でプラス十八%。再訪率はプラス九%」


高澤が資料をめくる。


「黒字ラインは」


「現状維持なら、三年以内です」


加藤は迷わず答えた。


室内が、少しだけ静かになる。


三年以内に黒字化。


九条千景と交わした条件だった。


Auroraを吸収させないための線。


自由を守るために、数字から逃げないという約束。


相沢は椅子の背にもたれ、天井を見る。


「三年って、長いな」


「短いです」


加藤は即答した。


「壊さずに回すなら」


相沢は少しだけ笑った。


「嫌な正論」


「数字なので」


画面に、交差点の映像が映る。


『音のない街』。


信号。


遠景のビル。


歩く人影。


まだ音は鳴らない。


加藤はその画面をしばらく見てから言った。


「この素材についてです」


相沢の視線が、少しだけ下がる。


「素材って言うな」


「では、作品」


「それも違う」


「では、相沢さんの遊び」


凪が吹き出した。


「一番ひどい」


相沢は笑わなかった。


けれど、不快そうでもなかった。


モニターの中で、信号が青に変わる。


音のない街は、静かに動き続けている。


加藤は資料を一枚だけ送った。


「切り出して外へ出せば、数字は動きます」


室内の空気が少し締まる。


「相沢さんの声、凪さんの音、古いプロトタイプ。話題性はあります。短期的には、再生数も取れます」


凪が口を開く。


「やるのか」


「やりません」


返事は早かった。


相沢が顔を上げる。


「やらないのか」


「はい」


加藤はモニターを見る。


「今は、回収しません」


その言葉で、部屋の温度がわずかに変わった。


回収しない。


売らない、でもない。


出さない、でもない。


そこにあるものを、会社の都合で先に拾い上げないという判断だった。


高澤が静かに聞く。


「理由は」


「早すぎます」


加藤は答える。


「今これを商品にすると、短期的には強いです。でも、相沢さんが責任から少し外れて触っているものが、すぐ会社の案件になります」


相沢は黙った。


凪も茶化さなかった。


加藤は続ける。


「それは、長期的に損です」


高澤が目を細める。


「数字で言えるか」


「言えます」


加藤は迷わない。


「相沢さんが責任なく触れる場所がなくなると、次の素材が出ません。次の素材が出なければ、半年後、一年後の接触深度が落ちます」


モニターの青い線が、静かに伸びている。


「今ここで売上を作るより、触り続けられる場所を残した方が、長く回ります」


林が小さく頷いた。


「ログ上も、その方が自然です」


凪が横を見る。


「ログで自然とか言うな」


林は表情を変えない。


「不自然な回収は、離脱点になります」


相沢がそこで、少しだけ笑った。


「俺が離脱すんのか」


「可能性はあります」


「正直だな」


「正直に言う場なので」


高澤がモニターを見る。


『音のない街』の交差点。


音はまだ鳴っていない。


けれど、そこにはすでに、誰かが触れたあとの深さがあった。


「つまり」


高澤が言う。


「相沢の遊び場として残す」


相沢が横目で見る。


「言い方」


「必要だ」


高澤は淡々と返した。


「全部を仕事にすると、相沢が止まる」


「止まんねえよ」


「遅くなる」


相沢は言い返さなかった。


少しだけ、椅子の背に沈む。


「……まあ、仕事にされたら萎えるな」


凪が笑う。


「本音出た」


相沢は画面を見たまま言う。


「これ、責任持って出すやつじゃないんだよ」


会議室が静かになる。


「昔の俺が作った変な街に、今の俺らがちょっと触っただけだろ。ちゃんと出すぞって言われた瞬間、たぶん違うものになる」


加藤は頷いた。


「だから、今は回収しません」


「いいのか」


相沢が聞く。


それは確認だった。


会社に対してでも、数字に対してでもない。


ここに置いておいていいのか、という確認だった。


加藤はまっすぐ返す。


「いいです」


少しだけ間を置く。


「黒字化は、別の線で守ります」


高澤が小さく頷いた。


「できるか」


「やります」


「赤字は許されない」


「分かっています」


加藤の声は冷えていない。


けれど、甘くもなかった。


「数字で守れるなら、守ります。でも、何でも数字に乗せればいいわけではありません」


画面が切り替わる。


販売計画ではなかった。


保留リスト。


観測継続。


外部切り出し不可。


ゲーム内実装検討。


相沢が眉を上げる。


「保留?」


「いいえ」


加藤は首を振る。


「置いておく判断です」


林が画面を見る。


「ログは継続します」


桧山が壁際から言う。


「外から聞かれたら?」


「検証中で通します」


加藤が答える。


桧山は頷いた。


「じゃあ、外は俺が見る」


林も静かに続ける。


「中は見ます」


凪が小さく息を吐いた。


「なんか、ちゃんとしてんな」


相沢が画面を見たまま言う。


「ちゃんとするなよ」


高澤が返す。


「ちゃんとしないために、ちゃんとしてる」


相沢は少し黙ったあと、笑った。


「最悪の正論だな」


会議室の空気が、ほんの少しだけ緩む。


加藤は資料を閉じた。


「結論です」


全員を見る。


「『音のない街』は、今は売りません。単体で切り出しません。会社として回収しません」


相沢は何も言わない。


「ゲーム内に置くかどうかは、林さんのログと、相沢さんの判断で進めます。外部展開は、触った人の残り方が見えてからです」


高澤が確認する。


「責任は」


「アトラボで持ちます」


「相沢には」


「持たせすぎません」


相沢が顔を上げる。


「俺、本人なんだけど」


加藤は真顔で言った。


「本人だからです」


その言葉に、相沢は少しだけ黙った。


本人だから、全部背負わせない。


本人だから、遊べる余白を残す。


本人だから、会社が先に回収しない。


それは、昔のAuroraにはなかった線だった。


相沢が小さく言う。


「……変な会社になったな」


高澤は窓の外を見る。


「前からだ」


凪が笑う。


「今さらだろ」


会議が終わる。


椅子が引かれ、資料が閉じられる。


四階の廊下は静かだった。


エレベーター前で、加藤が足を止める。


高澤が隣に立つ。


「いけるか」


加藤は少しだけ息を吐いた。


「いけます」


「黒字」


「守ります」


「音のない街は」


「まだ、置いておきます」


高澤は小さく頷いた。


「それでいい」


エレベーターが開く。


二人が乗り込み、扉が閉じる。


加藤は資料の入ったタブレットを胸の前で抱えていた。


数字は冷たい。


けれど、置き方を間違えなければ、温度を守れる。


黒字は、目的ではない。


速度を守るための土台だ。


相沢が責任を降ろせる場所。


誰かが触れる前に、まだ名づけきらないでいられる場所。


そういう余白を残すためにも、数字は必要だった。


Auroraは壊さない。


壊さないために、すぐには回収しない。


扉の向こうで、アトラボの低い音が続いている。


数字もまた、静かに揺れながら進んでいた。


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